これからの時代のための新たな哲学と美学 ダヴィッド・ラプジャード『ちいさな生存の美学』

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ちいさな生存の美学

『ちいさな生存の美学』

著者
ダヴィッド・ラプジャード [著]/堀千晶 [訳]
出版社
月曜社
ISBN
9784865031348
発売日
2022/04/11
価格
2,640円(税込)

よりちいさな実存たちの方へ

[レビュアー] 築地正明(美学者)

 エティエンヌ・スーリオとは誰か。まず、彼の唱えた「芸術哲学」が、二十世紀の大きな思想的潮流のひとつであった現象学に対して、ある重要な異論を突きつけるものであったことを、本書の著者ダヴィッド・ラプジャードは再発見している。ラプジャードがスーリオを要約しつつ、「現象学は、現象じたいの内側に視点があるということを見ていない」と言う時、彼は単にフッサールを批判しているのではない。スーリオはそこに、現象学とは異質なひとつの驚くべき「芸術哲学」を創建しようとしていたのである。

 著者のラプジャードは、現代フランスの哲学者で、ジル・ドゥルーズ晩年の弟子としてもよく知られている。その彼は、本書の中でスーリオの、芸術哲学の内容を示すとともに、彼に連なるある種の系譜学を描き出していく。本書でスーリオと共闘するのは、たとえば哲学者ウィリアム・ジェイムズであり、作家で弟のヘンリー・ジェイムズ、またフェルナンド・ペソア、ホフマンスタール、カフカ、そしてベケット、さらには現代の先鋭な芸術家たちである。これら広義の思想家や芸術家たちによる実践が、ラプジャードの手によって、スーリオの描く「実存する芸術の多元性を打ち立てる多元的宇宙」の絶えまない運動・生成に参与することになる。十九世紀末に生まれ、おもに二十世紀を生きたスーリオだが、本書においては、あたかも二十一世紀のわれわれに向けて語っているかのようである。ラプジャードはしかし、スーリオの思想を現在風にアレンジして、汎用性を持たせているのではない。そうではなく、スーリオの諸概念を正確に抽出し、問いを整理し、時にはあえて脱線させ、今日的な諸問題に即して再生してみせることがそのまま、そのラディカルな新しさと普遍性を証明しているのである。つまりスーリオの美学、または芸術哲学は、本書の訳者堀千晶氏の言葉を借りるなら、永遠に「反時代的」であることによって、いよいよ現代との不思議な親和性を示すことになるかのようなのだ。

 たとえば第2章で詳述される「潜在的なもの」というスーリオの概念を見てほしい。いかにこの概念が、彼の「実存的多元論」の中で重要な意義を秘めていることか、そしてそれがひとつのマイナーな系譜学として、いかにドゥルーズにまで受け継がれていることか。また、最後の章で扱われる「剥奪された者たち」とは誰か。なぜカフカの独身者は、ベケットの人物たちへと場所を譲ることになるのか。わが身に帰属するものがなくなる時、すなわち何もかも剥奪されてしまう時、人は果たして最後に何を「要求」することになるのか。よりすくない、よりちいさいものとは何か。スーリオから出発して、ついにこのような奇妙な問いが発せられる時、「ちいさな生存の美学」は、実存様式を管理し、絶えず統御しようとする強大な権力装置への、取るに足らない、ちいさな者たちによる新たな抵抗の指標となるのではないか。独身者たちの群れ、あるいは「ほとんど実存せず半ば無に近いあらたな存在物」の立てる不穏な音が、地下の叫びが、聞こえかかる。

河出書房新社 文藝
2022年秋季号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

河出書房新社

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