南米・コスタリカで「海賊船」と噂された沈没船の正体 『沈没船博士、海の底で歴史の謎を追う』試し読み

試し読み

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水中に沈んだ遺跡を発掘・調査する「水中考古学者の山舩(やまふね)晃太郎さん。大学院時代からの友人学者に誘われ、南米・コスタリカを訪れる。地元で「あれは海賊船だ」と噂されていた2隻の沈没船の正体に迫る様子をお届けする。

 ***

2隻の眠る現場へ

 いよいよ2隻の沈没船遺跡の調査がスタートした。
 沈没船遺跡まではカウイータの町はずれにある船着き場からわずか15分程で到着した。
 ブリック・サイトの海底には、名前の通りレンガが約15m×10mの範囲に集中して散乱しており、壊れた大砲が2つ確認できた。水深は11~14m程度だ。
 海底をよく見ると、砂地の中に並んだレンガの一部が露出している場所が2カ所ある。両方とも範囲は50cm×50cm程度だ。砂を取り除けば埋まっているレンガの様子もよく分かるであろう。しかし、歴史資料で「船員達を降ろした後で、切断して座礁させた」と言及されている錨は周辺に見当たらない。

 そこから海岸線沿いに西へ800m程行ったところにキャノン・サイトがある。こちらは水深3~5m程の範囲に少なくとも14個の大砲が海底の15m×15mの範囲に散乱しているのを確認できた。大砲は規則性なく様々な向きでバラバラに横たわっていて、船の向きや大きさを推測することはできなかった。
 キャノン・サイトの海底は岩場であり、その上に珊瑚も育っていた。これでは沈没船の船体に使われた木材は波の力とフナクイムシのえじきとなってしまい、残っていないだろうな、と推測した。

 ただ、キャノン・サイトから50m程岸に向かった場所、水深2m地点に錨が沈んでいた。この錨は全長が少なくとも1.5mはある。これが、資料に記されていた錨だろうか……?

果報は寝て待て

 2つの沈没船遺跡があった場所の透明度は低かった。
 乾季には20m以上あることも多いそうなのだが、私達が現場を訪れた初日は2m程であった。
 沈没船遺跡のあるカウイータ湾の近くにいくつもの河口があり、雨が降る度に川から茶色の泥水が流れてきて、透明度を著しく悪くしてしまうのだ。私達が訪れた11月初旬は、例年ならば乾季から雨季への変わり始めの時期だが、運悪く2019年はいつもより少し早く雨が降り始めていたのだ。これでは、作業は進められない。

 とにかく透明度が上がるのを待つしかなかったが、その間はコスタリカ人研究者達に地元を案内してもらい、楽しく過ごすことができた。コスタリカはナマケモノの保護にも力を入れており、赤ちゃんナマケモノ達の可愛さを目の当たりにし、すっかり好きになってしまった。目がくりっとして愛らしいのだ。
 残念なことにマトコはクロアチアでの仕事を再開するために一足先にコスタリカを去らなければならなかった。せっかく3人での研究スタートまでこぎつけたのに……。私も残念だったが、「まだ帰りたくない~!!」とゴネるマトコに別れを告げ、私とアンドレアスは透明度が回復するのを、ひたすら待った。

 そして1週間後、やっとチャンスが巡ってきた。数日にわたって晴れが続き、ようやく透明度が改善したのである!
 とはいっても透明度は1.5m程で風が強く波も高かった。しかし私の帰国も数日後に迫っていた。このチャンスに賭けるしかない。水深の浅いキャノン・サイトは波が高く、うねりも発生しており近づくことができなかったので、今回は水深が深く、波も穏やかなブリック・サイトの作業に集中することにした。

海底では迷子になるな

 透明度が低い時に一番気をつけなければならないのは、「自分が今どこにいるかしっかり把握する」ことだ。
 透明度が悪い場所では対象物に近づいて撮影しなければならない。それ自体は、そこまで難しいことではない。透明度が50cmならば30cmまで近づいて写真を撮ればいいだけだ。ただ、1回の写真で撮れる範囲が狭まる。だから、抜けの無い、完璧な沈没船遺跡のデジタル3Dモデルを作成するには、透明度が高い現場よりもさらに気をつけて、正確に、そして計画通りに「フライトパス」をなぞって泳がないといけない。しかし透明度の悪い場所で、泳ぎながら自分の位置を把握するのはかなり難しい。例えるなら濃い霧の中で目印や障害物のない草原を歩いているようなものだ。方向感覚はあてにならない。
 しかも今回のブリック・サイトは未発掘の遺跡、そうと知らねば「少しだけこんもり盛り上がった砂地の海底」にしか見えない。撮影予定の20m×15mの範囲で泳ぎながら目印になりそうなものが見つけられなかった。それでも、ステラ1沈没船のような低い透明度下での作業経験と、自らの位置感覚のみを頼りに泳ぎ回り、何とか遺跡全体のフォトグラメトリ用の写真を撮ることができた。

 地元の伝承では、ブリック・サイトのレンガは、昔、壁のように積まれた状態で海底に残されていたそうだ。それがある日、強い嵐がカウイータ湾を通り過ぎた後、このレンガの壁はすっかり流されてしまった、と伝わっていた。
 しかし、私は完成したブリック・サイトのデジタル3Dモデルを見て驚いた。
 海底の盛り上がり具合や、露出したレンガの様子から見ると、このレンガはまちがいなく積み荷として船に積まれていた当時の状態のまま沈んでいる! まるで組み合わされたレゴブロックのような状態だった。
 現場を見た時「海底にレンガがずいぶん埋まっていそうだな」とは思ったが、ここまできれいに残っているとは……。どうも、船が沈没した時、嵐によって船体は横転せず、比較的緩やかな浸水によって直立したまま嵐によって運ばれて来た砂の下に沈んだようだ。「レンガの壁」は今なお、その場に眠っているのだ。
 この事の意味するところは大きい。砂地の海底の場合、積み荷が重ければ重いほど、その下の船体が砂に押し込まれ、無酸素状態で木材が保存される。
 このレンガの下に船の木材が保存されている可能性はかなり高い!
 そうだとすると水温が高く、木材を食べるフナクイムシなどの海洋生物の活動が活発なカリブ海の沈没船遺跡では珍しいことだ。水深が11~14mと、浅すぎもせず深すぎもせず、発掘作業もしやすい。最高に研究価値のある沈没船だ!

沈没船探偵の出番

 これまで多くの沈没船遺跡で水中調査をしてきた私は、同僚の水中考古学者達から沈没船遺跡の「査定」を頼まれる機会が増えていた。
 これはテキサスA&M大学で多くの時代の船の構造を学び、沈没船復元再構築の講義のアシスタントとして様々な沈没船の船型図を頭に叩き込んでいたおかげだ。さらに大学院卒業後、幸運なことに世界各地で52隻の沈没船の学術的調査に参加した。もちろん数が多ければいいというものではないが、次第に沈没船がどのように海底に沈み、埋まっているか、一目見るだけで理解できるようになっていた。
 コスタリカでの仕事でも、ここが私の船舶考古学者としての腕の見せ所なのである。

 プロジェクト最終日、今回の成果を地元の研究者達と学生達に報告するために、私達はカウイータの隣町に住むコスタリカ人メンバーの自宅に集まった。彼らとしては、私が作った「散乱しているレンガのデジタル3Dモデルを見てみたい」程度のものだったかもしれないが、私はこの2隻の沈没船遺跡に潜って自らの眼で見た時から、ある仮説を立てていた。それをお披露目する機会となった。
 リラックスした雰囲気の中、この沈没船遺跡に関する説明を始めた。

 デンマークに残っている歴史記録によると、クリスチャニス・クインタス号とフレデリカス・クインタス号にはそれぞれ24門の大砲が積まれているはずだった。しかし、ブリック・サイトには恐らく2門、キャノン・サイトに最大でも14門の大砲しか沈んでいない。沈没船遺跡と、記録で数が合わない。
 そのため、以前にカウイータで調査していたアメリカ人水中考古学者の間では、この2つの遺跡は小型の1隻の帆船の遺跡で、沈没の際に甲板が崩壊し、船底部だけブリック・サイトとして残り、甲板より上部は今のキャノン・サイトまで流されて沈んだのではないかという仮説も出ていた。
 そんなことは、あり得ない。
 木造船は、フレームがあばら骨のように船全体の形を作っている。そのため、右舷と左舷の間で船体が縦に割れることはあっても、船体下部と上部の間に亀裂が入りバラバラになるなどということは、ほとんど起きない。
 また、船という構造物は船体内部が空洞になっていることにより、中の空気と外の水の重量の違いが発生し浮力となるので、大砲や積み荷などの重たい物も輸送できる。もし、船が上下に割れ、船体上部だけが筏のように浮くだけの状態になってしまったら、重い大砲を14門も乗せたまま800mも移動することはない。その場ですぐに沈むだろう。

 カウイータ湾の2カ所の遺跡は紛れもなく2隻の船である。

 では何故、大砲や錨の数が資料に記されている数よりも少ないのだろうか?

 それは、海底に沈んだ大砲と錨が、何者かによって引き上げられたからである。
 当時もヨーロッパから新世界に運ばれた積み荷は大変貴重だった。これにはもちろん大砲や錨も含まれる。沈没から時間が経っていなければ、近くの砂浜に大量に木材が打ち上げられたり、海中からマストなどの船体の一部が水面に見えていたりして、他の船からも沈没船は見つけやすかっただろう。
 2隻の船が沈没してから数週間以内には、沈没船内に残された積み荷を狙った他のヨーロッパ諸国の帆船によって、引き上げ作業が行われたはずだ。

 そもそもクリスチャニス・クインタス号とフレデリカス・クインタス号に乗っていたデンマーク人の船員は、遭難地点の近くから他国の船に乗りパナマへ移動し、そこからセント・トーマス島に向かっている。恐らく2隻の沈没船の位置情報は、デンマーク船員や、この2隻から解放された奴隷により、ヨーロッパの他国にも漏れていたであろう。それに、このような横取り目当ての引き上げ作業が多かったからこそ、デンマーク人船員達は、2隻をわざわざ破壊してからその場を離れたのだ。

 ただ、当時の大砲1門の重量はゆうに1トンを超える。つまり潜水のできる船員や、船の甲板からロープで直接持ち上げる方法による大砲の引き上げは不可能である。
 では、当時の西洋帆船は海中に沈んだ大砲や重い積み荷を、どう積み込んだのだろうか?

 実は、帆船に備わっている装備をフル活用することで、引き上げは可能となるのだ!
 船には、帆を掛ける棒がある。「ヤード」と言うのだが、帆の上部をヤードに引っ掛け、パンッと帆を張る。帆を使わない時には、畳んで紐でヤードに結び付けておく。航海中は、風向きを読んでヤードの向きを変えることで、帆の向きを変える。
 このヤードの先に、滑車を取り付けてみよう。すると船そのものが「クレーン車」に様変わりするのだ。海底から大砲を引き上げる時には、海の方にヤードを向け、紐を海の中に垂らし、大砲に巻き付けたら、甲板にいる船員達が滑車に通した紐を引っ張るのだ。滑車を経由すれば、荷物の重さは半分になる。大砲を引き上げることも可能だ。
 つまり、西洋帆船を沈没船遺跡の直上に移動させ、こうした装備を利用すれば、海底に残された沈没船の積み荷を引き上げることが可能となる。


ヤードを利用した引き上げ

 ただこれには1つ問題がある。海底の大砲や錨の引き上げ作業が行える西洋帆船はある程度の大きさがあるので、浅瀬には近づけないのだ。
 それに照らし合わせて考えてみると、ブリック・サイトはそもそも水深が10m以上ある。こちらは当時の帆船でも十分近づけたはずだ。だから、ブリック・サイトからはほぼ全ての大砲と錨は持ち去られたと考えるのが妥当だ。キャノン・サイトの方は、海底に残された14門の大砲は、全てが水深5mに満たない浅い場所から見つかった。
 言い換えれば、水深5mより深い場所にあった大砲は全て引き上げられ、持ち去られてしまったのだ。
 これで、海底にある大砲の数が少ないということの説明が付く。

 さらに残る謎はキャノン・サイトから、50m離れたところに残されていた全長1.5mの錨だ。この地点の水深は2mしかない。このサイズの錨を積んでいた帆船が行こうとしても、水深が浅すぎて座礁の危険性がある。
 つまり、船の誰かがわざわざ小型船に乗って錨を運んで降ろしたことになる。

 当時の帆船は通常4本の大型の錨を乗せていた。少ない場合でも2本の錨は必ずあったはずだ。錨は車で言うところのブレーキに当たり、錨を積んでいない船などありえない。
 船をその場にしっかりと留めておくため係留は2本の錨を使うことが多い。船の船首の右舷と左舷からそれぞれの方向に錨を降ろし、錨のケーブルを巻き上げてピンッと張ることにより、船を2本の錨の中央地点に停泊させることができるのだ。
 しかし、今回、錨は1本しか見つかっていない。その錨と海底に残された大砲の位置から船体のあった場所を推測すると、もう1本の錨は沖の方に離れた位置に降ろしていたはずだが、見当たらない。

 ここで1710年に沈んだデンマークの奴隷船の1隻であるクリスチャニス・クインタス号の記述を思い出してもらいたい。「船員達を降ろした後で、錨ケーブルを切断して座礁させた」とあった。船員達は飛び降りたのではなく「降ろされた」のだ。細かい言葉の違いだが、とても重要である。18世紀当時、ヨーロッパ諸国では、帆船の船員でも泳ぎの上手い者は少なかったという時代背景も考慮したい。学校で泳ぎなど習わない時代だったからだ。船員達が「降ろされた」というのが、海に飛び降りて岸まで泳いだ、とは考えにくい。恐らく小型船に乗り換えたのであろう。
 船員達が避難した後、このような形で係留されている帆船を確実に座礁させようとしたら、どうしたらいいだろうか?
 そう、「沖の方向に投錨している」錨のケーブルを切断すればよいのだ。

 もし岸に近い方の錨のケーブルを切断したら、船は、水深が深く、障害物の少ない沖方向に流れていき、なかなか座礁しない可能性がある。確実に短期間で座礁させるためには、沖の方の錨ケーブルを切断するのだ。そうすれば係留が解け、船が浅瀬に座礁してバラバラになる。つまり不自然に岸に近い浅瀬に降ろされた錨は、船を意図的に座礁させるためだと考えたらクリスチャニス・クインタス号の歴史記述と完全に一致する。
 これらの状況を考慮すると、この2つの沈没船が1710年に沈んだデンマーク奴隷船の「クリスチャニス・クインタス号」と「フレデリカス・クインタス号」である可能性が極めて高くなる。

ついに船の正体を解明

 私の説明が進むにつれ、話を聞いていたコスタリカ人の多くは絵に描いたような「ポカーン」とした表情をした。しかしその後、徐々に彼らの眼がどんどん輝いていったのを私ははっきりと見ることができた。
 私は、作成したブリック・サイトのデジタル3Dモデルを使いながら、こう言った。
「恐らく積み荷としてのレンガは未だに手つかずのまま埋まっているでしょう。そのレンガの下には、カリブ海で珍しいほどの保存状態で船体木材も残っていると考えられます!」と伝えた。
 大人達は笑顔で、少年少女達は声を上げて喜んでくれた。

 翌朝、私はアンドレアスとコスタリカの研究者達に「必ずまた戻る」と約束して帰路に就いた。
 数日後、アンドレアスから1本の連絡があった。今回の私達の調査結果から、この2隻の沈没船がクリスチャニス・クインタス号とフレデリカス・クインタス号である可能性が高いとコスタリカの文化庁が納得し、引き上げたレンガをデンマークの研究機関に送る許可が出たという。
 そして半年後、2020年の春頃に、レンガの化学分析の結果が届いた。レンガは紛れもなくデンマーク製だった。
 これで正式にカウイータ湾の2隻の沈没船は1710年に沈んだデンマークの奴隷船、クリスチャニス・クインタス号とフレデリカス・クインタス号であることが証明された。

 長年、「海賊船」だと言われていた2隻が、コスタリカ人のルーツを物語る重要な船だと、やっと解明することができたのだ。

(続きは書籍でお楽しみください)

山舩晃太郎
1984年3月生まれ。2006年法政大学文学部卒業。テキサスA&M大学・大学院文化人類学科船舶考古学専攻(2012年修士号、2016年博士号取得)船舶考古学博士。合同会社アパラティス代表社員。西洋船(古代・中世・近代)を主たる研究対象とする考古学と歴史学の他、水中文化遺産の3次元測量と沈没船の復元構築が専門。

山舩晃太郎

新潮社
2022年8月3日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

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1896年(明治29年)創立。『斜陽』(太宰治)や『金閣寺』(三島由紀夫)、『さくらえび』(さくらももこ)、『1Q84』(村上春樹)、近年では『大家さんと僕』(矢部太郎)などのベストセラー作品を刊行している総合出版社。「新潮文庫の100冊」でお馴染みの新潮文庫や新潮新書、新潮クレスト・ブックス、とんぼの本などを刊行しているほか、「新潮」「芸術新潮」「週刊新潮」「ENGINE」「nicola」「月刊コミックバンチ」などの雑誌も手掛けている。

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