井出智香恵『毒の恋 7500万円を奪われた「実録・国際ロマンス詐欺」』試し読み

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彼を信じていたのに、全て嘘だった……。こんな経験をした方は少なくないだろうが、かつて「レディコミの女王」と呼ばれた漫画家・井出智香恵さんはとんでもないスケールの「嘘」に巻き込まれてしまった。

7500万円もの大金を、ハリウッドスターのマーク・ラファロを騙る詐欺師に騙し取られたのだ。

詐欺師がチームを組み井出さんを翻弄し洗脳していく様子はまるでハリウッド映画さながらで、最新技術を駆使した詐欺の具体的な手法や7500万円を失うことになった全記録が著書には綴られている。この国際ロマンス詐欺の始まりとなった、SNSでの二人の出会いを一部公開する。

 ***

マーク・ラファロからの初コンタクト

 2017年の暮れ。
 私は、一度去ると決めたはずの「仮想世界」に、再び出入りするようになりました。
 アバターのキャラクターを新たに作り直し、原稿描きの合間にバーチャルの世界を楽しみました。でも、「ハタチの大学生」との淡い恋の失敗を教訓に、他者との接触はできるだけ避け、街のあちらこちらを回るだけです。私の中では、誰かと関わりたい、愛されたいという気持ちは消えない一方で、どうやってその欲望を満たせばいいのかわからず、「仮想世界」を漂っていました。
 そんなある日、私が大好きなハリウッド映画『アベンジャーズ・シリーズ』の新作『アベンジャーズ インフィニティ・ウォー』が、来春、日本でも公開されることを知りました。私のお気に入りは、超人・ハルクを演じるマーク・ラファロ。イタリア系の血を引き、舞台で鍛えられた演技派の俳優です。私は同居する次女に頼み、ラファロが公式ツイッターにメッセージを書き込むたびに、私のツイッターアカウントから「いいね」を押すように頼みました。
 2018年の2月上旬のことです。私のフェイスブックに思わぬ人からメッセージが届きました。なんと、「マーク・ラファロ」、その人です。
「ハリウッドスターからメッセージが届いた! 嬉しい、信じられない!」
 私はすぐに次女に報告しました。娘もまた、驚き、喜びました。私たちは、本人の名前でメッセージが届いたことに舞い上がっていました。
 もちろん、このメッセージの送り主はマークではありません。SNSの世界に疎い私は、まず「なりすまし」を疑うという、基本的な危機管理の意識が欠落していました。今になると、その点は悔やまれるばかりです。
 フェイスブックで繋がった私とマークは、グーグルの「ハングアウト」のチャット機能を使って会話するようになりました。ハングアウトは、グーグルが提供するメッセージサービスの一種で、アカウントさえあれば、チャットや音声通話、ビデオ通話など、さまざまなサービスを無料で利用できます。
 チャットを始めて間もなくすると、マークからこんなメッセージが届きました。
 そのやり取りを、ここに再現します。なお、英語は原文のままです(この先を含め、引用文には文法や単語の間違いがあったり、また文末にピリオドがなかったり、主語の「I」が小文字の「i」だったりしますが、元のテキストの通りです)。

〈You happen to be the first Asian fan on here
congrats to you
Can i see a picture of your job?
Keep private as promised by〉
(君は僕にとって最初のアジア人のファンだね。おめでとう。君の仕事の写真が見たいな。もちろん誰かに見せたりしないからね)

 マークにそう言われ、私はさらに舞い上がってしまいました。バッチリお化粧し、ドレスアップして写した私の写真や、描きかけの漫画原稿をスマートフォンで撮って、送りました。

〈Awesome
You look pretty cool with your job
You got real potential which have never seen
So beautiful would love to be so private with you OK〉
(素晴らしいね。仕事をしている君の姿は最高にクールだよ。僕が初めて出会った、すごい才能の持ち主だ。とても美しい。君ともっと仲良くなりたいな)

 ネットの翻訳機能を使ってのやり取りでしたが、彼がいわんとしていることはわかります。これだけ褒められれば、嬉しくなるのは当然です。漫画家としての私を賞賛する言葉を、憧れのハリウッドスターからかけてもらえたのです。
 私もご機嫌で、「あなたがどんな生活をしているか、とても興味があるわ」「今春、日本でも公開される『アベンジャーズ』シリーズも見に行くの」などと能天気に書いては、送りました。
 当時はこれが「リアル」なやり取りと思い込んでいましたが、それは「幻」でした。ただ、幻の世界であっても、味わう痛みだけは「本物」であると、のちに身をもって知ることになります。
「ハタチの大学生」と出会った「仮想世界」では、私は歳である自分を隠していました。
年齢を伝えたら、相手にしてもらえない、という気持ちがそこにあったからです。
 でも、マークには最初から「70歳の漫画家」であることを明かしていました。それでも、マークは漫画家の私に敬意を表し、さらには「美しい」などと褒めてくれます。お世辞とわかっていても、心が満たされる自分がいました。私は彼とのチャットを心待ちするようになりました。

〈Are you married?〉
(君は結婚しているの?)

 ある日、そうマークから問われました。離婚していること、女の子2人、男の子1人の3人の子供がいることを正直に話しました。私は自分のプライバシーに関わることを、問われるがまま、明かしていました。

〈If i may ask have you made any donation to my foundation in Africa?〉
(アフリカにある僕の財団になんらかのかたちで寄付をしたことはあるかい?)

 唐突にそう聞かれました。私は、アフリカに寄付をしたことはなかったのでそう伝える一方、3・11東日本大震災の際には、友人とともにできる限りの支援をしたと書いて返信しました。
 なぜ、相手がこのようなことを聞くのか、その時は考えもしませんでしたが、おそらく私の性格や懐具合を探ろうとしたのだと思います。
 今、私の手元には、マークとやり取りした膨大な量のチャットをプリントアウトした紙の束があります。第1章で書いたように、これは事件発覚後、警察に被害届を出すため、必要にかられて娘や知人に集めてもらったものです。
 あらためて読み返すと、この時期、マークとのやり取りに浮かれる私の姿が見て取れます。
 2018年3月になると、ほぼ毎日、私はマークにメッセージを送っています。あれこれたわいもないことを伝えながら、「私のことで知りたいことがあったら、聞いてね」と、得意げに書いている自分の姿にため息が出ます。
 3月4日。私は、「アカデミー賞をテレビで見るわ。女優たちは黒いドレスを着るのかしら?」とミーハーぶりを発揮しています。
 3月5日。マークに「僕と電話で話さないか?」と聞かれ、「私の英語力では、あなたの英語を理解できると思えないから、ムリよ」と、断っています。彼は、その後も何度か電話で話そうと誘ってきましたが、そのたびに断りました。
 翻訳機能を使える文章ならまだしも、英語の会話となると、私にはお手上げでした。この英語力のなさが、詐欺師に騙される原因の一つにもなったわけですが……。
 3月11日。マークが「カゼをひいた」と言うので、本気で心配しました。翌日になって、「薬を飲んだし、少しよくなったので心配しないで」というメッセージが届き、安心しました。私はマークに夢中でした。マークから「君は、ハリウッドで仕事したことがあるの?」
「君は輝くような才能の持ち主で、仕事熱心だから、いつかきっとハリウッドで仕事することになるよ」などと、漫画家としての自尊心を巧みにくすぐる言葉が届きます。私はますます彼に入れ込んでいきました。

「僕を疑っているのか?」

 3月16日。マークから「僕のオフィシャルなチームのメンバーに君のことを話した」というメッセージとともに、こんな誘いを受けました。

〈We all into conclusion and would love someone from Asia which happens to be you to handle my next project
How dose that made you feel?
Give me a reply then I will proceed! Thank you〉
(次の僕らのプロジェクトにアジアから参加するのは、君がふさわしいという結論になった。どうかな? 返事をもらえたら、プロジェクトを進めるから)

 マークは「君の輝かしい才能があれば、ハリウッドで仕事する日も近いよ」と、おだててきます。私は快諾し、「詳細を送って」と伝えました。

〈Kindly write my project manager Tony Robbins ***** @gmail.com and tell him from mark so he could brief you in details thank you〉
(僕のプロジェクトマネージャー、トニー・ロビンズのgmail アドレスに、マークからだと言って、メールを書いて送って。彼は詳細について、君に説明してくれるよ)

 世界を舞台に活躍できるかもしれない――私はこの喜びを誰かに伝えたくなりました。
 ふと、昔からの知り合いで、アメリカの大学で教授をしている日本人の知人の顔が思い浮かびました。早速、これまでの簡単な経緯と、マークが送ってくれたプロジェクトへの参加要請メッセージ、プロジェクトマネージャーのメールアドレスを書いて、メールで送りました。
 すると、予想外の返信がありました。
 プロジェクトマネージャーだというトニー・ロビンズ氏のアドレスは実在し、実際に知人がメールを送ると返事が届いたそうです。ただ、肝心のトニー氏は「マーク・ラファロという人物を私はまったく知らない」と言っているといいます。さらに、知人は「英文は間違いが多く、マーク・ラファロ本人が書いたものとは思えない。英語をほとんど学んでいない人が書いたものだ」と指摘したのです。
 私はショックで頭が真っ白になりました。
 マークはニセモノ……?
 浮かれた気持ちはどこかに消え去りました。よく考えれば、「マーク・ラファロ」は正真正銘のハリウッドスターです。ツイッターで「いいね」を押してきた日本人漫画家にメッセージを送るなど、ありえるのでしょうか。
「そりゃ、そうよね……」
 舞い上がり、周りが見えなくなっていた自分を猛烈に恥じると同時に、深く傷つきました。漫画家として、女性として褒めてくれた言葉は、ただ私をからかうつもりで送ってきたのでしょうか。
 心にぽっかりと穴が開きました。
 私にとって、マークとの刺激的な会話が、漫画を描くエネルギーになっていたことに気づかされました。「あのマークはニセモノ」という疑惑が生まれ、心の中のもやもやが消えません。マークが「なりすまし」として私に連絡をしてくる理由がわからず、「もしかしたら、本物だという可能性もあるのでは」とかすかな望みを捨てられませんでした。
 それから3週間ほど、私はマークから届くメッセージを無視し続けました。
 そして、4月6日。私は、気持ちを抑えられず、マークに1通のメッセージを送りました。
「私は、あなたのことは何も知らない。言われたようにプロジェクトマネージャーにメールをしたけど、あなたのことは知らないと言ってきたわ。あなたは本物のマーク・ラファ
ロなの? 私は、その証拠が欲しい」
 すると、マークからすぐに返信が来ました。
「なんのことを言っているんだ? 僕を疑っているのか?」
「僕のプロジェクトマネージャーは君に説明したい、と言ってるよ」
 私は、黙って届くメッセージを見ていました。
「僕は僕だ! マーク・ラファロなんだ!」
 相手は、自分が「ハリウッドスターのマーク・ラファロ」だと主張して譲りません。文面から、彼のいらだちが伝わってきましたが、傷ついた私は何も返信することができませ
んでした。
 4月11日、「君が好きそうなスリラーコミックを発売するんだ」。
 4月17日、「元気かい? 僕は今日、ショーのリハーサルだ」。
 4月30日と5月1日、「ハロー」。
 マークから時折、チャットが入ります。返事がないことにもめげずに、私の近況を尋ねてきます。心の中で、なんだか彼がかわいそうに思えてきました。
 5月15日、我慢ができなくなった私は、再びマークにメッセージを送ってしまいます。
「『アベンジャーズ』の新作を見たわ。あなたは本物のマーク?」
 翌日、返事が届きました。
「なんでそんな質問をするんだ? 僕が本物のマークか、というのは、どういう意味なんだい。僕のチームは君のことを知っている。なぜ、僕らを無視するんだ?」
 彼は本気で怒っているようでした。返事はしませんでしたが、私の心はもやもやしたままでした。
 私からの反応がないためでしょう、その後、マークからの連絡は途絶えがちになりました。5月はその後に2回、6月は3回、たわいもない内容のテキストが送られてきただけでした。
 マークからの連絡がないと、私の心はざわつきます。3月に知人の大学教授から「マーク・ラファロはニセモノでは」と指摘され、深く傷つきました。あれから3カ月ほど経ち、心の傷が癒えてくるに従い、マークと交わす会話が、私の日常においてどれだけ重要なものであったかを再認識させられました。
 彼は本当にニセモノなの? じゃあ、私のこの気持ちは何? 彼が大切な存在と思う気持ちもニセモノ?
 私は孤独を愛する女です。マークとのやり取りが途絶えたからといって、四六時中、落ち込むようなことはありません。仕事場のデスクの前に座れば、頭は仕事モードに切り替わります。ネームを切り、ペン入れをしている時は、漫画の世界に入り込んでいます。いくら年齢を重ねても、漫画には私を捉えて離さない強烈な魔力があるのです。
 でも、漫画を描くのにひと段落し、ふと我に返ると、強烈な寂寥感を覚えました。
「誰かと深く関わりたい。私を愛してくれる誰かと……」
 そうなると、やはり心に浮かぶのは、マークとのやり取りで心ときめかせた日々です。
 もう、私の我慢は限界に近づいていました。

続きは書籍でお楽しみください

双葉社
2022年9月7日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

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