第1話「自転車泥棒」を全文公開 乃南アサ『家裁調査官・庵原かのん』試し読み

試し読み

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「どんな人とも同じ目線で話せる人間力を持ったプロ、それが家裁調査官。人間臭く働いている、実に“人間らしい”人たちが家裁にいることを知って欲しい」という思いから生まれたのが、乃南アサさんの新刊、『家裁調査官・庵原かのん』。

少年係調査官である庵原かのんが日々対面するのは、少年犯罪、貧困、毒親、虐待、障害……など様々な理由で問題を起こし、家裁を訪れる少年少女や保護者たち。彼らの“声なき声”とは何なのか――。

一人の若き調査官を通して家庭や学校、社会の在り方を問う連作短篇集である本作から、今回は試し読みとして1話めの「自転車泥棒」を公開します。

自転車泥棒

   

 折り畳まれた数枚の紙を封筒から引き出した瞬間、庵原(いおはら)かのんは思わず「うぁっ」という声を出してしまった。
「臭っさ!」
 すかさず隣の席の鈴川さんがキャスター付きの椅子に腰掛けたまま、つつっと滑り寄ってくる。歳は一つしか違わないのだが、二十代のうちに結婚して、既に二人の小学生の母親でもある彼女は、年齢以上に落ち着いた雰囲気をまとっている。
「また、へんてこりんな声出して。どしたの」
 かのんは改めて封筒から取り出した紙に鼻を近づけて顔をしかめた。
「臭うんですよ。ぷんぷん」
 どれ、と鈴川さんも顔を突き出してくる。その鼻先に紙を近づけると、鈴川さんはくんくんと匂いを嗅ぐ仕草をしてから「たしかに」と頷いた。
「だけど、言うほど強烈じゃないわよ」
「これだけ臭ってて、ですか?」
「まあ、かのんちゃんの鼻は犬並みだから」
 確かに匂いには敏感だ。これは、もしかすると血筋かも知れないと、かのんは前々から思っている。多分そのお蔭もあって父は化学畑を歩んできたのだし、妹など化粧品会社のパフューマーになった。末っ子の弟だけは鈍感だが、これは母に似たのに違いない。
 家族が集まると、父とかのん、そして妹の三人は、母と弟をそっちのけにして料理でも飲み物でも食卓に置かれた布巾でも、さらに言えば飼い猫の肉球でも珍しく飾られている花でも何でも、とりあえず香りを確かめずにいられない。そして、互いに「またやってる」と冷やかし合うのだ。最近では盆と正月くらいしか、そういう機会はなくなったが、それでも顔を合わせれば当たり前のように同じことをやっている。
「これじゃあ、お酒呑みながら書いたっていうのがバレバレじゃないですかね。煙草もスパスパやって」
 かのんはもう一度そっと臭いを確かめた後で、しかめっ面のまま、手にした紙を見つめた。明らかに酒と煙草の臭いが染み込んでいるのだ。
「いるわよ、そういうのも。でも、アレでしょう? 少年本人の照会書っていうんじゃないんでしょう?」
 鈴川さんは、また、つつつ、と自分のデスクに戻っていく。かのんは用紙をゆっくりと広げてみて、一番上に「保護者照会書」と印刷されているのを確かめてから「そうですけど」と頷いた。
 保護者照会書には数ページにわたって、いくつもの質問項目が並んでいる。その内容をひとくくりにして言ってしまえば「あなたのお子さんと、ご家庭について、色々と教えて下さい」というものだ。警察に捕まるような問題を起こした少年が、果たしてどんな環境で育って、どんな性格をしており、今はどういう生活を送っているかなどを保護者の立場から説明してもらう。予め家裁から送付したものに、回答を書き込んで返送してもらうようになっている。
 家庭裁判所が「少年」と呼ぶ場合、そこには女子も含まれる。家裁で扱う「少年」とは、主に罪を犯した場合に処罰を下すことの出来る十四歳から十九歳の子たちを指す。処罰とはいっても、あくまでも少年の保護更生を目的としたものだというところが、成人に対するのとは違っている。平たく言えば「将来ある彼らの可能性を信じて、問題の原因を探り、立ち直りへの道筋をつける」ことが、処罰の目的だ。ちなみに十四歳に達していない少年が罪を犯しても刑事責任を問えないため、一定の重大な刑罰法令に触れる行為を行った少年を除いて、こちらは家庭裁判所ではなく、児童相談所が対応することになる。
 家庭裁判所調査官は、この「問題の原因を探る」ために存在する。その仕事は、大まかに言って三段階に分けられる。
 まず読み、次に聴き、最後に書く。
 読むのは、保護者らから届いた照会書や警察が作成した調書など。重大事件の場合は、警察から検察を経由したものが回ってくる。これらを読んで、事件を起こした少年の生育歴や家庭環境、生活態度などを知ることは、当事者へのアプローチを考える上で欠かせない。
 次に、聴く。
 少年自身や保護者はもちろん、必要な場合は学校や勤務先などの関係者に会って、じかに話を聴く。少年の場合は成長途中であるだけに、不安定で自分でも自分の気持ちがよく分かっていなかったり、もやもやしたものは抱いているが原因が分からないとか、うまく言語化出来ない場合が少なくない。だから、必要に応じて心理テストやカウンセリングなどを行いながら、彼らの心の裡にあるものを把握するように努める。そのために、家裁調査官は「家庭裁判所調査官補」として採用されたら、最初の二年間は法律、心理学、面接法などといった理論と実習の研修をみっちり受ける。現場に出た後も、段階的に経験を積みながら新たな技法などを学び続けていく。つまり家裁調査官とは「裁判所」という司法の場にいながら生身の人間を扱う、臨床の専門家なのだ。だからこそ「聴く」ことには、もっともエネルギーを使う。
 そして最後に、書く。
 限られた時間の中で把握した、少年の実像や、彼らが抱える問題、今後の展望などを整理して「少年調査票」という報告書を作成して裁判官に提出する。この調査票と、さらに鑑別所の技官や教官が作成した「鑑別結果通知書」の二つを主に重要な資料として、裁判官は独自の裁量で少年に「審判」を下すことになる。時には調査官が思ったよりも、かなり重たい処分が下ることもあるものだが、それは裁判官の判断だ。調査官も審判の席には同席するし、求められれば発言し、裁判官の許可を得て質問することもある。とはいえ、具体的な仕事は、あくまで調査票を提出するまでということだ。
「で、何した少年なの?」
 パソコンに向かいながら、鈴川さんが顔も上げずに聞いてきた。
「自転車盗なんですけどね」
 調書によれば、田畑貴久十五歳は、某日午後九時半頃、北九州市八幡西区光明○丁目○番地付近の住宅脇に駐められていた施錠されていない自転車一台を盗んだとされている。同じ日の午前零時近くにJR黒崎駅そばの商店街アーケードにおいて警察官の職務質問を受けたことにより犯行が発覚した。
「たまたま現場を通りかかったときに、自転車を見つけた。周囲に人もおらず、鍵もかかっていなかったため、そのまま軽い気持ちで乗って走り去ってしまった」
 警察の取調に対して少年はそのように語ったとされ、犯行事実を認めている。
 ふとした出来心で自転車を盗んだ。
 端的に言ってしまえば、それだけのことだ。珍しくもない。むしろ、大抵の場合は適当に乗り回した後はその辺りに乗り捨てて終わるところが、今回に限っては運悪く見つかってしまったというだけのことかも知れない。
 書類上では田畑貴久少年には、これまで一度も逮捕・補導歴がないことから、警察での取調が済んだ後はそのまま帰宅が許されている。こういうケースを「在宅事件」と呼ぶ。在宅事件として扱われるものは、少年事件全体のおよそ八十パーセント。つまり、少年が起こす事件の大半は、こうした自転車盗や万引き、ちょっとした喧嘩などといった、比較的軽微なものだ。
 事件の軽重に拘わらず、警察から検察を経由して、「処遇意見」の添えられた書類が回ってくると、家裁では裁判官によって調査官に調査が命じられ、そこから調査官の仕事が始まる。
 調査官が「読む」作業を進める間、書記官が「照会書」や調査面接の期日を示した「呼出状」などを送付する作業を進めてくれる。それらの書面が先方に届くまでに、逮捕からおおよそ二、三週間。それだけの時間がたっていると、逮捕直後の緊張や興奮状態も醒めて、通常は当事者である少年も保護者も、かなり冷静に物事を考えられるようになっているものだ。そこで照会書には、少しでもいい印象を与えて軽い処分で済ませてもらえるように、優等生的な回答を書く場合が多い。
 こうして事件から一カ月程度が経過した頃に、調査官はいよいよ「聴く」作業、つまり調査面接を行うことになる。この場合も自転車盗くらいなら、面接は一度限りで終わる。とりあえず、だとしても本人に反省の色がうかがえ、保護者も今後はきちんと少年を監督しますから、などと言えば、それでおしまいだ。わざわざ裁判官が「審判」の席を設けるというところまではいかない。こういう事件は「審判不開始」ということになる。または審判は開かれても「不処分」という決定が下される。調査官が扱う少年事件としては、数は多くても特に扱いが難しいということはない、淡々とこなしていけばいい類のものだ。
 だけど。
 改めて手元の保護者照会書に目を落として、かのんは口もとをきゅっと引き締めた。保護者の氏名欄には田畑里奈という名前が書き込まれている。文字は相当に乱れていた。
 かなり酔っ払って書いたんだろうか。
 名前からすると女性だろう。つまり、この家はひとり親の家庭なのかも知れない。その下から次ページへと目を通して、かのんは「そう来たか」と思わずにいられなかった。各質問に対して、それなりの回答スペースを確保しているにも拘わらず、すべての回答欄に「とくになし」というひと言しか書き込まれていなかったからだ。何カ所か、酒の染みらしい紙の毛羽立ちが見られるだけでなく、不規則な皺の跡までが残っている。保護者がこの照会書をかなり乱暴に扱ったか、下手をすれば一度は腹立ち紛れに捨ててしまおうとでもしたのかも知れないと想像がつく。そして極めつきが、この臭いだ。
 ここから考えられるのは。
 一つ。子どもが自転車を盗んだくらいで何を大げさなと腹立たしく思っている。
 二つ。子どもが何をしようと自分には関係ないという姿勢の親である。
 三つ。生活が荒れている。
 いずれにせよ、あまりいい想像が浮かんでこない。
 今度は同じ封筒からもう一通の用紙を取り出してみた。こちらは「少年照会書」というものだ。問題を起こした少年自身に、自分が起こしてしまった事件について、改めて認否を問うと共に、なぜそのようなことをしてしまったのか、今はどのように考えているかを書いてもらう。また、被害者に対して謝罪や弁償の気持ちはあるかなどということも尋ねる。少年自身が書けない場合には保護者が代わりに記入しても構わないものだが、今回そこに書かれている文字は、明らかに保護者のものとは違っていた。
「人の自てん車をとってすいませんでした」
 保護者照会書の臭いがこちらにも少し移っていた。シャープペンで書かれているのは稚拙で頼りない筆跡の、その一文だけ。十五歳で自転車の「転」が書けないということ以外の情報が摑めない。
「ひょっとすると、多少の知的障がいがある可能性も考えられるかな」
 コンビニ弁当ばかりでは飽きるから、ほぼ一週間ぶりに職場からほど近い食堂で昼食をとることにすると、かのんの説明に、同行した若月くんがトンカツをおかずに大盛りの高菜飯を頬張りながら視線だけ天井の方に向けた。高菜飯の上には、別注の温泉卵までのっている。すると、かのんと同じく肉ゴボウ天うどんを注文した巻さんが「考えすぎじゃない?」と、柔らかめのうどんの湯気を吹く。ここの肉ゴボウ天うどんは、とろとろに煮込んだ牛肉もゴボウの天ぷらも多めなうえに、おろし生姜がたっぷりのっていて、甘めの出汁の味を引き締めている。これに、テーブルに備えてある刻み青ネギを山盛りと、さらに柚子胡椒を加えると風味がぐんと増して、癖になる味だ。この土地で暮らすようになってからの、かのんの好物の一つになった。
「単なる不登校なだけかもよ」
 巻先輩の言葉に、かのんと若月くんは同時に「たしかに」と頷いた。外でランチというと、このメンバーになることが多い。二十代の若月くんはかのんと同じく独身だし、巻さんは五十手前くらいだが「お弁当作りは卒業した」が口癖で、さらに最近では「いっそのこと主婦業も卒業しようかな」と、少しばかり穏やかではないことを言い出している。ちなみに、巻さんのご主人は裁判所の書記官をしていて、今は同じ福岡家庭裁判所の、別の支部に勤めている。大学生の一人息子は東京にいるということだ。
 福岡家裁北九州支部の少年係調査官は、五十代の勝又主任調査官を筆頭に、鈴川さん、そしてここにいる三人の、計五人からなる。鈴川さんと勝又主任は常に弁当持参だから、外で昼食をとることはまずなかった。
「どっちにしても一回きりの面接で、そう突っ込んだことまで聞けるわけでもないですしね」
 かのんの呟きに「そういうこと」とさらりと答える巻さんは、普段の仕事ぶりも淡々としているというか、かなり割り切っている印象だ。それがベテランというものなのかも知れないが、話を聞いている限り、かのんのように担当した少年との接し方やアプローチについて「あれでよかったんだろうか」と引きずることもない様子だし、その子の将来に思いを馳せるなどということもないらしい。
「その案件に関しては、僕は少年より保護者の方に興味があるなあ」
 たっぷりした体格にふさわしく、いつでも旺盛な食欲を見せる若月くんが、眼鏡の奥の丸い目をぱちぱちとさせた。アザラシの赤ちゃんが眼鏡をかけているような、おじさん子ども的な顔立ちの彼は、表情も豊かで、何というか時代を超越した感じの愛嬌がある。その外見のお蔭で、調査官という仕事をする上ではかなり得をしていると、かのんは常々思っている。何しろ一目で相手の警戒心を解く雰囲気の持ち主なのだ。
「厄介な母親じゃなければいいんだけどね」
「それも、今から考えても仕方がないこと」
 かのんの呟きを打ち消すように言って、巻さんは早々とうどんの汁を飲み干し、ふう、と息をついている。若月くんは「ですね」と楽しそうに笑いながら、小皿に残っていた漬物を口に放り込んだ。ポリポリといい音が、こちらまで聞こえてくる。
「若月くんは、これから鑑別所?」
 巻さんが、早くも財布を取り出しているから、かのんも大急ぎで残りのうどんをすすり始めた。一人で喋っているつもりもないのだが、なぜかいつでも自分だけ、食べるのが遅くなる。二人のやり取りに口を挟んでいる余裕はなくなった。
「そうなんですけど、これがまた、悩ましい子なんですよね。犯罪事実も『あんたらがそう思うんならそれでいいんじゃね?』みたいな言い方をするし、テストも真剣に受けてくれないし」
「私の方は、返事だけはいいんだけどねえ。別の意味で、ちょっと厄介になりそうなんだ」
「鑑別所じゃないんですよね、どこまで行くんですか?」
「中間。入院してたお祖父ちゃんが帰ってきたもんで、父親がまたイライラし始めて、酔うと暴力を振るうらしいんだ。それで本人は、また夜中に外をうろついたり帰ってこなかったりになったらしいんだけど、母親がぼんやりした人で、電話で話してても埒があかないのよ」
 福岡家裁北九州支部の管轄には、北九州市全域だけでなく、西に隣接する遠賀郡の四町と、中間市も含まれる。かのんたち少年係の調査官が、鑑別所でも学校でも児童相談所や自立支援施設でもなく、個人の家を訪ねるときは、ほとんどの場合が「試験観察」という状態にある少年に会いに行くのが目的だ。
 単発的な窃盗や喧嘩などよりもさらに非行の度合いが進んでいたり、何かしら複雑な事情を抱えた少年が逮捕されると、もう「在宅事件」というわけにはいかなくなる。この場合は「身柄事件」と言って、少年は少年鑑別所で身柄を拘束された上で、心理テストや面接などといった「観護措置」を受け、最終的に裁判官による「審判」を受けなければならない。鑑別所で過ごすのは、通常なら四週間だ。少年が容疑を否認している場合は、最長で八週間に及ぶこともある。
 ところで、こうして少年が最終的に審判を受けるまでの間に、一定期間、家裁調査官が様々な働きかけを行いながら少年と面接を繰り返し、彼の変化を見守ることがある。この期間を「試験観察」という。試験観察中に少年が自分の行いを反省出来るようになったり、自分の問題点に気づき、更生への足がかりが摑めそうだと判断されれば、その後の「審判」にも影響する。
 この試験観察をするにあたって、再犯や逃走の恐れもなく保護者も協力的な場合は、身柄事件であっても、日常生活の中で学校や職場に通いながら生活のリズムを取り戻させる取り組みを行う。この場合でも、調査官はたとえば日記をつけさせたり、必要なカウンセリングを行うなど、相手の年齢や問題点に合った方法を駆使しながら、定期的に少年と保護者に家裁まで来てもらって面接を行う。ただし、事情があって来られない場合や、少年の家庭の状態や暮らしぶりを知るために家庭訪問をする場合もある。一方、家庭環境が整っていないとか、再犯・逃走する可能性が高い場合、また少年の社会への順応性などを調べ、一般常識を身につけさせるべきだと判断した場合には、少年は一般の篤志家に預けられることもある。これを「身柄付補導委託」という。期間はおおよそ六カ月。
 この場合、調査官は定期的に委託先に出向いて少年と面接をするが、どれだけ強がっていてもまだ十代の彼らにとって、馴染みのない環境で他人に囲まれ、基本的な生活態度の一つ一つから叩き直される体験は、精神的にかなり厳しいようだ。そこで初めて現実の重たさに気づいて泣き出したり、心細さに脱走する少年もいる。そんな問題を起こせば、まず少年院に直行だ。
 とにもかくにも、若月くんも巻さんも、今日の午後は身柄事件で観護措置中と、自宅での試験観察中の少年との面接があるということだ。
「ふう、ご馳走さまでした」
 ようやく箸を置いたときには、額にうっすら汗が滲んでいた。だが、会計を済ませて店から出ると、途端に冷たい風が吹き抜けて、汗など簡単に引いてしまう。季節は確実に巡り、もう冬の気配が感じられるようになっていた。九州は暖かいとばかり思っていたが、北九州という土地は実際に住んでみると夏場はともかくとして、冬は日本海に面しているだけに季節風が強くて意外なほど寒い。近ごろは秋の深まりと共に、朝晩ずい分冷え込むようになってきた。
 小倉駅に向かう巻さんたちと店の前で別れて、一人でのんびり歩きながら、かのんはふと、初めてこの土地で冬を迎えたときのことを思い出した。
 午後から冷たい雨の降り出した日だった。出張からの帰り道、坂道を歩きながら何気なく空を見上げたら、無数に降り注いでいた雨粒が空中でふいに速度を落とし、次の瞬間、ふわりと雪に変わった。同時に、傘を叩く雨の音も遠ざかって、それからものの十分程度で、遠くに見えていた田畑や小高い山まで、すべてが水墨画の世界のようになるのを、かのんは半ば陶然と眺めたものだ。気がつけば身体が芯まで冷え切っていて、小倉まで戻ったところで駅に直結しているショッピングモールに飛び込み、大急ぎで厚手のマフラーを買ったことも思い出す。
 今年もあのマフラーを出す頃だ。
 そう考えると、年月の早さを改めて思う。調査官は、三年ごとに異動する。それぞれの土地のことが分かりかけたと思う頃には他の土地に移ってしまうから、本当の魅力はなかなか摑みきれないが、かのんはかのんなりに、赴任地の景色や食べ物を味わいたいと思っている。
 この週末は自転車で少し遠出をしようと計画している。月に一、二回は東京に帰っていることもあって、土日や祝祭日でも、のんびりと自由に行動出来る日はそう多くない。このままでは、そうでなくても出番の多くないチェレステカラーのビアンキは、単なる飾り物になってしまいそうだ。
 そういえば、芦屋町の方に、なみかけ遊歩道というサイクリングスポットがあると、書記官から聞いている。波が打ち寄せる岩場に沿ってぐるりと走れるのだそうだ。これからの季節は風も強いし、かなりの寒さだろうが、それでも行ってみるだけの価値があるという話だった。おそらく片道一時間半も見ておけば行けるのではないかということだ。
 週末は、サイクリング。
 それを思うと気持ちが弾む。家裁の昼休みは四十五分と決まっている。だから食事でも何でも急がなければならないのだが、とりあえず戻る前にいつものコンビニに寄って、何か甘いものを買っていくことを忘れてはならなかった。

乃南アサ
1960年、東京生れ。早稲田大学中退後、広告代理店勤務などを経て1988年、『幸福な朝食』で日本推理サスペンス大賞優秀作を受賞し、作家活動に入る。1996年に『凍える牙』で直木三十五賞、2011年に『地のはてから』で中央公論文芸賞、2016年に『水曜日の凱歌』で芸術選奨文部科学大臣賞を受賞。他に『鎖』『嗤う闇』『しゃぼん玉』『美麗島紀行』『六月の雪』『チーム・オベリベリ』など、著書多数。

乃南アサ

新潮社
2022年9月20日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

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