第1話「自転車泥棒」を全文公開 乃南アサ『家裁調査官・庵原かのん』試し読み

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 翌週の末、自転車を盗んで捕まった田畑貴久との調査面接が行われる日が来た。果たしてどんな母子がやってくるのだろうかと、かのんは朝から何となく落ち着かなかった。
「こっちの緊張は、向こうにも伝わるわよ」
 昼食の時、巻さんに見抜かれた。かのんは「はい」と頷いて、深呼吸をしたり、痛みの引いた肩や首まで回して時計とにらめっこをして過ごした。すると、指定した時間の十五分ほど前に、母子がやってきた。
「あの、この子は少年院に入れられるんでしょうか」
 面接室で向き合って椅子に腰掛けた途端、母親が口を開いた。照会書のすべての質問に「とくになし」と答えた田畑里奈という女性は、根もとの部分から大分、黒い地毛が伸びてきている茶色い髪を後ろで一つに束ねて、羽織っているジャケットこそ派手だが、化粧気のない顔には明らかに疲労の色が見て取れた。そんな母親の隣で、十五歳の田畑貴久は、口を真一文字に結んだまま、ただ物珍しげに殺風景な面接室の中を見回している。
「そのぅ、警察でもお願いしたんやけど、今回だけは、何とか――」
「ご心配なく、今回のことで息子さんが少年院に行くことはありません」
 警察でも説明されているはずなのにと思いながらかのんが応えると、母親は驚いた様子で、戸惑ったように口もとに手をやる。その仕草や表情が、構わない髪型や疲れた顔と妙に釣り合いが取れていなかった。
「そうなんや――何や、よかった――ねえ、タカ、よかったね。少年院、行かんでいいっちょ」
 息子が頷くのを確認して、それからも、母親はしきりに口もとを動かしたり、唇をなめたりしている。緊張で喉が渇いているのだろうか。
「お水か何か、持ってきましょうか?」
 すると彼女は、今度はいやいやをするように細かく首を振る。もしかすると、この人は案外若いのかも知れないと、そのときに気がついた。十五歳になる子を持つ母親だし、ぱっと見はかのんよりも年上に見えるのだが、その割には仕草がどこか幼げだ。
「今日、来ていただいたのは、息子さんを少年院に送るための面接でも、警察のような取調でもないんです。ただ、今回どうして貴久さんが人の自転車を盗ってしまったのか、また同じことをしないためにはどうすればいいか、その辺りについて少しお話をうかがいたいと思って、来ていただきました」
 十五歳の田畑貴久は、そのボサボサ髪をさっぱりさせて服装にも気をつければ、かなり女の子にモテそうな雰囲気の、凜々しい顔立ちをしていた。古びた黒いダウンジャケットを着て、特に悪びれた様子もなく、かのんの質問にも素直に受け答えをする。
「それでね、ちょっと不思議に思ったんだけど、あの日はどうしてそんな時間に光明の辺りを歩いてたの? 貴久さんの家とは離れてるよね。時間も午後九時半頃っていったら、中学生にとっては遅いんじゃない? 塾にでも行っていたのかな」
 少年は口を真一文字に結んだままで何回か瞬きを繰り返していたが、やがて「あの日は」と口を開いた。
「何っちゅうか――ちょっと、時間つぶしっちゅうか、散歩しとったっちゅうか」
 かのんは「時間つぶし」と、彼の言葉を繰り返した。
「そうなんだ。それじゃあ、あちこち色んなところを歩いてたの?」
 自分の中で言葉を探しているのかも知れないが、見つからないらしい。少年はただ、こっくりと頷いた。
「何となく歩いてるうちに、あの辺りまで行って、それで、鍵のかかってない自転車を見つけたんで、乗っちゃった。そういうことかな」
「そんな感じ、です」
「なるほど。それで、行ったのが黒崎駅の近くの、繁華街だよね? それには、理由とかあったのかな。目的とか」
 今度は少年は、ちらりと隣の母親に目をやってからわずかに言い淀んだ後で「姉ちゃんに会いに」と答えた。少年に姉がいるということは、警察の調書にも書かれていない。
「お姉さんがいるの?」
「いる――今は、一緒に住んどらんけど」
「そうなのね。そのお姉さんが、黒崎の駅の辺りにいるの?」
「あの辺で働いとるっち」
「それで会いに行ったんだ。なるほど、なるほど。でも、それにしても、ちょっと遅くない?」
「姉ちゃん――キャバ嬢やけ」
「あ、そっか。キャバクラにお勤めなのね。お姉さんて、何歳?」
「十七」
 思わず「それは、まずいんじゃないの」という言葉を呑み込んだ。少年の言葉が本当なら、彼の姉は労働基準法違反で補導の対象になるし、働かせている店も風営法違反になる。それにしても、姉は十七歳でキャバ嬢として働き、弟はその姉を探して夜更けに自転車を盗んだという、それだけ聞いても、彼らの家庭が尋常でないらしいことがうかがえる。
「それで、お姉さんとは会えた?」
 田畑貴久は「会えんやった」と残念そうに肩をすくめ、もともと、姉が勤めている店の名前も知らないのだと言った。
「分からないで探してたの? それじゃあ、見つからなくても仕方がないよね」
 うん、と頷く少年は、長いまつげに縁取られた瞳を伏せていたが、すぐに目を上げて、「そうよね」と仕方なさそうに微笑んだ。この年頃の子特有の反抗的な雰囲気が見られない。むしろ、健気な感じの少年だ。
「それで、今は、自転車を盗っちゃったことについては、どう思ってる?」
 少年は「うーん」と天井を見上げ、それからまた口を真一文字に結んだ。
「――あのときは、そんなん何も考えとらんで、後から返しとけばいいやかっち思ったんやけど、今はやっぱ、悪かったなっち」
「そうだよね。人のものだもんね。貴久さん、自分の自転車はないの?」
「――前は持っとったんやけど、盗まれて、そんまんま見つからんのよね」
「そんなこともあったんだ。でも、それなら余計に、盗られた人の気持ちも分かるよね」
 少年は、うん、と大きく頷いた。これなら何の問題もなさそうだ。彼はおそらく、もう同じ過ちは犯さないだろう。
「ところで貴久さんは、学校は?」
 少年が、また困ったように「うーん」と言って首を傾げた。
「行ったり、行かんかったり」
「あんまり行ってないのかな。きっかけとかあったの? いじめとか」
 少年は「何となく」としか言わなかった。そのとき、ずっと隣で静かにしていた母親が、ふいにごそごそとバッグからタオルハンカチを取り出して、それを目に当てた。
「全部――私が悪いんです」
 母親の口から絞り出すような声が聞こえた。少年が唇を引き結んだまま、瞳に何とも言えない表情を浮かべている。
「駄目な母親で――この子は、私を心配して学校に行かんくなっちゃって」
 ちらちらと、かのんの方を見ては、この場をどう取り繕おうかと慌てているらしい少年が痛ましく見えた。
「貴久さん、ちょっと外で待っててくれるかな。お母さんと少し、お話ししたいから」
 かのんが促すと、貴久はまだ心配そうな顔をしていたが、素直に部屋を出て行った。二人きりになると、少年の母親はまたハンカチを目元に当てて、ほとんど嗚咽を洩らすように泣き始めた。
「私――もう、どうすればいいか分からんで」
「じゃあ、順番にうかがいますね」
 家庭裁判所は、少年事件とともに「家事事件」というものを扱う。離婚、遺産相続をはじめとする家庭内のあらゆる問題を扱うのだ。小さな家裁では、調査官は少年事件と家事事件の両方を担当することもあるし、かのんも家事事件を扱った経験がある。だから、こういう女性の話を聴くことも、何も特別なことではなかった。
 田畑貴久の母親、里奈は北九州市より南に位置する筑豊の小さな町で生まれ育ったのだそうだ。かつては炭鉱で賑わった土地だが、とうの昔に当時の賑わいは失われた。両親は早くに土地を捨てて出ていき、彼女は祖母の手で育てられたという。十六歳で妊娠したのを機に高校を中退、結婚して長女を出産、二年後には長男の貴久が生まれた。三つ違いだった夫は土木作業員だったが、長女が四歳になる前のある日、理由も告げずに家を出ていってしまった。後日、夫の親が離婚届だけを持ってやってきたのだそうだ。理由は「自由になりたい」と言っていたと聞かされた。祖母は既に他界しており、突然、幼い子を二人抱えて途方に暮れた里奈は、とにかく母子三人で生きていくために北九州に出て、風俗店で働くようになった。
「他に三人で生きてくだけのお金がもらえる仕事が見つからんで」
 ほとんど昼夜逆転の生活だったが、家のことは幼い長女が懸命にやってくれていた。
「でも、私って、強い女やないけ――やけん、早く再婚したかったんですよね」
 独りは辛い。独りは淋しい。だから何とかして頼れる人が欲しかった。だが、どの男とつき合っても、相手は常に里奈のことを風俗嬢としか見てくれなかった。結局は遊ばれただけだと分かり、失意に沈むごとに酒を覚え、煙草も吸うようになった。小学生になった長女は「給食が食べられるから」と毎日、学校に行くようになったが、貴久の方は小学校に上がってからも、日中、泥酔する母親のことを心配して、学校を休む日が増えていったらしい。里奈は、新しい男とつき合っては捨てられてを繰り返し、そうこうするうち、現在の交際相手と知り合った。「世界が変わると思った」と、里奈は語った。
「だって、あの人、つき合い始めてすぐに言ってくれたんです。『風俗なんかやめろ』っち。そんなこと言ってくれる男は初めてやった」
 今度こそ本物の相手と出会ったと信じた。そこで里奈は、男の言葉を聞き入れて風俗の仕事をきっぱり辞めて、ビル清掃会社で働き始めたのだそうだ。知り合った当初、男は電気工事会社に勤めていた。
 最初のうちこそ、男は子どもたちを食事に連れていってくれたり、休日には貴久とサッカーをして遊んだりと、優しくしてくれた。子どもたちも男になついた。このまま、男と再婚出来ればいいと、里奈は本気で考えるようになったという。だが、そんな日々は長く続かなかった。男が、仕事中に怪我をしたことでしばらく働けなくなり、そのまま勤め先を辞めたのだ。それからというもの、男の様子が変わっていった。昼間からパチンコに通うようになり、里奈のアパートを訪ねてくるたび、少しずつ金を無心するようにもなったのだそうだ。
「もとはと言えば私が悪いんです。私もパチンコが好きやったけん、一緒に行ったときには私がお金を出したりして、それが当たり前みたいになっちゃって」
 里奈としては、当初は男が新しい職に就くまでの辛抱だという気持ちがあった。だが男は怪我が完治してからも、いつまでたっても仕事を探す気配がなく、そればかりか、酔うと次第に里奈に暴言を吐き、子どもたちにも当たり散らすようになっていった。そしてあるとき、里奈が仕事から帰ってくると、今まさに長女にのしかかって、乱暴しようとしているところだったという。それが、今から四カ月ほど前のことだそうだ。
「そのまま、娘はアパートを飛び出していきました。何回電話しても出らんし、LINEも見てくれてなくて、高校にも行っとらんみたいやし――もう、どうしたらいいんやろうと思っとったら、やっと一週間くらいしてからLINEが来たんですよね。働き口を見つけたけって。『あいつがうちに来る間は、帰らん』って」
 今年で三十五になるかのんより、一つか二つ若いはずの里奈の瞳からは、次から次へと新しい涙がこぼれ落ちてくる。結局、貴久が夜更けの町をさまよい歩くようになったのも、原因はその男だということだ。時間にかまわず酔ってアパートにやってきては、里奈だけでなく貴久にもからみ、時として手をあげ、しかも、子どもがいる前でも里奈に卑猥な言葉を投げかけたり求めてきたりするから、多感な年頃の少年がいたたまれなくなるのも無理もない話だった。
 貴久少年にしてみれば、二歳違いの姉は幼い頃から母親以上に自分の面倒を見てくれた人だ。だからこそ、少年は姉を求めたのだろう。だが姉は、働いている店の名前を伝えていなかった。ただ、黒崎にいること、何かあったらすぐに駆けつけるから心配するなと言っていたらしい。
「今度のことで裁判所から書類が届いたときも、あの人は『こんなもん捨てちまえ』とかっち言って、そのまま私からもぎ取って、放り出したんですよね――それでまた、喧嘩になりました。そのときに初めて、息子が言ったんです。あの人に」
「何て、言ったんですか?」
「『出てけ』って。それはもう、恐ろしい顔をして――今にも殴りかかりそうな勢いでした」
 あんなに真っ直ぐな眼差しを持っている少年が、実はそれほどまでのストレスを抱えていることに、かのんは衝撃を受けた。今のうちに何とかしなければ、彼はさらに傷つき、やがてはもっと大きな罪を犯してしまいかねない。それにしてもこの問題は、もはや少年係の調査官がどうこう出来るものではない。手元の時計を見ると、予定していた面接時間はとうに過ぎている。
「それで、お母さんは、今後はどうなさるおつもりですか。今のままでいいと思っていますか?」
 かのんの質問に、泣き疲れた顔をして、田畑里奈は大きくゆっくり首を横に振った。
「――あの人と、別れようと思います。いくら私でも、さすがに分かります。あの人とは一緒におられん――私たち全員、駄目になるって」
「私も、そう思います。今は、何よりもまず、お子さんのことを大切に考えた方がいいんじゃないでしょうか。お話をうかがったところ、上のお嬢さんも心配です。十七歳ということは、本当はまだキャバクラで働いていい年齢ではないんですよ」
 母親は「そうなんですか」と怯えたような顔になった。
「出来るだけ早く、母子三人がもとの生活を取り戻せるように、やってみませんか」
 とにかく一人で悩まずに、色々なところに頼ってもいいのではないかと言うと、田畑里奈は、自分などの相談に乗ってくれるところがあるのだろうかと、さらに不安そうな表情になった。かのんは「ありますとも」と頷いた。
「私も出来るだけのことはします。今の状況から、抜け出しましょう。何としても」
 母親が落ち着いたところで、最後にもう一度、貴久少年を部屋に呼んだ。少年は、明らかに警戒した様子で、おずおずと席につく。
「貴久さん、これから、お母さんの力になってあげてくれないかな」
 少年は、泣き腫らした顔の母親を見てから、不安そうな顔になる。
「色々とお話を聞いたけど、お母さん、たくさん悲しい思いをしてるじゃない? だから何とかして、抜け出そう」
「抜け出す?」
「そう。これ以上、悲しい思いをしなくてすむように。だから貴久さんにも、また家族が三人で暮らせるように、手伝ってほしいんだ」
 少年はまつげの長い目を何度も瞬かせ、考える表情になる。
「やけど、僕が出来ることっち――」
「まずは、お母さんに心配かけないことだよね。もう二度と、人のものを盗ったりしないで、それから、出来れば学校にも行って」
 少しして、少年は「でも」と自信のなさそうな顔になった。
「小学校、あんまり行っとらんけ、勉強、分からんし」
「ああ、そうか――そのことも考えよう。きっと何とかなるよ」
 すると、少年の顔がぱっと明るくなった。その笑顔があれば、この家は大丈夫だと思えるような笑顔だった。
 モデルとかアイドルとかにもなれそうなんだけど。
 ちらりと、そんなことも考えながら、とにかく出来るだけ早く、自分も動くようにする、だから貴久少年には、ぜひとも母親の支えになってあげて欲しいと念を押して、面接を終えることにした。
 まさか、こんなことになるなんて。
 思っていたのと全然違う展開になってしまった。まずは児童相談所と婦人保護施設に連絡を入れるのがいいだろうか、いずれにせよ勝又主任に相談した上で、一日も早く手を打たなければ、長女まで補導されては大変だなどと次々に考えながら、せかせかした気持ちで調査官室に戻る。すると、隣の席の鈴川さんが、待ってましたとばかり、つつっ、と椅子ごと近づいてきた。
「あ、鈴川さん、あのですね――」
「ちょっと、かのんちゃん、さっき警察から電話があったのよ」
 まずは、かのんから田畑母子の件を相談したかったのに、鈴川さんはいつになく意気込んだ顔つきをしている。出鼻を挫かれた気分で首を傾げると、鈴川さんは「ですよね、主任!」と、勝又主任を呼んだ。すると主任までが「そうそう」と勢いづいて席から立ち上がって近づいてきた。
「あったんだ、警察から。庵原さんに」
「私に、ですか?」
 主任は鈴川さんの隣まで来て、いかにも何か言いたげな顔つきになっている。だがその前に、鈴川さんが口を開いた。
「先週、かのんちゃんが面接した少年、朝倉陽太朗ね」
「朝倉――ああ、万引きの」
 主任が腕組みをして眉根を寄せた。
「また逮捕されたんだそうだ」
「――えっ?」
 先週、面接したばかりの少年の顔が思い浮かんだ。頭の中で一杯に膨らんでいた田畑母子の問題が、きゅっと押しやられる。かのんは頭が混乱しそうになりながら、とにかく鈴川さんと主任を交互に見た。
「何をやったんだと思う?」
「――また、万引きとか? それとも、もっと派手な――」
「ど派手も、ど派手ですよね、主任」
 鈴川さんが主任を見上げる。主任は、今度は口もとを変な格好にねじ曲げながら、いつになく重々しく頷いた。
「派手なんていうものじゃないわなあ。何しろ、暴行傷害だ。それも、相手は肋骨二本と腕まで骨折して入院」
 かのんは「あの子が?」と、絶句しそうになった。鈴川さんが、さらに顔を近づけてくる。
「誰をやったんだと思う?」
「例の、つるんでた友だちとか」
「違うちがう。あのね。は、は、お、や」
「――え」
「家の中で大暴れしたらしいわ。それで、ボコボコにされた母親が、自分で一一〇番したんだって。『助けて、殺される』って」
 衝撃と同時に、心のどこかで「やっぱり」という思いが浮かんだ。あのときの少年の苛立ち、母親の様子が思い出される。
「要するに、この間の万引きが、危険水域だったのね」
 鈴川さんが、やれやれといった表情で言った。
「――ということは、私の面接が駄目だったんでしょうか」
「いや、本当の問題が露呈するまでには、それなりの時間がかかるもんだ。あそこが危険水域だとしたら、その後、決壊したんだろう、少年の中で、何かが」
 主任は肩をすくめながらゆっくりと自分のデスクに戻っていこうとする。かのんは慌てて「主任!」とその背中を追いかけた。
「私に担当させてください!」
「それを決めるのは、谷本判事だからなあ」
「でも、何とか!」
 もう一度、あらためてあの少年と向き合いたい。母親とも話をしなければならない。そのとき、「それはそうと」と鈴川さんの声が聞こえた。
「今の面接、いやに長かったじゃない? 何か、大変なことでもあった?」
 しまった、そのことがあるのだ。かのんは反射的に自分の頭を抱えるようにして「ああっ、もうっ!」と声を上げてしまった。
「それ、そのことなんですっ! そっちから動かなきゃいけないのにっ!」
 だが、何から話したらいいものやら、もう頭がパンクしそうだ。淡々と処理すればいいはずだった二つの在宅事件が、まさかこんな展開を見せようとは、考えもしなかった。そのとき、ちょうど外から帰ってきたらしい若月くんの「たい焼き買ってきましたよぉ」というのんきな声が響いた。かのんは、飛び上がるようにして若月くんに駆け寄った。
「食べたい! ちょうだい!」
 赤ちゃんアザラシ顔の彼が、「熱いですよぉ」と、にっこりと笑った。

続きは書籍でお楽しみください

乃南アサ
1960年、東京生れ。早稲田大学中退後、広告代理店勤務などを経て1988年、『幸福な朝食』で日本推理サスペンス大賞優秀作を受賞し、作家活動に入る。1996年に『凍える牙』で直木三十五賞、2011年に『地のはてから』で中央公論文芸賞、2016年に『水曜日の凱歌』で芸術選奨文部科学大臣賞を受賞。他に『鎖』『嗤う闇』『しゃぼん玉』『美麗島紀行』『六月の雪』『チーム・オベリベリ』など、著書多数。

乃南アサ

新潮社
2022年9月20日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

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1896年(明治29年)創立。『斜陽』(太宰治)や『金閣寺』(三島由紀夫)、『さくらえび』(さくらももこ)、『1Q84』(村上春樹)、近年では『大家さんと僕』(矢部太郎)などのベストセラー作品を刊行している総合出版社。「新潮文庫の100冊」でお馴染みの新潮文庫や新潮新書、新潮クレスト・ブックス、とんぼの本などを刊行しているほか、「新潮」「芸術新潮」「週刊新潮」「ENGINE」「nicola」「月刊コミックバンチ」などの雑誌も手掛けている。

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