「涙が出るほど美しい」――世界が感動した、上皇后・美智子さまのスピーチ秘話

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上皇后・美智子さま

2022年10月20日に88歳のお誕生日を迎えられた上皇后・美智子さま。読書家としても知られる美智子さまが、少女時代の読書の思い出を語り、世界中を感動させた講演がある。1998年にインド・ニューデリーで行われたIBBY(国際児童図書評議会)世界大会にて実現したビデオによる講演だ。

美智子さまのお言葉に、「涙が出るほど美しい」と感激する人が続出したこの講演だが、実現するまでには奇跡のような出来事と感動の秘話があるという。

今回、美智子さまが上梓した一冊『橋をかける 子供時代の読書の思い出』を手がけた絵本編集者の末盛千枝子さんの自伝的エッセイ『「私」を受け容れて生きる』(新潮社)より、抜粋してお届けする。

※敬称等は、本作品の単行本が刊行された2016年3月当時のものです。

 ***

 ニューデリーでのIBBY世界大会では美智子様の基調講演をビデオで流したのだが、その収録でお世話になったNHKの元会長でいらした川口幹夫氏が、二〇一四年十一月に亡くなった。私の最初の夫、末盛憲彦は、川口さんのもとで「夢であいましょう」などの番組を作っていて、テレビに活気のあった幸せな時代だったとは思うけれど、五十四歳で突然死した。そのとき、放送総局長だった川口さんは、ちょうど郷里の鹿児島に帰省中で、そこで、末盛の訃報を受けとられた。そして、すぐに電報を下さった。それは本当に心のこもったあたたかい電報で、こんなに長い電報というものが世の中にあるのかというほど、思いやりに充ちたものだった。

 また、ご自身の死から二十年前に奥さまを亡くされた時、花の写真を撮っておられた奥さまの写真の数々を使って、とても美しいたくさんのテレホンカードを作り、配ってくださった。川口さんの奥さまを思う気持ちが、優しく伝わった。そういう人だった。そんな川口さんの人柄と存在が、緊急を要した大変な中での、美智子様のビデオによる基調講演を可能にしてくれたのだと思う。

 一九九八年のIBBYニューデリー世界大会にて皇后美智子様に基調講演をお願いしたいというインド支部の四年にわたる熱心な申し出に、どうにか美智子様のまわりの情況も応えられそうになっていた矢先、インドが核実験をするということがあった。私は新聞の一面に特大の活字でそのニュースが報道された朝のことが忘れられない。ああ、これで、美智子様のインド行きはなくなってしまったと、とっさに思った。そして、案の定、美智子様に行っていただくわけにはいかないという政府の決定がなされた。

 しかし、その決定は大会の直前まではっきりとはなされなかったので、この世界大会のテーマである「子どもの本を通しての平和」にそって、美智子様は不安がおありだったとは思うけれど、黙々と原稿の準備を進めておられた。それだけに、二週間ぐらい前になっていよいよ不可能になったという時、美智子様は、大会初日の基調講演に穴をあけることになると、長い間忍耐強く待ってくれていたインドの人たちに申し訳ないという困惑の思いを強く抱かれ、心を痛められた。

 そんな美智子様のお姿に、いてもたってもいられず、島多代さんと私は、この時代、ビデオによる講演という方法があるのではないですかと美智子様にお話しし、この人に頼むしかないと、NHKの会長を退いたばかりの川口さんに会いにいった。かいつまんで事情を伝え、美智子様からお預かりした原稿を見せると、彼はその場で目を通し、「わかった。どういう方法をとるのがいいか急いで極秘に考えるから」と言ってくれた。本当に時間がないということも話したので、きっとその時すぐに、どのような方法をとるのがいいか、頭の中で組み立て始めていたのだと思う。

 翌日には川口さんの指示で、当時の放送総局長に会いに行った。放送総局長は、そのとき、「私が新聞の編集局長だったら、この文章は、全文このまま掲載しますね」と言われた。美智子様の原稿は本当に率直に、ご自分にしかお書きになれない、ご自身の体験から感じ、考えられた思いに充ちた素晴らしいものだったから、私も総局長と同じ気持ちだった。しかも子どもの読書についての深い思いも込められていた。大至急、少人数の担当クルーが極秘に編成され、不思議な力が働いたとしか思えないように、すべてがうまく運んだ。

 数日後収録の手はずがすべて整う頃、ニューデリーでIBBYの次期会長に立候補することになっていた島さんは、立候補演説の準備のために、自分自身も大変だった。ここまで道を付けたのだから、後はお願いねと言うように、自分の仕事にかえって行ったので、私は収録の全てに立ち合うことになった。

 収録を二日後に控えた朝のこと、収録を担当することになったディレクターの若い女性から電話があり、美智子様の原稿にある、新美南吉の『でんでんむしのかなしみ』の出版の時期が、美智子様の原稿と合わないのではないかと言ってきた。彼女は念のため原稿のすべてを校閲していて、『でんでんむしのかなしみ』は、基調講演の中心をなす部分なのだけれど、美智子様が書いておられるようなお小さい時には、まだその本は出版されていないはずだ、というのだ。そして、収録にかかる前に、そのことを美智子様にお伝えしてくれというのだ。私がそれをお伝えしなければならないのか……、と頭の中が真っ白になるようだった。

 でも、ここで逃げたり、いい加減にしたりするわけにはいかないとわかっていた。至急皇后様に見ていただいてください、と要点を書いたファックスを女官に送り、ご連絡を待った。美智子様は、お小さい時にお家のどこでその話を叔父さまか、叔母さまか、どなたかにお聞きになったと、かなりはっきり憶えておられるようだった。しかもその話を中心に据えてご講演を進めようとしておられたのだから、美智子様にとって、どんなにショックでいらしたかと思う。私もショックでファックスに何か気休めを申し上げたと思うけれど、役には立たなかっただろう。

 しかし、美智子様はそのことをすぐに陛下にご相談になり、陛下は、「その本が出版された時期と、実際に新美南吉が書いた時期とは違うかもしれないから、まずそれを調べてはどうか」と沈着にアドバイスされたとのことだ。そして、新美南吉が書いた時期は、美智子様がそのお話を聞かれた時期と齟齬がないということが確認された。ほっとして、同時になんと良いご夫婦なのだろうかと思った。あの時期、南吉は一ヶ月に三十篇もの童話を書いていたようなので、何かの雑誌に載ったのを、叔父さまか叔母さまがご覧になったのかもしれない。あの収録のころ、私自身大きな歴史の大事件に立ち会っているという緊張感と高揚感とがあった。

 川口さんのお通夜の日、別室で待機している際に席が隣になったのは、あの収録の時のプロデューサーだった。あまりの偶然に驚きながらも、長い待ち時間にあの時の思い出を小声で語り合った。お互いに、一生忘れられない思い出で、大変な隠密作戦を一緒に戦った同志のようでもあった。

 後にすえもりブックスで『橋をかける』という本にさせていただいたのだけれど、あのご講演は、本当にすばらしいものだった。子ども時代の読書について、後にも先にもあれ以上のものは考えられないと思うくらいであり、そして世界中の子どもの本に関わる人たちにとって、皇后美智子様はかけがえのない大切な存在になった。

 忘れられないのは、川口さんがあの原稿に目を通した直後、美智子様について「あの方は三十年以上もの間、これだけ豊かなものを心に秘めてこられたのですね」と嘆息ともいえる深い感慨を口にしたことだ。川口さんらしい優しさと美智子様のご苦労に対しての深いいたわりだった。

 そして、いよいよ英語と日本語との両方が御所で収録された。ご自分の英語が使いものにならなかったら困るという美智子様のお気持ちをお察しして、用心のために日本語でも収録した。その時すでにインドへの出発まで一週間を切っていた。御所にテレビカメラが入るのは初めてのことだっただろう。ちょうどその頃、予定されていた国賓の来日が取りやめになるということがあり、両陛下は数日のあいだ時間がおありだった。こんなことは、滅多にないことに違いない。

 打ち合わせのために、収録の前日、NHKの人たちと一緒に御所に伺うと、それまですべての相談に乗ってくださっていた侍従長、渡辺允さんが、「わからないことはなんでも皇后様にお聞きなさい」と言ってくださった。その日は、カメラをどこに据えるかというような打ち合わせだけだと思っていたのだが、だいたいの段取りがついた時に、なんと皇后様がお出ましになり、テーブルを囲んで、担当の技術さん達にも、ご自分からいろいろと質問なさった。特に印象的だったのは、皇后様が「途中で休憩がはいった時に、誰かと話をしてしまうと、気持ちの流れが変わるから、誰とも話はしません」と言われたことだ。加えて、言い間違えなどがあり、言い直す時には、その言葉からではなく、その段落の冒頭に戻って言い直しますともおっしゃった。時間がないなかでの、編集作業のために、それはどれほど有り難いことだっただろうか。担当者たちは、どんなに助けられたことだろう。

 翌日の収録本番は、緊張感につつまれるなか、皇后様はていねいにお話をなさった。休憩の時には、すこし御髪を直されたり、お水を飲まれたり、伸びをなさったりされた。とても初めてとは思えないようなお姿で、私にとってはまるで夢の中にいるような信じられないことばかりが続いた。

 途中の休憩が終わって、次が始まるときのこと、かの女性ディレクターが「申し上げます。いままでのところは、すこし悲しいお話でしたが、ここからは楽しいお話ですので、ニコニコニコっとなさって下さい」と言ったのだ。みんなあっけにとられ、さすがの美智子様も笑いをこらえておられた。

 収録が無事に済むと、皇后様のビデオが流されるニューデリーの会場にどのような機材が準備されているかわからないので、技術担当者が会場と連絡を取って丹念に調べてくれ、ホールには大きなスクリーンを用意してもらい、それでも心配して、念のためにと三種類のビデオテープを用意してくれた。そして、それは機内に私が持ち込み、責任をもって、ニューデリーの空港で通関を終え、そこで担当者に手渡しするという段取りだった。そして全てはそのように運んだ。

 収録の間ずっと、私はいつか、日本中のすべての人にぜひこのご講演を聞いてもらいたいと心から願っていた。そしてそれは、思いのほか早く実現した。会場でビデオが滞りなく上映されたことを宮内庁とNHKに電話で報告すると、それを受けてすぐに、日本では、今度は隠密ではなく、民放にもビデオを提供した上で、NHKはその放送のために急遽番組予告を流し、数時間後には、五十二分というご講演をノーカットで放映し、日本中に見てもらうことができたのだった。

 しかも、夜中近くの時間としては異例の五パーセントという高視聴率だったそうで、再放送希望の電話も五百本はあったとのことだった。反響が大きかったので、これを何回も放送し、一度などは英語のバージョンに日本語のテロップをつけて放送した。これは外国人だけでなく、聴覚障害の方たちのためでもあった。とにかく、皇后美智子様の想いがたくさんの人に届いただろうことが本当に嬉しかった。

 それにしても、あの時の会場の様子は忘れがたい。入り口で、在インド日本大使館が用意してくれたご講演の原稿のコピーを受け取って、会場に入った人達は、静まり返って、食い入るように大きなスクリーンに映し出されるご講演に聞き入っていた。時々、ペーパーをめくる音がするだけで、ゆっくりと丁寧に語りかける皇后様のお言葉は、心の奥底にしみ入っていくようだった。ご心配の英語も素晴らしく美しかった。

 お話が終わったとき、「涙が出るほど美しい」と感激している人たちがたくさんいた。日本人と見ると握手を求められた。そのペーパーを大事に持って、「これが何よりのインド土産だわ」という人もいた。無事に上映されたことを見届けて、同じホテル内の自分の部屋に急いで戻り、待ちかねている日本の関係者に電話で報告した時のことは、今思い出しても、ドキドキする。

 会場には、あまり事情を知らずにたまたま取材に来ていた共同通信の若い記者がいて、皇后美智子様のご講演にびっくり仰天して、私が自分の部屋に戻るのを追いかけてきた。「これって大変なことじゃないですか」と叫んでいたのも忘れられない。

 興奮冷めやらぬうちに美智子様とは直接お話が出来、大成功だったことを申し上げた。島さんと私が大騒ぎのあげくに、二人とも遠くインドに行ってしまって、心細く思っていらしたご様子だった。

 川口さんのお通夜の席であのときのプロデューサーと、三本のビデオテープを機内に持ち込んだときのことや、収録の時のカメラマンや音声の担当者、それに若い女性のディレクターのことなど、いろいろなことを話した。なんだか川口さんが計らってくれたようだった。お通夜は無宗教でチェロとピアノだけで行われ、まるで音楽葬のようだった。いかにも川口さんを送るのにふさわしい温かく幸福な人生の報告会のようだった。

 物事は、ときになんと不思議な展開を見せるのだろうか。もし、あの時、皇后様が予定通りインドをご訪問になっておられたら、新聞でもテレビでも「皇后様はインドでご講演をなさいました」というニュースで終わってしまったのではないだろうか。ところが、インドにおいでになれなかったために、ご講演が急遽ビデオに収録され、日本中の人が美智子様のお話を直接テレビで聞くことができた。その上、本にもなった。あのご講演によって、美智子様が、どのようなことを考えておられる方かが多くの人に伝わったと言えるのではないだろうか。

 本の発売後、感想が書かれた読者カードがたくさん寄せられた。それまでは、もっぱら女性週刊誌などで、ファッションのことが取り上げられるばかりでもの足りない思いをしていた人が多かったと思うが、今回は、「何となく、ものごとをそのように考える方ではないかとひそかに思っていたけれど、やっぱりそうだった」という喜びの声が圧倒的に多く、出版した者としては、我が意を得たり、という思いがした。

 お話の中で、美智子様は読書を通して、他の人の悲しみを知り、喜びを知り、愛と犠牲が分ちがたいということを知ったこと、そして、誰しも、何らかの悲しみを背負って生きているということを小さい時に知ったと、『でんでんむしのかなしみ』を引用して語っておられる。そして読書には、人間を作る「根っこ」と喜びに向かって伸びようとする「翼」があり、ご自身が、外に内に橋をかけ、自分の世界を少しずつ広げながら育っていくときに大きな助けとなった、と日本の神話にも触れてお話しになられた。本当にすばらしいご講演だった。

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※『「私」を受け容れて生きる―父と母の娘―』(2021年新潮文庫刊)より抜粋。

末盛千枝子
1941(昭和16)年、東京生れ。慶應義塾大学文学部卒。至光社、G.C.PRESSで編集者として勤務。1986年『あさ One morning』でボローニャ国際児童図書展グランプリを受賞、ニューヨーク・タイムズ年間最優秀絵本にも選ばれた。1988年、すえもりブックスを立ち上げ独立。まど・みちおの詩を美智子さまが選・英訳された『どうぶつたち THE ANIMALS』や、美智子さまの講演録『橋をかける 子供時代の読書の思い出』などを手がける。2010(平成22)年から岩手県八幡平市に移住。2011年から10年間、被災地の子どもたちに絵本を届ける「3.11絵本プロジェクトいわて」の代表を務めた。

新潮社
2022年10月20日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

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1896年(明治29年)創立。『斜陽』(太宰治)や『金閣寺』(三島由紀夫)、『さくらえび』(さくらももこ)、『1Q84』(村上春樹)、近年では『大家さんと僕』(矢部太郎)などのベストセラー作品を刊行している総合出版社。「新潮文庫の100冊」でお馴染みの新潮文庫や新潮新書、新潮クレスト・ブックス、とんぼの本などを刊行しているほか、「新潮」「芸術新潮」「週刊新潮」「ENGINE」「nicola」「月刊コミックバンチ」などの雑誌も手掛けている。

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