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- 沖縄県知事
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2022年9月の沖縄県知事選で再選を果たした玉城デニー知事が掲げる「オール沖縄」。しかし、その創設者である翁長雄志・前知事(故人)がもともと自民党沖縄県連の幹事長を務めた保守政治家であったことは、県外ではあまり知られていません。はたして翁長雄志とはどんな人物だったのか? なぜ保守が「オール沖縄」を作ったのか――。沖縄に米軍基地が集中した歴史的過程を研究する国際政治学者・野添文彬さんの新刊『沖縄県知事 その人生と思想』から、一部を抜粋して公開します。
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第七章 翁長雄志─なぜ保守が「オール沖縄」を作ったのか
最期の記者会見
二〇一八年七月二七日。沖縄県庁の会議室で行われた記者会見で、翁長雄志(おながたけし)沖縄県知事は、かすれる声を絞り出すようにして、普天間飛行場の移設のための辺野古埋め立て承認の撤回を表明するというコメントを読み上げた。一四年十二月に沖縄県知事に就任して以来、翁長は普天間飛行場の辺野古移設の阻止を目指し、日米両政府と鋭く対立してきた。翁長はこの日、辺野古移設阻止のための新たな一手として、一三年十二月に当時の仲井眞弘多知事が行った埋め立て承認を撤回する方針を示したのである。
コメントを読み上げた後、翁長は、記者からの質問に対し手ぶりを交えながら、時に話がそれながらも、熱く語った。そこで翁長は、日米安保を最優先する一方で沖縄県民の民意を無視して辺野古移設を強行する日本政府を厳しく批判するとともに、これまで国際政治に翻弄され苦難の歴史を歩んできた沖縄がアジアの経済成長とともに発展し、「日本とアジアの架け橋」としての役割を果たす可能性を強調したのである。
実はすでにこの時、がんの転移のために翁長はまともに歩けないほど衰弱していた。四月に膵臓がんの手術を行った後、退院して職務に復帰したが、その後体調は悪化するばかりであった。会見の朝も「記者の質問に答えることができるだろうか」と妻の樹子(みきこ)に弱音を吐き、樹子に「大丈夫よ、できるでしょ」と励まされている。会見後に帰宅した翁長は、「三〇分くらい自分の言葉で話ができた。よく保てた」とほっとしていた。しかし三日後の七月三〇日、病状が進んだ翁長は再入院し、八月八日に死去する。
翁長は元来、日米安保を支持する保守政治家であり、かつては自民党沖縄県連幹事長もつとめて革新の大田(昌秀)県政と激しく対立した。稲嶺知事時代には、普天間飛行場の辺野古移設の条件付き受け入れにも関与している。それにもかかわらず、やがて「イデオロギーよりアイデンティティ」を掲げ、保守・革新の枠組みを越えて普天間飛行場の辺野古移設に反対するという「オール沖縄」と呼ばれる政治勢力を構築し、日米両政府と激しく対立していく。彼が命を落としたのは、まさにそうした対立の最中であった。
何が翁長を変化させ、そのような壮絶な人生へと駆り立てたのか。そして、翁長が構築した「オール沖縄」とは何だったのだろうか。
1.保守政治家の一家
米軍に立ち向かった父
翁長雄志は、一九五〇年十月二日、真和志(まわし)村(現・那覇市)大道(だいどう)で生まれた。父は助静(じょせい)、母は和子で、五人兄妹の末っ子にして三男だった。助静はもともとは教師だったが、戦後、真和志村長・同市長をつとめ、その後は立法院議員になった。兄の助裕(すけひろ)も沖縄県議会議員をつとめ、西銘順治県政で副知事になる。いずれも保守系の政治家だった。
翁長(以下、翁長雄志を翁長と記す)の政治家としての原点は、父・助静の活動にある。助静は沖縄戦において、米軍の砲撃のために父・助信を目の前で亡くした。終戦直後には、摩文仁で散乱していた遺骨を収集し「魂魄(こんぱく)之塔(とう)」を建立する。この時、助静は「魂魄之塔」という名前を提案するとともに、その碑の裏に刻まれる歌を詠んだ。「和魂(にぎたま)となりてしずまる おくつきの み床の上をわたる潮風」。特に最後の「潮風」には、「これからの沖縄にはもっと厳しさが襲ってくるだろう」という思いを込めたという。助静は生前、「政治の原点は平和なんだ」と語っていた。後年、翁長は選挙の度に死者たちの遺骨を集めた父・助静の思いを胸に刻むため、「魂魄之塔」に手を合わせてから選挙戦に臨んだ。
政治家としての助静は、米国統治時代、米軍当局にしばしば立ち向かっている。真和志市長時代の五六年、軍用地問題をきっかけとして起きた「島ぐるみ闘争」では、助静は保守の琉球民主党を代表し日本政府に協力要請をおこなうための日本本土派遣メンバーになった。また、立法院議員時代の六二年二月には、立法院において国連総会での植民地独立付与宣言を取り入れた「施政権返還に関する要請決議」(「二・一決議」)が全会一致で可決されるにあたって、与野党間のとりまとめに尽力し、発議者として壇上に立った。
当時はキャラウェイ高等弁務官が強権的な沖縄統治を行っていた頃だった。後に沖縄県知事となった翁長は、辺野古移設を「粛々と」進めると述べる安倍政権の菅義偉官房長官に対し、キャラウェイ高等弁務官を思い起こさせると厳しく批判するのである。
父の選挙運動のため、翁長は小学校一、二年生の頃からポスター張りやビラ配りなどをしていた。同時に、米軍基地をめぐって沖縄で保守と革新が激しく対立している様子を目にしてきた。翁長が小学校六年生の時には、父・助静が立法院選で落選する。この時、学校の教師たちは革新陣営を支援しており、翁長は職員室で教師たちが黒板の「翁長助静」の名前に「×」を、革新陣営の候補者の名前に「◎」を書いて万歳をしている様子を見て、胸が引き裂かれるような思いをしたという。
助静が落選した時、母の和子は翁長を抱き寄せ、「おまえだけは政治家になるんじゃないよ」と言った。助静が当選と落選を繰り返す中、和子は那覇市の栄町(さかえまち)で蒲鉾や沖縄そば、漬物を売って家計を支え、苦労していたのである。しかし翁長はその時、「自分は絶対、政治家になる」と心に決めたという。翁長は小学校四年生の時には「那覇市の将来」と題する作文を書いて表彰され、それ以来「那覇市長になりたい」という夢を抱くようになる。そして翁長は小学校五年生の時には児童会長選挙に立候補して「当選」し、それ以降、那覇市長選、沖縄県知事選も含めて「選挙」で十連勝するのである。
「県民投票は踏み絵」
翁長は那覇高校を卒業した後、母の期待に沿って医学部を目指したが受験に失敗し、二浪する。二浪目に父・助静が母を諭し、翁長は法政大学法学部に進学した。
七二年に沖縄が日本に復帰した時、翁長は法政大学の学生だった。後に翁長は、日本復帰について「米軍統治下の二七年間は何だったのだろう、と自問しながらアイデンティティーが揺らぐこともありました」と回想している。「二七年間の重みがずっしりとあって、羽ばたこうにもなんか自信がない。本土に対する気おくれもあ」ったという。このような翁長にとって、復帰後の年月は「『ウチナンチュ』として誇りを取り戻すために要した時間」だというのだった。
七五年に法政大学を卒業すると、翁長は兄の始めた土木会社に入る。この間も翁長は政治家への思いを燃やし続けた。翁長は「子どものころから沖縄のいびつな社会構造や県民の思いに肌で接してきたため、政治の力で県民の心を一つにしたい、一つの政治勢力として定着させたい、という気持ちは他の誰よりも強かった」と回想する。心の中で保革対立という「白黒闘争をうちなーんちゅの誇りで乗り越えなければ」と思い続けてきたのである。
ついに八五年、翁長は三四歳の時に那覇市議選に立候補し、当時最年少で当選する。那覇市長になるという夢のために、まずは那覇市議からスタートしたのだった。那覇市議を二期つとめたのち、翁長は九二年の沖縄県議選に出馬して当選する。この時、翁長は自民党の公認を受けられず無所属で立候補したが、兄の助裕と親しかった自民党国会議員の小渕恵三が駆け付けて応援演説をしている。これ以降も小渕は翁長にとって政治の師であり続けた。
保革対立を乗り越えることを目指していた翁長だったが、自身については保守政治家であることを強く意識していた。それは何よりも、前述のように翁長が父・兄ともに保守政治家という家庭の中で育ったからである。また翁長は、「保守の政治家は自分の生まれ育った故郷の歴史、伝統、文化を大切にして、子や孫の平和と安全を守るのが一番の仕事」と考えていた。
革新陣営は命や人権を重視する観点から米軍基地に反対していたが、保守陣営は基地が厳然と存在している現実や、そこで働いている沖縄県民の生活も考えなければならない。それゆえ保守政党である沖縄の自民党は、多くの県民が平和を求めて米軍基地に反対している中でも、日本の安全保障やさらに世界やアジアの安定までも考えて、米軍基地を認めつつ県民の生活を向上させることを目指してきたという。こうして翁長は、自民党に所属する保守政治家として日米安保を支持し、米軍基地について容認していた。
もっとも翁長は、同じ保守、自民党であっても日本本土と沖縄では隔たりがあると考えていた。それは、沖縄が日本本土とは異なる歴史を歩んできたからである。こうした考えから翁長は、かつて沖縄県知事をつとめた西銘順治を尊敬していた。翁長は、西銘が「保守のドン」でありながら保革対立の中で沖縄をまとめようとしたことを高く評価しており、また「沖縄の心」についての「ヤマトンチューになりたくて、なり切れない心」という西銘の言葉にも大きな影響を受けたのである。
他方、この時期の日本本土の自民党政治家も沖縄の歴史を理解し、翁長も交流を通して彼らを尊敬していた。前述のように翁長が「政治の師」と慕った小渕恵三は、「沖縄は第二の選挙区、ふるさとだと思っている」と語っていた。後に小渕政権で官房長官をつとめた野中広務は、まだ沖縄県議会議員一回生だった翁長に対し、「頼む。勘弁してくれ。沖縄には申し訳ないが、日本にはこれ以外、方法がないんだよ」と頭を下げたという。
九〇年代に入ると、国内外では大きな変化が起きていた。国際的には八九年に冷戦が終結、日本国内では九三年に細川護熙非自民連立政権が発足して五五年体制が崩壊、沖縄では九〇年に大田昌秀県政が誕生する。翁長が所属する自民党には逆風が吹いていた。
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