「バカが描けてない」小説はリアルじゃない…登場人物のキャラづくりで気をつけるべきポイント 『あなたの小説にはたくらみがない』試し読み

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本書は文芸編集者として数多くの作品を担当した後、「新潮講座」の名物講師として小説を書きたい受講生を数多く指導してきた佐藤誠一郎氏が、長年の経験から物語の書き方、小説家志望が悩むポイントについて丁寧に教えます。

 今回は試し読みとして登場人物のキャラづくりに言及した第5章「キャラクター狂騒曲よ、さようなら」を公開します。

「女が描けてない」と大家言い

 その昔、と言っても四半世紀前の二十世紀末までの話である。文学賞の選考会では必ずと言っていいほど、「女が描けてない」と評されて落選の憂き目を見るケースが絶えなかった。私の担当作家でいえば、山口瞳氏などが直木賞選考会で使った表現である。

 山口氏は、市井の女性や、当時の言葉でいう「職業婦人」を描くことに長けた作家だから例外だが、このほかの大家たちがどれだけ世の女性たちの実態を知っているか、怪しいものだと当時から私は思っていた。何故なら、こうした大家と言われる男性作家たちがよく知っている女性って、水商売の人たちばかりだからである。

 ところが、大家の文学賞選考委員たちに女性の描写の不備を指摘された作家たちが、「そういうあんた達が描いてきた女性ってネオン街限定だよな」と反抗した例しも聞かない。それどころか先を争って酒場に足を運び女性の研究に励んだのではなかったか。

 ごく最近の話だが、『男流文学論』という知る人ぞ知る鼎談本が復刊されて話題を呼んだ。富岡多惠子、小倉千加子、上野千鶴子の三氏が超大物男性作家の作品を取り上げ、作中の女性像を、男性優位社会に育まれた小児病的な人物造形の結果であると断定する痛快きわまりない本である。「女性のことなら俺に任せろ」風な吉行淳之介のような作家こそがやり玉にあげられている点に三氏の心意気を感じる。

 この本が単行本で出版された二十世紀末は、女性作家の活躍が目立つようになった時期ではあるが、文学賞の選考委員の半分以上が女性作家という現在の状況にはほど遠かった。大家の男性作家の描く女性像をコテンパンにやっつけることが出来ない小説界も、寿命という定めには勝てず、代わって女性作家たちの描く女性像がはびこるようになった。

 この急激な変化のなかで私は、新たな疑問を抱くようになる。女性による女性像だから正しいということにはならないんじゃないか、と考えるようになったのだ。もっと言えば、女性作家たちの描く男性像もまた、奇妙に画一的になってきたような気さえするのである。いつの日にか男性作家たちによる『女流文学論』が刊行されるのを待ちたいものだ。

 さて、このように小説に登場する男性女性のキャラクターは、時代を反映してか常に揺らぎ続けているらしい。小説の書き方本では、主要登場人物のキャラの描き分けの必要性から、細かく何項目にも分かれた属性の表づくりを勧めている。そんなもの無意味だろうとは言わないが、「女が描けてない」と口にした大家同様、固定観念に縛られすぎの人間観を解きほぐす方が先決だろう。

根拠なきモテ系小説

 文学賞の選考風景つながりで言えば、思い出すのは町田康氏が繰り返し口にした発言である。それが「根拠なきモテ系小説」という印象的なフレーズ。この作品の主人公は、何をしても注目されるし、どこへ行こうが異性にモテまくるけれど、なぜそうなのかがさっぱり分からない、といった批判である。

 主人公である以上、作中でいろんな体験をさせなければならないが、実生活で考えても分かるように、彼(女)に何らかの魅力がなければ人は集まってくれないものだ。一人称の主人公に自分をダブらせて、小説内でモテまくるという夢想にふけるのだけはやめたほうがいい――選考会場で町田氏はそう言いたかったはずだ。この作者は独りよがりで自己を客観視することができないらしい、という意味もそこには含まれるだろう。

 小説の登場人物のキャラクターには工夫が必要だ、とは百も承知で作者は人物造形に気を配っているはずである。にもかかわらず主人公が注目されるだけの根拠をちゃんと示せと言われるのだから、これは永遠の問題なのだろう。

バカが描けてない

「女が描けてない」などと他人の小説における女性キャラを云々する資格はもとよりないが、私なら「バカが描けてない」ということを、特に若い書き手たちに申し上げておきたい。

 バカを描こうとしていない、と言うべきか。

 人生経験が浅いほど、という但し書きがつくのだが、人は自分の目線の高さで小説を紡ぎたがるものだ。書き手自身を主人公に投影しやすいからだろう。そして、ここが肝心なのだが、その目線の高さとは、世間の知的水準より少しだけ高いものと設定されるのが通例である。

 一般人より少しだけ優れた知性と感性を持った視点人物であれば、周囲の世界と正面からクラッシュしたりしないし、逆にごく短時間にすべてを理解出来たりもしないので、小説展開上、まことに都合がいいのだ。

 だが、それでは決してリアルな作品は描けないはずだ。知性や感性や行動力において平均点以下の人間がこの世の人口の半数だけ存在しているのだから。

 ジョン・スタインベックの『ハツカネズミと人間』は、バカを描き切ることで最高度の感動をもたらす傑作だ。副主人公のレニーは、知性において著しく劣るが、肉体労働においては二人分の働きを見せる男である。この男の口から出る言葉は、やたらに繰り返しが多く、語彙もすこぶる少ない。だのにスタインベックの手にかかると、その台詞は、ある時には呪術めいて聞こえ、またある時には悲しみに満ちて読者の心を揺さぶるのだ。

 日本において努めてバカな人間を描こうとしている作家というと、コメディタッチのものを除けば、馳星周氏と戸梶圭太氏、そして月村了衛氏くらいのものだろう。映画化された『溺れる魚』の著者・戸梶氏は、バカを魅力的に描いたサスペンスで知られており、直木賞作家・馳氏は、知性の低そうなメインキャラクターたちの虚ろさを、短いセンテンスを重ねることで、いっそ感動的に表現している。月村氏の『欺す衆生』の場合は、自覚のない天才詐欺師と、低劣なその仲間グループを、意図的な「ボキャ貧」の枠内で描写することに注力し、かつ成功している。こうした例外的作品に、日本人はもっと学ぶべきではないか。

「バカ」というわけではないが、映画「レインマン」の主人公の兄の描き方はとても参考になるはずだ。彼はサヴァン症候群ゆえの引きこもりなのだが、数字や演算に超越的な能力を持っていて、主人公が連れていったカジノで大活躍する。要するに日常の九十九%はバカでも、一%の分野で他を圧倒する能力を持っているというキャラ設定が面白いのだ。暗算や曜日当てクイズの他にも、こうした一%に当たるヴァリエーションは見つかるはずだ。

最初のキャラ設定で通すのは不自然の極み

 キャラクター小説の書き方指南書では、幾つもの項目にわたって主要登場人物の属性を細かく設定しておくよう指導がなされている。その属性がマニエリスムそのものだという点以外、この方針に異論はないが、これが不動のものであり、作品の最後まで同じということになると首を傾げざるを得ない。主要登場人物、特に主人公に関しては、「成長」ないし「進化」をとげるのが一般的だろう。のちに論ずるが、例外はサイコパスか天才的探偵役のどちらかしかない。そうした「成長」や「進化」にはキャラ的な変化が伴われなければ不自然である。

 進化や成長でなく「退化」するのでも構わない。副主人公が前半までは魅力を放っていたのに、後半になると急にメッキが剥がれ、別の脇役に取って代わられることが時として見られるが、こうした「退化」も見逃せないリアリズムの発現なのである。

 病気持ちというのもキャラクターのうちに入れておくべきだろう。ヤク中で神経病みのシャーロック・ホームズや、末期ガンのため余命半年の刑事といったパターンならよく見かけるが、ある病気を持っているために特定の人生観が生まれたケースや、定期的かつ頻繁に加療が必要なために行動が著しく制限されるといったケースには滅多にお目にかからない。これらは立派にキャラクターとしての機能も備えているだろう。

人間関係は必ず変化する

 個々人のキャラクターの変容だけでなく、人間関係の変化もまた長編小説には欠かせない要素である。それは会話文の文末に端的に表われる。

 初対面の人間同士は、ふつう敬語を使って話すものだが、親しくなってくると敬語は使われなくなる。しかし、ある時、二人の間にふたたび敬語が使われたとすれば、それには幾つかの理由が推察される。

(1)一方が出世して、もう一方の上司となった
(2)二人が親しい関係だということを、同席する人に知られたくなかった
(3)二人は知り合って間もなく男女関係になり、「ある時」より前に別れた

 浮世の窒息的な上下関係に搦\_rから\/めとられた人間像あり、同席者を共同で欺こうと謀るような関係あり、さる事情から他人行儀に振る舞うようになる関係あり。これらは二者関係の小さな変化にすぎないが、長編小説ではこうしたことが絶え間なく起こることでストーリーを彩ってゆくものだ。

 個々人の関係の変化のほかに、是非考えておかなければならないのは、リーダーシップである。人間は三人集まると派閥が出来ると言われるが、人の集合離散にはリーダーシップの変化がつきものだ。

 前半部分で、グループのまとめ役として輝いていた人物が、後半に入ってから精彩を欠き始め、別の人物に主導権を奪われるという流れは映画「飛べ!フェニックス」にこれ以上ないほどはっきりと見られる。砂漠に不時着して半壊した飛行機を、乗客たちが改造することでサバイバルを果たすという筋書きなのだが、中盤まで乗客たちをうまくまとめていたエリート風の男が、ある時からオタク風の若い技術屋に主導権を奪われるのだ。そのような極限状況でなくとも、人間関係の変化、リーダーシップの変化は気づかぬうちに起こっているものではないだろうか。リアリズムはこうしたダイナミズムの中にあることを忘れてはならない。

脇役はたやすく主人公は難しい

 丸谷才一氏が『文学のレッスン』のなかで、小説の主人公の人物造形の歴史的経緯について触れている。十九世紀半ば以降、中心人物は複雑に、脇役は単純な性格になっていったという。キャラクターに濃淡をつけて描き分ける技法がそのように定着していったということだ。なるほど、と思うのだが、では名脇役級の登場人物だとどうなるのだろうか。

 一般に主人公という存在は、色んな場所へ出向き多種多様な人物と出会い、それらから影響を受けやすい立場にいるわけだから、ある種の公正な眼を持っていなければならない。偏りの大きくない公平な判断力を持ち合わせている人物は、現実世界では支持されようが、物語の世界では読者の人気を勝ち得ることが決して容易ではない。

 一方、副主人公クラスの脇役だと、けっこう癖のある人物に描くことが求められるもので、結果として読者の人気投票ではナンバーワンとなることが多い。

 脇役の造形に成功した作者も、主人公には苦戦しがちだ。やはり主役なのだから魅力的に描かなければと、焦れば焦るほどうまくいかないものだ。

 丸谷氏の言う中心人物の「複雑さ」は、一つの性格の表裏を指すと同時に、小説の後半における主人公の成長を指してもいるだろう。だとすれば、ストーリーの展開に応じて主人公を変えてゆく勇気を持つことが成否の鍵を握っているのではないだろうか。

 脇役は主人公の敵役となることがしばしばだ。主人公が正義の側にいると、こちらは悪の側。人間界の悪は百態あって、読者もそのヴァリエーションを楽しむ用意ができている。対して正義というやつはみんな似通っていて甚だ面白味に欠けるものだ。これは幸福と不幸についても同様で、『アンナ・カレーニナ』冒頭にもあるように、幸福の形はみな似ているが、不幸の形は多種多様。だからこそ小説の世界では「悪」や「不幸」が専ら幅を利かせるわけだ。

 例えば悪の側にいる脇役が、たった一度だけ弱者を労わったり、捨て犬にミルクを与えたりするだけで絵になるものだが、善人が同じことをやっても様にならない。それどころか、九十九の善行の陰で、たった一度トラブルの渦中にある知人を見過ごしにした、というだけで穢れたイメージを持たれてしまうのだ。このように、主人公は不公平に扱われる運命を背負わされている。そのことを肝に銘じておいてもらいたい。

矛盾のない人間はいない

 小説の構想に従って主要登場人物の役柄が次第に明確になり、それをもとに体格や性格や好悪の感情などの細部がアバウトに決まったとしよう。ここから先、ライトノベル系の指南書では、身長体重だのファッションや音楽の嗜好だの、はては眼鏡フレームのタイプといったことまで、その「キャラ」に統一感を出す必要性を説いている。

 丸谷氏が書いているように、主人公格は努めて複雑に描かれるようになり、かつその人格が初登場シーンとラストシーンでは変化しているべきだとするならば、こうした微に入り細を穿つような一分の隙もないキャラクター設定それ自体が無意味、ということになりはしまいか。

 そもそもそんな統一感のある人間っているだろうか。日本酒党の酒呑みは塩辛いものが好きで民族派、という「統一された人格」に全面的に逆行する人物が私の先輩にいる。彼は牡丹餅を肴に日本酒を飲みながら漢詩を中国語で朗詠するのだ。そして御夫人はドイツ人と来ている。この先輩って「キャラ的な矛盾」の極致ということになるのであろうか。

 人間の職業を考えても分かりそうなものだ。人はその職に就くために生まれて来たのでも何でもないし、たいていの場合「でもしか」で就職している。だから、あるイデアから想像される枝葉を寄せ集めてキャラクターとしても、リアリティなど出るはずがないのだ。
 むしろ人間は、思いもよらない仕事を持たされて、何とかそれをこなしているうちに不本意ながらも「人格」が形成されたりするものなのではないのか。だから想像上のキャラなどよりも、普通の生活者、労働者の持つ、少し不本意で矛盾だらけの「職業上の人格」の方が、読者にとってよほどリアルに感じられるはずなのだ。

 マーク・トウェインやチャールズ・ブコウスキー、志茂田景樹氏など、様々な職業体験を持つ作家は多いが、そのプロセスで得た職業上の視野の数々が小説を書く上で想像以上に役立っているはずである。

 では具体的に、創作の上でキャラクター内部の矛盾を面白く演出するにはどうすべきか。例えば食事シーンである。

 主人公が、塩こん部長みたいな実務一点張りの上司と蟹すき鍋をはさんで向かいあっている。ふと見ると上司の箸の使い方が妙に優雅である。蟹肉が魔法のように剥かれ殻入れの周りも整然としている。主人公が上司に抱いていたイメージと余りにもかけ離れているので、当夜はペースがつかめぬままだった――とか。

 読者が最初に抱いた上司のイメージはこのシーンで修正を余儀なくされ、そればかりか、この塩こん部長の意外な生まれ育ちに思いを馳せることになろう。ここで生まれた小さな謎に読者が気をとめただけで、このシーンは成功したと言えるだろう。実はキャラクター上の矛盾と言っても主要人物においては解決編が用意されるので、これは人物造形のコントラストを強めるためのテクニックにもつながっていよう。

続きは本編でお楽しみ下さい

新潮社
2022年12月12日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

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