中国語の“ツボ”に思わず悶絶!「、」でどこまでもつながる「流水文」のナゾ 『中国語は不思議 「近くて遠い言語」の謎を解く』試し読み

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 ノンフィクション作家の高野秀行さんは、中国語・中国文学研究者の橋本陽介さんによる新刊『中国語は不思議 「近くて遠い言語」の謎を解く』を、「言語の達人である橋本さんが中国語の整体師みたいな役割を担い、誰が読んでも「ああ、そこ、イイ!」と快感を得てしまうようなツボを押してくれる」一冊と評しています。そんな本書の中でも、高野さんが「いちばん気持ちいいところだった」としているのが、「主語が変わっても一つの文として延々と続く「流水文」」についてのくだりです。
 中国語の文章には、話の主語が変わっても「。」で文章が終わらず、「、」でどこまでもつながっていく「長い文」があるのです。なぜなのでしょうか?
 以下、『中国語は不思議 「近くて遠い言語」の謎を解く』から一部を抜粋して公開します。

 ***

 大学院の博士課程に在籍していた2010 年の9月、モロッコの旅行から帰国したばかりの私は、空港で一通のメールを受け取った。差出人は指導教員の関根謙先生。その用件は「前にも言ったと思うけど、高行健が来るから、アテンド手伝って」というものであった。
 私は混乱した。「前にも言った」とあるが、初耳である。高行健とは、2000 年に中国語で書く作家として初めてノーベル文学賞を受賞した作家であり、私の卒業論文のテーマであり、学会のデビュー論文の対象でもあった。
 モロッコからつれかえった南京虫(推定)に全身を刺され、猛烈なかゆみに襲われている中、私は新宿のホテルまで、ノーベル文学賞作家を一人で迎えに行くことになった。関根先生は鎌倉で待っているとのことで、鎌倉まで二人で移動することとなった。大仏のある高徳院には、一般の人が入れないゾーンがあり、VIPの接待を行えるようになっている。住職は慶應大学教授でもあるので、私もそのゾーンに入れてもらい、懐石料理を食べた。

「、」でつながる長い文の謎

 さて、その高行健の代表作『霊山』の最初の文は、以下の通りである。

你坐的是长途公共汽车,那破旧的车子,城市里淘汰下来的,在保养的极差的山区公路上,路面到处坑坑洼洼,从早起颠簸了十二个小时,来到这座南方山区的小县城。
Nǐ zuò de shì chángtú gōnggòng qìchē, nà pòjiù de chēzi, chéngshìli táotàixiàlai de, zài bǎoyǎng de jí chà de shānqū gōnglùshang, lùmiàn dàochù kēngkengwāwā, cóng zǎoqǐ diānbǒle shí’èr ge
xiǎoshí, lái dào zhè zuò nánfāng shānqū de xiǎo xiànchéng.
(おまえが乗ったのは長距離バス、その古い車体は、都市では使わなくなったもので、補修されていない山の道は、あちらこちらでこぼこで、朝はやくから12時間揺られ、この南方の山間の県城についた。─引用者訳)

 私がこの文章に出会ったのは大学一年生のころだ。実に流れるような文章で、動きがあり、魅了された。だが、なぜこれが読点でつながって「一つの文」になってしまうのか、訳が分からなかった。頑張って「一つの文」に翻訳しようとしても、うまくできない。後に出版された飯塚容訳『霊山』では、次のように訳出されている。

 おまえが乗ったのは長距離バスだった。都会でお払い箱になったポンコツ車が、補修の行き届いていない山道を走る。路面はデコボコだらけ。朝から十二時間揺られ続けて、ようやくこの南方の山間の県城に着いた。
 
 原文では「一つの文」なのに、日本語訳では「四つの文」になってしまっている。なぜそんなことが起きてしまうのだろう。それに、原文を読んだときの流れるような感触がなくなっているような気がする。いったい、何がどう違うのだろうか?
 中国語の勉強が中級・上級に達して、書き言葉を翻訳することになると、中国語の「一つの文」、とりわけ長い文が、句読点のとおり訳せないことに気がついてくるだろう。というか、なぜここが読点でつながっているのか、句点でないのはなぜなのか、よく分からないことが多いのだ。
 中国語の「長い文」から句読点をすべて取り払い、中国人にそれを復元してもらうことにする。すると面白いことにというか、頭を抱えることにというか、バラバラになってしまうのである。
 高行健『霊山』冒頭も、途中で句点を打って文を終わりにしてもいい。例えば、“你坐的是长途公共汽车。那破旧的车子, 城市里淘汰下来的。” と細かく切ることもできる。
 なぜそんなことになってしまうのだろうか?
 一つには、文の終わる形式とつながる形式の区別がないことが挙げられる。日本語だったら、「おまえが乗ったのは長距離バスだった。」と、終止形で終わればそこで文は終わるし、「長距離バスで」のような形にすれば、まだ続いていくことがわかる。こういう文末の形式がないので、終わるか終わらないかがよく分からない。
 だがどうも、適当に句読点をつけているわけでもなさそうである。何らかの規範があるようなのだ。

キーワードは流水文

 中国語学に関する本を読んでいる中で、この問題を解き明かすキーワードにようやく出会ったのは、2017 年ごろのことであった。呂叔湘(1979)に、次のような記述がある。

(中国語では)一つの節に次の節が続くが、多くのところではそこで終わりにしてもいいし、続けてもいい。

 これこそ、私が求めていた中国語の特徴である。呂は、中国語のこのような特徴を「流水文」と命名した。そこで私は「流水文」をキーワードにして、先行研究を当たってみることにした。
 だが、「流水文」に関する研究は多くはなかった。言語学は欧米で作られた理論をそのまま使うことが多く、欧米言語で方法論がまったくない特徴については、研究が進まないのである。名前をつけた呂叔湘も、厳密な定義をしているわけではなく、軽く触れているだけなのである。ただ、確かに「流れる水のよう」に感じるから、「流水文」という名称は言い得て妙である。
 中国語の句読点の打ち方、並びに「流れる水のよう」な特徴は、数年の研究を経て、『中国語における「流水文」の研究』としてまとめることができた。大学一年生のときに感じた宿題を、ようやく解くことができたのである。
 キーワードは「並列」である。

続きは書籍でお楽しみください

橋本陽介
1982年埼玉県生まれ。お茶の水女子大学基幹研究院准教授。慶應義塾大学大学院文学研究科中国文学専攻博士課程単位取得。博士(文学)。専門は中国語を中心とした文体論、テクスト言語学。著書に、『日本語の謎を解く 最新言語学Q&A』(新潮選書)、『中国語実況講義』『中国語における「流水文」の研究 「一つの文」とは何か』(東方書店)、『「文」とは何か 愉しい日本語文法のはなし』(光文社新書)など。

新潮社
2022年12月30日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

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