沢木耕太郎の傑作ノンフィクション『天路の旅人』の序章・第一章を全文公開 第二次大戦末期、敵国の中国に「密偵」として潜入した西川一三を描く

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『天路の旅人』の著者、沢木耕太郎さん

 売り切れ店続出で大増刷! 沢木耕太郎の傑作ノンフィクション『天路の旅人』

 本書は、掲載誌「新潮」8月号を完売させ、単行本の発売前から大きな話題を呼んだ沢木耕太郎さんの9年ぶりのノンフィクションです。

 第二次大戦末期、敵国・中国大陸の奥深くまで「密偵」として潜入した日本人・西川一三。敗戦後もラマ僧に扮し、果てしない旅を続けた彼に、沢木さんは激しく共鳴しました。

「この希有な旅人のことを、どうしても書きたい」と、25年の歳月をかけて結実させた本作は、沢木耕太郎史上最長編にして、「旅」の真髄に迫る傑作ノンフィクションです。

 今回は試し読みとして、全17章のうち、序章「雪の中から」から第一章「現れたもの」までを全文公開します。

 ***

序章 雪の中から

 いまから四半世紀前の初冬のことだった。
 ある寒い日の午後、私は東北新幹線に乗り、東京から盛岡に向かっていた。
 仙台を過ぎ、盛岡に近づくにつれ、重く垂れ込めていた空から雪がちらつきはじめた。
 それにぼんやり眼を向けているうちに、不意に胃の辺りが収縮するような感じを覚えた。
 痛みとは違う。仕事で初めての人を訪ねるとき、その直前に決まって味わうことになる、一種の緊張感からくるものだ。
 私は、その日の夕方、盛岡で初めて会う人を訪ねることになっていた。
 確かに、いつでも、初めての人と会うときは緊張する。その人がどのような人なのか、どのように話が流れていってくれるのか。何年、何十年と、人と会うことから始まる仕事を続けながら、いつまでも慣れることのない緊張をする。

 その日、私が会うことになっていたのは、西川一三(かずみ)という名の、あと二、三年で八十歳になろうかという老人だった。
 西川一三は、第二次大戦末期、敵国である中国の、その大陸の奥深くまで潜入したスパイである。当時の日本風に言えば諜報員だが、西川は自らのことを「密偵」と呼んでいる。
 二十五歳のとき、日本ではラマ教といわれていたチベット仏教の蒙古(もうこ)人巡礼僧になりすまし、日本の勢力圏だった内蒙古を出発するや、当時の中華民国政府が支配する寧夏(ねいか)省を突破し、広大な青海(せいかい)省に足を踏み入れ、中国大陸の奥深くまで潜入した。
 しかも、第二次大戦が終結した一九四五年(昭和二十年)以後も、蒙古人のラマ僧になりすましたまま旅を続け、チベットからインド亜大陸にまで足を延ばすことになる。そして、一九五〇年(昭和二十五年)にインドで逮捕され日本に送還されるまで、実に足掛け八年に及ぶ長い年月を、蒙古人「ロブサン・サンボー」として生きつづけてきたのだ。
 その壮大な旅の一部始終は、帰国後自らが執筆した『秘境西域八年の潜行』という書物に記されている。
 この著作は、その旅の長さにふさわしく、分厚い文庫本で全三冊、総ページ数で二千ページに達しようかという長大なものである。

 私が西川一三という人物に興味を覚えたのは、密偵や巡礼としての旅そのものというより、日本に帰ってきてからの日々をも含めたその人生だったかもしれない。
 戦争が終わって五年後に日本に帰ってきた西川は、数年をかけて『秘境西域八年の潜行』を書き上げると、あとはただひたすら盛岡で化粧品店の主としての人生をまっとうしてきたという。
 そこには、強い信念を抱いて生きてきたに違いない、ひとりの旅の達人、いや人生の達人がいるように思えた。
 会ってみたいと思うようになって、何年かが過ぎていたが、岩手の一関(いちのせき)に仕事で行ったとき、地元の新聞の「戦後史を考える」というような連載記事の中に、たまたま西川のことが出ていた。そこには、西川の「姫髪(ひめかみ)」という店の名前が載っていて、記憶に残った。
 それからしばらくした初冬のある日、東京の仕事場で、どういうつもりもないまま、その店名から電話番号を調べると、すぐにわかって逆に驚かされた。そして、思った。これはいい機会なのかもしれない。電話を掛け、もし許されるなら会わせてもらおうか……。
 思い切って電話をすると、すぐに、くぐもった声の男性が応対に出てくれた。
 それが西川一三だった。
 私は、突然電話を掛ける非礼を詫びたあとで名前を名乗り、自分の仕事について説明をし、できればお会いできないだろうかと訊ねた。しかし、そこでは、注意深く「取材」という言葉を使わなかった。実際、それが何かの具体的な仕事につながるかどうかわからなかったからだ。わかっていることは会いたいということだけだった。会って、話をしてみたい。それを具体的にどうしたいのかまではわかっていなかった。
 盛岡に伺うので暇な時間にお会いいただけないか。私が頼むと、西川はいとも簡単に引き受けてくれた。
「いいですよ」
 だが、それに付け加えてこう言った。
「私には休みというのがないんです。元日だけは休みますけど、一年三百六十四日は働く。だから、誰かのために特別に休んだり、時間を取るというわけにはいかないんです。毎日、午前九時から午後五時までは仕事をします。それでよければ、いつでもかまいません」
 私は、一年のうち一日しか休まないと淡々とした口調で言う西川に一瞬言葉を失いかけたが、すぐに気持を立て直して訊ねた。
「では、午後五時以降ならお会いいただけますか」
 西川は、その時間帯なら問題ないと言う。そこで、私は今週の土曜の夜はいかがだろうかと訊ねた。それに対しても、西川はまったく問題がないと答えた。
 私が、午後五時以降に店を訪ねるつもりで、盛岡駅からの道順を訊ねると、西川は言った。
「それだったら、盛岡駅に着いたところで電話をしてください。こちらから駅まで出向きますから」
 それは申し訳ないからと固辞したのだが、その方が面倒が少ないからと言われて、従うことにした。

 盛岡に近づく新幹線の中で、私はしだいに暗くなっていく窓の外を眺めながら、実際に会う前から西川に威圧感のようなものを覚えていることに気がついていた。
 若いとき、戦中から戦後にかけての混沌とした一時期、たったひとりでアジア大陸の中国からインドまでの広大な地域を旅してきた人物。そして、その旅については長大な一編を著しただけで、あとはひっそりと東北の一都市で商店主として人生を終えようとしている。
 そこには、鋼のように硬質な、あるいは胡桃(くるみ)の殻のように堅牢な人生が存在しているかのように思える。立ち向かっていっても、簡単にはじき返されてしまうのではないだろうか……。
 午後五時過ぎ、盛岡駅に着いた私は、改札口を出るとすぐ西川に電話をした。
 当時はまだ携帯電話を持っていなかったはずだから、構内の公衆電話から掛けたと思われる。
 ベルが鳴るとすぐに出てくれた西川は、私がいる改札口を確認すると、これから向かうので少し待っていてくれと言った。
 互いに初対面なのでまごつくかもしれないと心配していたが、電話を切ったあとで、改札口付近で待ち合わせをしているような人がまったくいないことに安心した。これなら間違えることはないだろう。
 十五分くらい待っただろうか、ジャンパー姿の長身の男性がこちらに歩いてくるのが見えた。それが西川だということはすぐにわかった。化粧品店の店主というより、町工場の親父というような雰囲気だったが、単に長身だというだけではない独特の存在感があった。私は駆け足で近づき頭を下げた。
「沢木です」
「西川です」
 雪の中を歩いてきたのか、溶けかかった雪が頭髪にいくつかついている。
 西川は、八十歳近いというのに、老人と言ってしまうのはためらわれるほど元気そうだった。
 身長は百八十センチの私とほぼ同じくらいある。しかも、体つきは、私よりがっちりしている。大正生まれの人としては、かなりの大男の部類だったろうと思える。
 その上、軽快なジャンパー姿であることがいかにも仕事においての現役感をかもし出していた。
 どういうところで話をしたらいいか。私は新幹線の中で考えていたとおりのことを提案した。
「一杯飲みながらというのはいかがですか」
 西川が酒好きなことは『秘境西域八年の潜行』を読めばすぐにわかる。問題は、その若いときの好みが、齢(とし)を取っても変わっていないかどうかということだ。
 私が提案すると西川は頷(うなず)き、この構内に居酒屋風の和食屋があるはずだと言う。私は西川に案内してもらい、その店に行くことにした。
 店は、旅行客が目当てなのか、市内の住人を相手にしているのか曖昧な、いささか中途半端な店だったが、逆に、気の置けない安直さがあった。
 四人掛けのテーブルに向かい合って座った私たちは、最初から酒を飲むことにした。西川が、ビールは飲まないと言ったからだ。
 一合入りの銚子をそれぞれ貰い、手酌で飲むことにした。
 それを決めてから、メニューを渡して肴(さかな)を選んでもらおうとしたが、西川は何もいらないと言ってメニューを見ようとしなかった。のちにメニューを見ようとしないのは、薄暗い店内では視力が弱いためほとんど見えないからだと知るようになるが、そのときは遠慮をしているのかもしれないと思った。何も食べずに酒だけというのは店にも悪いような気がするし、私がどちらかといえば酒はおいしいものを食べながら飲みたい口だということもあった。
 そこで、私はメニューをゆっくりと読み上げ、その中の二、三品を西川に選んでもらおうとした。
 すると、いくつも読み上げないうちに、西川が言った。
「もずくと揚げ出し豆腐をお願いします」
「その他には?」
 そう言いながら、魚料理の欄を読み上げようとすると、西川はそれをさえぎるように言った。
「それだけで充分です」
 私は一瞬、虚をつかれたが、注文を取りにきた若い女性の店員に私も西川と同じものを頼み、さらに刺身の盛り合わせを貰うことにした。もしよければつまんでもらおうと思ってのことだったが、西川は最後まで刺身に箸はつけず、ほとんどつまみなしに酒を飲みつづけた。

 酒を手酌で飲みながら、とりとめもない世間話をした。
 私の流儀として、かりにそれが仕事の場合であっても、最初に会ったときには、いわゆるインタヴューをしない。そのときの雰囲気のまま、流れる方向に流され、気ままな会話をする。そして、いちど会ったという親しみを培(つちか)ったあと、二度目に会ったところから本格的なインタヴューを開始するのだ。
 それに、西川に会ってもらったのも、具体的な執筆の予定があり、それに沿ってインタヴューをすると決めてのことではなかった。だが、それでも、私が訊ね、西川が答えるというかたちになるのは当然だった。
 会う前から、いくつか訊きたいことはあった。
 まず、どうして盛岡だったのかということである。山口県の出身である西川が、どうして遠い岩手県の盛岡で化粧品店の店主をしているのか。
 だが、それに答えてくれる前に、自分の仕事は化粧品店の店主ではない、と言われてしまった。
 なるほど、聞いてみると、一般の客に化粧品を販売する化粧品店ではなく、岩手県内の各地にある美容室や理容室を相手に、パーマやカットなどに必要な用具や消耗品を直接卸す店を経営しているのだという。
 ところで、どうして盛岡だったのかと、私はあらためて訊ねた。
「たまたま、です」
「具体的には」
「仕事があるということで、岩手の人に誘われて、まず水沢(みずさわ)に来ました」
「いまと同じ仕事ですか」
「そうです」
「なぜこの仕事を」
「食べるために……」
 そこまで言うと、途中で言い換えた。
「生きるために」
 そこに料理が運ばれてきた。
 刺身の皿を中央に置き、私は言った。
「一緒につまんでいただければ」
 しかし、西川は、軽く頷いたあとでこう言った。
「でも、つまみはこれだけあれば充分です。普段からあまりいろいろなものは食べないんです」
 そして、付け加えるように言った。
「昼も、毎日、同じものを食べています。カップヌードルを一杯とコンビニの握り飯を二つ」
「毎日?」
「毎日」
「三百六十四日?」
「三百六十四日」
「夜は?」
「店の帰りに居酒屋に寄ります」
「寄って?」
「酒を二合」
「つまみは?」
「ほとんど食べません」
 夜は家で何を食べるのかと訊くつもりだったが、昼はカップヌードルと握り飯二つ、夜はつまみもなく酒を二合という答えに圧倒され、つい訊きそびれてしまった。

 酒が入り、私の舌もいくぶん滑らかになりかかってきた。
 その数年前、東京放送(現・TBS)の「新世界紀行」というテレビ番組で西川が取り上げられたことがあった。西川一三が歩いた土地を辿(たど)りつつ旅をするという全四回の番組だった。私が西川一三の名を初めて知ったのもそれを通してのことだった。
 だが、その番組では、旅の案内人として民族学の研究者風の別の男性が立てられていた。番組的には当人の方が面白いはずだが、そのときは、西川が老齢のため、案内人としての役に立たないからだろうと思っていた。
 しかし、実際に会ってみると、壮年の人と変わりないくらい、かくしゃくとしている。これだけの壮健さがあれば、充分に旅に耐えられたはずだ。どうして本人を案内人として立てなかったのだろう。
 テレビ局側からそのような依頼はなかったのか。私が訊ねると、プロデューサーに同行を求められたが断ったのだと西川は言った。仕事があるので休めない、と。出演料は、何カ月分もの稼ぎに匹敵するような額を提示してきたが、相手にしなかったとも言う。
「どうしてです」
 私が訊ねると、西川は斬って捨てるように言い放った。
「一度行ったことがあるところにまた行っても仕方がありませんからね。行ったことのないところなら別ですが」
 面白いな、と私は思った。面白い。そして、この人について書いてみたい、と強く思った。
 それにはまず、あの『秘境西域八年の潜行』の旅についての理解を深めることから始めなくてはならない。一通り読んではいるが、その旅が、自分の頭の中で映像として再現できるほど読み込んではいない。
 これから、何回になるかわかりませんが、あの旅についての話をうかがわせていただけませんか。私が頼むと、別にかまいません、と西川は答えた。三百六十四日、午後五時過ぎならいつでもかまいません、と。

沢木耕太郎
1947年東京生れ。横浜国立大学卒業。ほどなくルポライターとして出発し、鮮烈な感性と斬新な文体で注目を集める。1979年『テロルの決算』で大宅壮一ノンフィクション賞、82年『一瞬の夏』で新田次郎文学賞を受賞。その後も『深夜特急』『檀』など今も読み継がれる名作を発表し、2006年『凍』で講談社ノンフィクション賞、13年『キャパの十字架』で司馬遼太郎賞を受賞する。長編小説『波の音が消えるまで』『春に散る』、国内旅エッセイ集『旅のつばくろ』『飛び立つ季節 旅のつばくろ』など著書多数。

新潮社
2023年1月9日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

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1896年(明治29年)創立。『斜陽』(太宰治)や『金閣寺』(三島由紀夫)、『さくらえび』(さくらももこ)、『1Q84』(村上春樹)、近年では『大家さんと僕』(矢部太郎)などのベストセラー作品を刊行している総合出版社。「新潮文庫の100冊」でお馴染みの新潮文庫や新潮新書、新潮クレスト・ブックス、とんぼの本などを刊行しているほか、「週刊新潮」「新潮」「芸術新潮」「nicola」「ニコ☆プチ」「ENGINE」などの雑誌も手掛けている。

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