私は一体、何者なのか。悩んだ末に行き着いた肩書とは? ふかわりょう『ひとりで生きると決めたんだ』試し読み 

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発売早々に増刷がかかり話題を呼んでいる、ふかわりょうのエッセイ集『ひとりで生きると決めたんだ』。誰もが素通りする場所で足を止め、重箱の隅に宇宙を感じるふかわさんが綴る22編のエッセイは、しっくりくる肩書がないこと、人生が楽しくなる「週5日制」、心を射抜かれた田中みな実さんの一言など、さまざまなトピックがテーマに。

今回は試し読みとして、肩書についてのモヤモヤを綴った「しっくりこないまま」を公開します。

 ***

「何かお探しですか?」
 店員はあらためて声を掛ける。
「贈り物ですか?」
 すると男は静かに口を開いた。
「肩書き、ありますか?」
 彼女は、聞き取った言葉があっているのか不安でいると、
「私にぴったりな肩書き、ありますか?」
 思いもよらぬ注文に困惑する彼女の表情に、一度消えた笑顔が戻ってくる。
「はい、ございます!」

 映画監督、書道家、鑑定士。世の中には素敵な肩書きがたくさんありますが、中でもこれらは社会にしっかりと腰を据え、凜々しさと勇ましさが相まっています。
 私の肩書きは何でしょう。芸能人、タレント、お笑い芸人、はたまたDJでしょうか。しばしば、職業を尋ねられることがありますが、記入するにしても口頭にしても、「芸能人」と名乗るのに抵抗があるのは、「へー、自分で芸能人って言っちゃうんだ、へー」という幻聴のせい。かといって「お笑い芸人」「タレント」ならいいかというとそうでもなく、サイズの合わないジャケットをはおらされたような、着られなくはないけれど心地の悪さがあります。
 雑誌に掲載される際、サイドカーのように私の隣に居座る(タレント)や(お笑い芸人)。たまに、気を遣っているのか、活動が多岐にわたるゆえ、(マルチタレント)が添い寝をしてくれることがあります。大変ありがたいお言葉ではあるのですが、これではぐっすり眠れません。「マルチ」は「複数の」という意味なので、それ自体に非はないのですが、「タレント」と掛け合わせることによって、たちまち芳醇な“胡散臭”が漂います。「マルチ商法」の影響もあるかもしれませんが。「インフルエンサー」も、かつての「カリスマ美容師」のようないかがわしさを感じますが、喜んで添い寝をする人もいるのでしょう。
 本音を言えば、サイドカーや添い寝なしで暮らしたいのですが、なかなかそうもいきません。肩書きがないと、何者かわからない。「4番、松井」という場内アナウンスでは、どこを守っている人なの?という疑問が湧いてしまいます。肩書きは、社会における立ち位置。それで私は、「タレントで、いいか」となります。
 しかし、この「タレント」というのも曖昧で、明確な定義がありません。テレビや芸能界で活動する人を指す場合もありますが、どこまで許容するのでしょう。意味でいうと、「才能」からきているものの、果たしてどういう「才能」があるのか。もちろんタレントであることに誇りはあり、妥協しているわけでも、名乗ることが嫌なわけでもありません。ただ、どうも、しっくりこないのです。片や、最初に叩いた芸能界の門が「お笑い」の門なので、「お笑い芸人」でもいいのですが、以前、先輩にこんなことを言われました。
「お前は、タレントだ。芸人じゃない」と。その時はあまり理解していませんでしたが、先輩曰く、テレビを主軸にやるか、舞台を主軸にやるかの違い。前者の場合、番組のためのキャストであり、テレビという大きなテーマパークのキャラクター。番組における役割を担い、テレビに捧げる。それに対し後者は、あくまで主軸は舞台。お客様を笑わせてナンボ。芸人としての生き様。私自身は「芸人」と思っていても、社会的役割は「タレント」だったようです。誰もがその違いを気にしているわけではないですが。
 現在はすっかり親しまれている「お笑い芸人」という言葉が生まれたのは、80年代後半でしょうか。バラエティー番組の隆盛期。番組を盛り上げる役として重宝がられました。それまでは、「漫才師」や「コメディアン」という肩書きをよく目にしていた気がします。「喜劇役者」という表現もありますが、このジャケットが似合うのは、チャップリンやMr.ビーンのローワン・アトキンソン、日本だと「エノケン」で親しまれた榎本健一氏や藤山寛美氏などでしょうか。

 私に似合う肩書き。どの肩書きをまとったらいいのでしょう。自分に似合う眼鏡がないように、しっくりくるものが見つからないまま今日にいたります。ただ、自分が鏡で見て似合わないと思っていても、周囲から見たら似合っている場合もあると思います。
 事実、「芸人らしくない」とも言われます。あいつは何がやりたいのだ、一体どこへ向かっているのだ、調子のんな、ふざけんな、消えろ、など。見ている側もしっくりきていない。自分でも心当たりがあるからこそ、ずっとコンプレックスでもありました。
 すると、何気なく見ていた雑誌の見出しが目に留まります。
「何者でもない人、という価値」
 とあるラジオ局員のインタビュー。簡単に言うと、何者でもないって素晴らしい、と。救われた気分でした。例えば所ジョージさん。確かにテレビでよくお見かけしますが、「お笑い芸人」かというとそうでもなく、「タレント」とも違う気がします。そういう意味では、「何者でもない人」であり、職業や肩書きを超越している存在。そうか、何者でもないは悪いことではなく、長所であり、胸を張っていいのか。私のコンプレックスでもある「らしくない」「何者でもない」という現状を受け入れられるようになりました。果たして、世の中は受け入れてくれるでしょうか。
「ふかわりょう(何者でもない人)」
「ふかわりょう(該当なし)」
 やはり、社会は既成の肩書きを求めてきます。ならば、最後の手段です。
「肩書きは、ふかわです」
 行きつくところはここしかありません。ロックスターの世界観。全てを超越し、肩書き不要の境地。生き様こそが職業であり、肩書きであり。私が真似すると、あいつとうとうおかしくなったかと心配されるでしょう。
 既製品がだめなら、オーダーメイドしかありません。自由に作っていいのなら、私は「へそ曲がリスト」。これが一番しっくりきます。好きな映画は単館映画館で上映されるようなものばかりを挙げ、「いいねなんて、いらない」と公言する男。私はいたって真っ直ぐだと思っているのですが、社会的にはきっと、「曲がって」見えているだろうから。どのようにビジネスに繫げるのかわかりませんが、世の中には必要です、こういう人間が。できることなら日本へそ曲がり協会の理事を務め、オーチャードホールで「へそ曲がリサイタル」を開催したいものです。

 私の知り合いに、平山夢明さんというホラー作家がいらっしゃいます。この方はとても気さくで庶民的で、お金はあるのに、その日暮らしのように窺える稀有な方。威圧感こそないものの、社会を小馬鹿にしているかのような言動に、多くの人が魅了されます。そんな平山さんとお話ししたときに、肩書きに対する違和感が無精髭の間から出てきました。
「作家じゃないんだよな。強いて言えば、文章を書いて、売る人なんだよ」と。「文章を書いて、売る人」。辞書で引けば、「作家」に該当するでしょう。しかし、夢明先生は、そこに違和感を覚えるのです。さすがです。既製品への抵抗なのか、タキシードを着せられて、どうも感じ出ないんだよなぁとつぶやくように。そうなると、「小説家」や「作家」も、意味はほぼ同じでも、どっちを羽織りたいかは人によって分かれるのでしょう。


ふかわりょうさん

 数年前、知人の結婚披露宴パーティーに出席していた時です。後ろから肩を叩かれると、メガネをかけた男性の顔がありました。嬉しそうに彼は言います。「君も俺と一緒で、馴染まないね。どこ行ってもそうでしょ?」と。いとうせいこうさんでした。作家である新婦とつながりがあったとはいえ、文壇の人たちが集うパーティーには馴染んでいなかったと思いますが、きっと、「どの場所にいても」ということでしょう。考えてみれば、しっくりきたパーティーがあったでしょうか。下手すると、自分の披露宴でもしっくりこないのかもしれません。
 ただ、意外だったのは、「俺と一緒で」という部分。せいこうさんこそ、傍から見たら違和感ないのですが、ご本人としてはしっくりきていないようでした。確かに、ラップをされたり、小説を書かれたり、さまざまな活動をされているので、一つの肩書きにおさまるタイプではありません。ここにも「何者でもない人」がいました。夢明さんやせいこうさんのような方々に比べれば、私は単に、お仕着せの服をあてては嫌だと駄々をこねているだけかもしれません。

 一体、自分は何者なのか。私に見合った肩書きはあるのだろうか。靴を購入するときにぴったりのサイズを探すように、自分に見合った肩書きを探す日々。
 勢いで結婚したけれど、本当にこの人でよかったのだろうか。会社に勤めている方も、どれほどの人が仕事に対してしっくりきているのでしょう。もしかしたら、他にもっとしっくりくる場所があるかもしれないと思っているのではないでしょうか。芸能界においても、この仕事に向いていると感じながらやっている人よりも、向いているのかなぁという揺らぎを抱えて現場に向かう人の方が多い気がします。
 しっくりなんて一生こないのかもしれません。髪型だって、分け目一つとってもいまだに落ち着かない。ずっとしっくりこないまま歩く、靴擦れ人生。座った椅子がずっとカタカタして、棺さえも、肩のあたりがぶつかって。
 こたつにみかん。あんパンと牛乳。そんなふうにしっくりくることは滅多にないのです。むしろ、しっくりきたらおしまいなのかもしれません。既成の枠組みにはまらない人間といえば、かっこいいのでしょうが。ずっとしっくりこないまま、しっくりくる場所を探す日々。ならば、この靴擦れを楽しむことができれば。

「こちらはいかがでしょうか?」
 店員が男の前に差し出した。
「小言家?」
「そうです。先ほどからお話を伺っておりますと、どうやら、小言がお好きなようで、社会との接点がそこにある気がいたしまして」
「それは……」
 男は少し間を置いた。
「クレーマーということですか」
「いえ、あくまで小言、自己消化型です。よかったら3ヶ月無料なので、ぜひお試しになってみてはいかがでしょう」
 男は照れ臭そうにその肩書きを羽織ると、軽く会釈をして店を後にした。

続きは書籍でお楽しみください

新潮社
2023年2月3日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

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株式会社新潮社のご案内

1896年(明治29年)創立。『斜陽』(太宰治)や『金閣寺』(三島由紀夫)、『さくらえび』(さくらももこ)、『1Q84』(村上春樹)、近年では『大家さんと僕』(矢部太郎)などのベストセラー作品を刊行している総合出版社。「新潮文庫の100冊」でお馴染みの新潮文庫や新潮新書、新潮クレスト・ブックス、とんぼの本などを刊行しているほか、「新潮」「芸術新潮」「週刊新潮」「ENGINE」「nicola」「月刊コミックバンチ」などの雑誌も手掛けている。

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