遠藤周作の息子・龍之介氏が明かす、死後25年後に発見された未発表原稿を読んで衝撃が走った記述とは?

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影に対して : 母をめぐる物語

『影に対して : 母をめぐる物語』

著者
遠藤, 周作, 1923-1996
出版社
新潮社
ISBN
9784101123400
価格
649円(税込)

書籍情報:openBD

封印された原稿

[レビュアー] 遠藤龍之介(フジテレビジョン副会長)


遠藤周作氏

2020年に発見された遠藤周作の未発表原稿のほか、短編6作を収録した文庫『影に対して―母をめぐる物語―』が刊行した。没後25年を経て見つかった表題作はどのような作品なのか? 文庫刊行に際して、息子・龍之介氏が遠藤周作との思い出と、未発表原稿への想いを綴った書評を紹介する。

遠藤龍之介・評「封印された原稿」

 父の未発表原稿が発見された――遠藤周作文学館から連絡を受けた時には驚きました。死後二十五年も経って……。

 主人公は小説家になる夢をあきらめた男。「なんでもいいから、自分しかできないと思うことを見つけて頂戴」。母の言葉を胸に小説家を志したのに、ついぞ母の望む生き方はできずにいる。この主人公は明らかに父であり、「母」は父の母親である遠藤郁です。

 父はこれまで何度も小説に母親を登場させてきましたが、「影に対して」には母親への思いがより濃厚に描かれていました。家族描写など極めて私小説的ですので、父が生前この原稿を封印した理由も私にはよくわかりました。

 遠藤周作の遠藤郁に対する感情は、父がカトリック作家になったひとつの原点のようなもの、つまり「母なるもの」への憧憬のような気がしているのです。この小説を発表すれば、父の心の最下層に埋まっている部屋を開け放つことになる。私が勝手に公開してよいのか、随分と悩みました。しかしどうあれ書いたものが見つかったのであれば、世の中に出すべきなのだと勝手に解釈をし、出版を決めました。何十年かしたら、向こうで父に怒られるかもしれません。

 祖父・常久は銀行員で、郁はヴァイオリニストでした。常久と郁は次第に関係が悪くなり、離婚。その後、祖父は別の女性と再婚し、郁は両親が結婚する直前に亡くなりました。父と祖父は、ほぼ絶縁状態でしたから、「影に対して」にあるような、祖父、父、孫の交流は一切ありません。

 幼い頃から複雑な家庭環境は薄々感じ取っていました。例えばお正月に母方の祖父の家には挨拶に行くのに、父方の祖父の家には行かない。クリスマスプレゼントも誕生日プレゼントも来ない。子供心に不思議に思い、母に聞くと、

「お父様にとっての母親像は郁さん。お父様は郁さんのことをとても大切にしているのよ」

 とはっきり説明してくれました。父に直接聞いたことはありません。というのも父は郁のことを非常に偶像化していて、書斎に郁の写真が何枚も置いてある状態でしたから、あれこれ聞いてはいけないと子供心に思っていたのです。

 祖父と父については非常に印象深い出来事があります。確か私が三十歳の頃、老人ホームに入っていた常久のもとへ、父から「行こうよ」と急に誘われたのです。絶縁状態なのに珍しいことを言うなと訝しみながらお見舞いに行きました。部屋で祖父はベッドに横たわっていて、父は祖父の手を撫でたりして、三十分ほど滞在し、後にしました。

「蕎麦でも食うか」と誘われ蕎麦屋に入ると、父が、

「もういいかな」

 と呟いたのです。もういいかな、とは何なのか。常久の命が尽きても「もういいかな」なのか。それとも常久に対する積年の憎悪が「もういいかな」なのか。あるいは関係修復は「もういいかな」なのか。私の悪いところですが、深く聞かなかった。今にして非常に悔やまれます。

「影に対して」を読み衝撃が走った記述がありました。母親からの手紙で〈あなたも決してアスハルトの道など歩くようなつまらぬ人生を送らないで下さい〉とありますが、私は同じことを父から言われていたのです。

 私がフジテレビに内定し、父に報告をしにいくと、父は、

「先週、母さんと二人で湘南に食事をしに行った。江ノ島の砂浜を歩いていたら、足が取られて疲れてしまったので、舗装されている国道を歩いた。要するにそういうことだ」

 と言うのです。まったく意味がわからず、

「どういう意味ですか?」

 と訊ねると、

「お前は本当に物わかりの悪い男だなあ。俺は作家で組織も守ってくれないから一人で歩かなければならない。歩きにくい砂浜だったけどな。だけど砂浜は振り返ってみると自分の足跡が見えるじゃないか。お前はこれからサラリーマンになる。色々なところで守ってもらえるし、歩きやすい舗装道路を行く。歩きやすいかも知れないが、十年、二十年経って振り返ってみた時、自分の足跡は見えないんだ」

 と言われました。うまいことを言うなとは思いましたが、私がこれからしようとしていることは、この人の望むことではないのだという申し訳なさがありました。

 後日、父がニヤッとしながら、

「どうだ、舗装道路の歩き心地は?」

 と訊ねてきましたので、私は用意していた回答を。

「非常に快適な道を歩いておりますが、お父様が吸ったことがないような排気ガスも吸っています」

 父はまたニヤッと笑っていました。

 この舗装道路の喩えは遠藤周作オリジナルだと思っておりましたが、おそらく、父が郁から言われたことなのでしょう。自分の中で消化できないものとして残り、子供に投げつけて自分のストレスを軽減したのかもしれない(笑)。

「影に対して」は正直に申し上げると、心が躍るような楽しい作品ではありません。ただ、遠藤周作という作家に興味を持ってくださった方が、そのルーツを探すために読んでいただけたら非常に嬉しいです。

新潮社 波
2023年3月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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