『三流シェフ』三國清三著(幻冬舎)
[レビュアー] 堀川惠子(ノンフィクション作家)
極貧から頂点 求道の先
北海道の寒村の漁師の息子が、貧しさのどん底から料理人を目指す。鍋磨きの裏方仕事から始まり世界のテッペンにのしあがっていくドラマチックな人生は、自伝に必要なすべての要素を満たしていて刺激的だ。だが本書を有名シェフの自伝とくくるのはあまりに惜しい。「職人」を自負する者たちが、その業界で超一流になるためのエッセンスが満載で、優れた指南書のようにも読めるからだ。
20歳でスイスにわたる。ある時は海岸で野宿しながら天才シェフの店で武者修行。一瞬一瞬が勝負の「戦場のような厨房(ちゅうぼう)」で技を盗み、腕を磨き、「地獄の一日」を耐える。一切の妥協を許さぬ天才の執念と対峙(たいじ)するうち、己の能力までも引き出されていく緊迫の描写にはドキドキする。
やがて一流シェフとして認められるも、自分はフランス人ではない、と気づく。巨匠の模倣ではなく「日本人」としてフランス料理に向き合おうと覚悟の帰国。料理の土台を支えたのは、故郷の漁師町で育まれた豊かな味覚だった。かつてフランスで厳しい言葉を浴びせた「神様みたいな師匠」が著者の東京の店に現れる。彼が亡くなる2ヵ月前のことだ。そこで弟子に宛てて綴(つづ)ったメッセージときたらもう……。
どんな名うての職人でも、人間ひとりの力は知れている。一流の現場で、一流のスタッフと、命がけで仕事をしてこそ初めて見えてくる到達点がある。そこに安住せず、さらなる高みを目指す。永遠にゴールのない求道者の険しい道のりは、どの業界でも同じだろう。
幼い頃からの夢をすべて叶(かな)えた著者が、たった一つだけ手に入れることができていないもの。それがミシュランの星とは意外だ。行間には無念が滲(にじ)む。去年、37年続いた看板の店を閉じた。シェフとして新たな挑戦に踏み出すためという。いつかきっと本書の続編が出る。そこで初めて三國清三伝は完成するのかもしれない。