第1話「おつやのよる」を全文公開 町田そのこ『あなたはここにいなくとも』試し読み

試し読み

  • シェア
  • ポスト
  • ブックマーク

 二十五を超えた辺りから、帰省するたびに家族から『結婚』という言葉をちらつかせられるようになった。従妹の恵那(えな)は三人目を妊娠したとか、中学のクラスメイトだった千夏(ちなつ)ちゃんは博多の大きなホテルで華やかな挙式をしたとか。
『千夏ちゃんはグァムだかでふたりで式をあげたいって言ったらしいんやけどね、ほら、あの子の家は親が見栄張りやけん。町議会議員さんや商工会の会長さんを呼んで、そりゃ賑やかしい状態やったとって。でもあたしはね、そういうのはどうでもいい。記念写真を見せてくれたらそれでいいと思っとる。清陽のハレ姿を目に焼き付けて逝けたら、それで』
 一番熱心に、真正面から言ってくるのが、祖母だった。
 半年ほど前の、年末年始の帰省のときのことだった。昼ごはん代わりの雑煮を啜っていたわたしの横につつ、と座った祖母は『もういい加減に考えてくれんね』と神妙に言い、『清陽の結婚の前にあたしは死んでしまうよ』としょんぼり俯いた。ねえ、好いたひともおらんとね? あたしはせめて、あんたが選んだひとに会いたいんよ。あんたのしあわせを見届けんと、死ぬに死なれんとよ。
 祖母がいつもからだのどこかに貼っている湿布薬の匂いが鼻を擽る。頭の毛はタンポポの綿毛のように真っ白で頼りなく、ピンク色の頭皮が透けて見えた。膝の上で結んだ両手は皺とシミだらけで、模造紙で作られた模型のようだ。ああ、年を取ったんだなあと思った。かつてわたしと唐揚げの大食いレースをして大差で勝ったひとは、もう老いているのだ。
 祖母不孝をしているのかもしれない、と心がぎゅっと痛み、だからわたしは『ごめんね』と祖母に素直に謝った。彼氏もいるし、そのひとと結婚したくないわけではない。でも、わたしにだって会わせられない事情がある。そういうことを、言葉を探しながら言うと、肩を落としていた祖母が、がばっと顔を上げた。
『じゃあ連れて来んさい。結婚したいち考えとるひとがおるってだけで、上等だ。顔くらい、見せてよ!』
 その顔には艶と張りがあって、まだしっかりとした黒目がキラキラしていた。
『くそう。ばあちゃん、謀ったな……』
『あたしの命でも差し出さんと、あんたはのらりくらりと躱すでしょうが』
 むし歯ひとつないという自慢の歯をむき出して、祖母が言う。だいたい、そういうひとがおるんなら、何で連れて来んとね。どういうひとがあんたとお付き合いをしとるとか、あたしは知りたいし、話してみたいんよ。紹介してくれたって、いいやろうもん。
 わたしはそんな祖母を、どうやって穏便にやりすごそうかと考える。いつかはと思っているけれど、でもそれはいまではないし、いつになるかも分からない。まだその時期じゃない気がするからもう少し待って、そんな感じで終わらせようと思っていると、わたしの向かい側で酒を飲んでいた父が、鼻を鳴らして笑った。
『どうせ親に見せられんような、下らねえ男なんだろ』
 面倒くさそうに言って、大きくげっぷをする。遠慮のない下品な音が、耳に大きく響いた。ざわりと感情が波立つのを感じながら、『何て?』と努めて穏やかに訊き返す。父はぐい呑みの中身をきゅっと飲み干して、手づかみでおせちの栗きんとんを摘まんだ。べろ、と舌で舐めとるようにして食べる。
『親に紹介もできんような、箸にも棒にもかからねえ下らねえ男だろって言ったんだ』
 けっけ、と父が笑う。そんなもん、会うだけ無駄だ。連れて来るんじゃねえぞ。アルコールで赤くなった鼻先と、とろりとした目が酔いの深さを教えていた。その、昔から見慣れた顔を前に、すうと感情の波が引いてゆく。気付けば、わたしは手にしていた箸を投げつけていた。箸は前髪が大きく後退したおでこに当たって転がり、父が愕然とした顔をした。
『何しやがる、清陽!』
『逆でしょ?』
 立ち上がり、父を見下ろす。
『好きなひとに見せられない家族だから、連れてこられないんだよ』
 意味が分からなかったのか、父が目をしばたかせた。その間抜けた様子に苦く笑ってみせるとようやくはっとして『何だと、てめえ』と立ち上がろうとする。しかし足元がおぼつかなくて、中腰になったところでごろんと転がった。足がテーブルを蹴りあげ、わたしが食べていた雑煮の椀がひっくり返った。
『おま、お前、親に対して何失礼なこと言ってんだ。おい、謝れ』
『ひっくり返った亀みたいな格好して、何偉そうに言ってんのよ。正月だからって昼間からべろべろになるまで酒飲んでる父親を、どう紹介するの。できるわけないじゃない!』
『何だと、このバカ娘。こっち来い。ぶん殴ってやる』
 顔を真っ赤にして、父が怒鳴る。祖母が『やめな、清陽。酔っ払いと喧嘩しても仕方ないよ』とわたしの服の裾を掴んで言ったけれど、わたしはその手を振り払った。
『はっきり言っとく。この家族を紹介できないから、連れてこられないんだ。結婚したくたって、できないんだ!』
 馬鹿なことを言ってる、と頭の隅で思う自分がいた。いい年をして、何を叫んでいるんだろう。でも、いったん開いた感情の弁は、もう閉じられなかった。父が唾を飛ばして、出て行けと言う。お前のせいで、せっかくの正月も台無しだ。たまにしか帰って来ないで、その上に家族を馬鹿にするしかできねえのなら、いますぐ出て行け。だからわたしは、祖母が必死に引き留めようとするのも構わずに荷物を纏めて実家を出て、大阪のアパートに帰ったのだった。
 あれから半年。実家に帰ることもなければ電話ひとつかけなかった。祖母からは何度かメールが来て当たり障りのない返答をしたけれど、でもそれは決して、祖母の望む回答ではなかった。
「ごめん、ばあちゃん」
 小さく声に出して呟く。祖母孝行できなくて、ごめんなさい。

 梅雨明けした門司港は、起き抜けに想像した通り、快晴だった。日差しが眩しく、道行くひとはもう夏の装いをしている。緑が鮮やかな風師山の裾野にある実家にタクシーで向かうと、庭先に白いテントが立っていた。葬儀社のひとだろう、白いカッターシャツに黒のスラックス姿の男性がふたり、受付台を設置している。彼らに会釈をして家に入ると、母が誰かと大きな声で話していた。
「勝弘(かつひろ)さんは本当にひとが変わったねえ。まるでお殿さんみたいに偉そうになって。数恵(かずえ)さんもよう辛抱しとるわ」
「そうなんよ。もっと強気でいりゃいいのに」
 話し相手は従妹の恵那のようだ。声のする茶の間に行くと、ふたりは座ってお茶を飲んでいた。恵那が先にわたしに気付き「キヨ姉」と声を上げる。
「早かったね。お疲れ」
 恵那は父方の従妹で、わたしの三つ下。高校を卒業すると同時に結婚し、半年後に子どもを産んだ。いわゆるできちゃった結婚だ。その三年後にもうひとり産み、いまは三人目を妊娠中。見ればはちきれそうなお腹をしていて、予定日を聞けば昨日だと言う。
「なかなか出て来てくれないんだよね。ばあちゃん、楽しみにしてくれてたのにな」
 恵那はすでに泣いたあとなのだろう、高校時代からいつもばっちりメイクを施している目元が、赤く浮腫んでいた。
 祖母は搬送された病院からもう帰ってきていると母が言うので、安置している続き和室に向かう。すっかり葬儀場に様子を変えた上の間の中央で、祖母は自身の愛用していた布団に収まっていた。顔にかけられたまっさらな布が、やけに明るい。
「いっこも苦しまん、大往生だって。お医者さんが」
 よいしょ、と母が祖母の横に座って「ばあちゃん。清陽が帰って来たよ」と声を掛ける。いつもの帰省と同じ、変わらぬ声掛けだけれど、返ってくる言葉はない。母が布をとると、穏やかに眠る顔があった。ほんの少しだけ、気が抜けたように口が開いている。ああ、死んじゃったんだと実感した。喉元まで「ごめんね」という言葉が込みあげたけれど、それを飲み込んで「久しぶり」と言った。それから祖母の顔を眺めていると、母が「いま、お父さんと勝弘さんが葬儀社に行って、打ち合わせしとるんやけどね」とため息をつく。
「ばあちゃんは、自分のことに関しちゃ倹しくしたひとやったやろう。派手んしてもみっともない、ち。仰々しいことも嫌いなひとやけん、大きなお葬式やなくてこぢんまりしたもんにしてもらおうち、お父さんとあたしは思ってるんよ。でも勝弘さんが嫌がって。会社の付き合いがあるち」
「父さんの言うことなんか無視していいとよ。ばあちゃんのことなんてちっとも大事にしてなかったんやけん」
 恵那が鼻を鳴らす。ばあちゃんていうか、家族のことなんかどうでもいいひとなんよ。頭の中は会社と女のことばっか。
「会社はともかく女って、まだあの愛人と付き合ってるの?」
 思わず言うと、恵那は口元を歪めて笑う。
「あの女には捨てられたんよ。金の匂いがしなくなった途端に、いなくなった」
 父の弟で、恵那の父の勝弘叔父さんは、小倉で老人介護施設を経営している。元は雇われケアマネージャーだったが独立し、いまでは四つの施設を運営している事業家だ。かつてはやさしいひとだったように記憶しているけれど、事業が大きくなるにつれて態度が大きくなり、身なりは派手になり、果ては愛人を作った。しかも、そのひとを秘書だと言って堂々と連れ回していて、あからさまにべたべたとくっついていた。
「金の匂いがしなくなったって、どういうこと?」
「四つ目に作った施設が、金持ち向けの高級路線やったんよ。インテリアや食材に拘って、お風呂は由布院から温泉の湯をタンク車で運ばせてさ。でも、あまりに入居費が高いってんで、だーれも入ってくれんの。経営してるだけで赤字やったみたい」
 借金だけが嵩み、その結果ふたつの施設を手放す羽目になったのだという。父親の大変な事態を恵那はどこか楽しそうに話した。
「経営が盛り返せるかどうか分からんけど、うまくいけばまた新しい女を作るっちゃないと?」
「へえ、大変だ……て、こういう話していいの? 叔母さんは?」
 慌てて周囲を見回す。恵那の母――叔父さんの妻の数恵叔母さんは大人しい気弱なひとで、夫のやっていることを黙認状態だけれど、だからってこんな話を聞きたくはないだろう。恵那は「うちの子たちを連れてコンビニまで行ってる」と言った。
「さっきまで庭で遊んでたんだけど、ふたりとも飽き飽きしたみたいで」
「あ、そうなんだ。恵那、旦那さんは?」
 恵那の夫の洵(しゅん)くんは、恵那の高校時代のクラスメイトだ。高校卒業後は自動車整備工場で働いている。学生時代はヤンチャをしていたと聞くが、とても穏やかな青年だ。あまり会うことはないけれど、とても子煩悩だと祖母から聞いた覚えがある。急なことだし、まだ仕事中だろうかと思って訊くと、恵那が般若みたいな恐ろしい顔をした。
「キヨ姉。もう、あいつは死んだと思って。あいつ、浮気しとったとよ」
 嘘、と小さく叫んだわたしに、恵那は「クソだよ、クソ」と吐き捨てる。
「あたしがこんなお腹で子どもふたりを見とるのに、高校時代の女友達とこっそり会って、飲みに出かけとったと。最低よ」
 別の友人から、飲み屋でふたりが親密そうに話している盗撮写真が送られてきて発覚したのだという。洵くんは、恵那が子どもにばかり構うので寂しくなったと弁解したそうだが、恵那にしてみればふざけている物言いだろう。
「下の子がまだ夜泣きするし、そもそも臨月って満足に熟睡できんとよ。寝不足でフラフラしてんのに、どうやって洵といちゃいちゃしろっつーの。もう離婚だ、離婚」
 恵那は一週間ほど前に洵くんと住んでいたアパートを出て、子どもたちとこの家に住んでいるらしい。どうして実家に帰らないのと訊いたら、「父さんの顔を見たくない」と言う。
「父さんは、子どもが三人もいるのに母親の自覚がない、とか絶対偉そうに言うもん。父親の自覚がない洵を叱れよって話。それに、愛人を作って遊び三昧だったひとと一緒に居たらストレスで死にそう。父さんには今回のこと何も言ってないんやけど、あのひと全っ然気づかんと。さっき顔を合わせたら『もう来てたのか』だってさ。バカやん」
 けっけ、と恵那が笑い、「でもこっちに来てよかった」と祖母に目を向ける。
「おばちゃんたちには迷惑かけたけど、ばあちゃんはひ孫と生活できて楽しいって言ってくれたんよ。最後にいい時間を過ごせたと思う」
「そう……」
 事情はどうあれ、確かに祖母にとって楽しい時間だっただろう。子どもが好きで、いつだって全力で遊ぶひとだった。しんみりした声で、恵那が続ける。
「昨日もね、子どもたちをずっと面倒見てくれてさ。で、その間あたしはおばちゃんにグリーンキャッスルに連れて行ってもらってね。それでさ、めっちゃ勝ったんよ。ふたりしてビッグ引きまくり」
「ジャグラーであんなに勝ったの、久しぶりやったねえ。妊婦さんはクジ運があるち言うけど、あたしもそれのおこぼれ貰えたとやろうね。それで、昨日の夕飯は焼肉にしたんよね。ばあちゃんも美味しい美味しいって食べてさ。いい夕飯やったよね」
 母と恵那がうふふ、と笑いあう。わたしは、顔が引きつるのが分かった。
「え、待って。九十半ばのばあちゃんに体力有り余った幼児をふたり預けて、スロット行ってたの? お母さんは透析患者だし、恵那なんて臨月妊婦だよ?」
 恵那が「座っとるだけやけん、問題ない」と平然と言う。
「そうそう。それに、散歩がてらにちょっと行っただけよ。お互いストレス溜まってたし、気晴らしも兼ねて、ねえ」
 母は暢気に言うが、わたしは知っている。母が毎日行っていることを。
「嘘ばっか。どうせ今月も皆勤賞なんでしょう!」
 グリーンキャッスルには会員カードがあって、来店するたびにポイントがつく。母はこのポイント目当てに、毎日欠かさず通っているのだ。図星だったのか一瞬気まずそうな顔をしたものの、ぷいと横を向いて「健康のために歩いているだけですう」と唇を尖らせた。
「お母さんがどこに行こうと、いいじゃないの」
 わたしは口を引き結んで、頭を振った。
 信じられない、信じたくない。年寄りに子どもを預けてスロットに行く母親なんて、常識がなさすぎる。しかもそれに、病を得ている実母まで付いて行っていたなんて。
 眩暈がしそうになりながら、やっぱり章吾に来てもらわなくてよかったのだと思う。こんな家族を、どうして紹介できるだろう。きっと、軽蔑される。だって、紹介された章吾の家族はとても、素晴らしいひとたちだった。
 付き合い出して二年が過ぎたころ、章吾の実家に行った。章吾の実家は有馬温泉の近くにあって、温泉旅行に行くついでに寄ろうと誘われたのだ。家族に紹介されるということの持つ意味を考えて、わたしはとても緊張していた。
 章吾の両親は、温和で知的なひとたちだった。ふたりとも高校教師で、母親は教頭をしているという。通されたリビングの壁は一面作り付けの書架になっており、みっちりと本が詰まっていた。一般文芸から芸術雑誌、小難しそうな教育論の本や章吾が子どものころ読んでいたという児童書まで揃っていて、一番古そうな児童書を手に取れば背表紙の破れがきれいに補修されていた。何度となく読んで、最後には家族全員諳んじることができたという。書架には章吾の子ども時代のアルバムもあった。革張りのそれは分厚く、写真と一緒にメモまで貼ってあった。二月十四日〔晴〕初めての美術館でルソーと出会う。九月二日〔曇〕バタ足をマスター。なんていう風に。誕生日には家族で手作りのケーキを囲み、お正月は晴れ着を着て初詣。そこかしこに、丁寧に育てられた痕跡があった。
 章吾の父親は「本の虫」と自称するくらいの本好きで、母親はハンドクラフトが趣味だという。来客用のソファには見事なレース編みのカバーがかけられていて、半年がかりで編んだものだと、どこか恥ずかしそうに言われた。章吾には邪魔だって言われるんだけど、でもこうしてると古いソファも華やかになってまだまだ使えるのよ。わたしは、とても素敵ですと言った。こんなきれいなものが作れるなんてすごいです。わたしは不器用で、マフラーひとつ編めないので尊敬します。
 言いながら、どうしても門司港の両親の顔がちらついて消えなかった。暇があれば酒を飲んで過ごす父と、スロットが趣味の母。子どものころの写真はもち吉の煎餅缶に無造作に入れられていたけれど、いつかの大掃除以来行方不明だ。唯一残っているのは茶の間のテレビの上にある、大きく引き伸ばされた写真一枚きりで、それは幼稚園児のわたしが小倉競馬場のパドックで馬に髪を食べられそうになって泣いているシーン。いまにも殺されそうな顔で叫んでいるわたしの顔が面白いと、父がずっと貼っている。
 母親と穏やかに会話する章吾の顔を見て、胸が痛んだ。このひとがもしわたしの両親に会えば、呆れ果てるだろう。生まれ育った環境が、あまりにも違い過ぎる。
「ああくそ暑いな。おい数恵、帰ったぞ」
 玄関の方でだみ声がして、はっとする。どすどすと足音も荒く中へ入って来るのは、叔父さんだ。上の間で座っていたわたしたちに気付くと、「おう、清陽。久しぶりやの。元気しちょったか」と大きな声で言う。
「どうも。御無沙汰しています」
 頭を下げると、「お前は滅多に帰ってこんけん、ばあさんの死に目に遭えんかったの」と続けた。その言い方にむっとするけれど、しかし言い返すともっと面倒な会話をしなくてはいけないので我慢する。わたしに気を使ったのか、恵那がそっと手を握ってきた。
「それより、数恵はおらんのか。恵那、茶」
 どっかと座り、お腹の大きい娘に顎で指図する。立ち上がろうとした恵那を母が制して、「数恵さんはチビちゃんたち連れて買い物。冷たいのでいいかいね」と答える。叔父さんは「すまんね」と口にしたけれど、少しも申し訳なさそうじゃなかった。
「ただいま。おお、清陽帰ってたか。急なことやったけど、仕事は休めたんな?」
 汗を拭き拭き、遅れて入ってきたのは父だった。やあ疲れた、と弟の横に座る。
「大丈夫。ちょうど、有休消化で二連休とってたの」
「そうかそうか。ばあちゃん、それが分かっとって、今日亡くなったんかもしれんなあ」
 酒の入っていない父は、口数の少ない静かなひとだ。酒を飲むと饒舌になり、気が大きくなる。笑えない冗談を飛ばしているくらいならいいけど、酒が深くなるにつれ攻撃的で怒りっぽくなる。適量の範囲内であればいいのに、いつも飲みすぎては家族に当り散らすのだ。今夜の通夜の席でもきっと浴びるほど飲むのだろう、と想像するだけでげんなりする。
「そうそう、ばあちゃんはここで……ええと家族葬ちいう式で送り出すって決めたけんの。勝弘も納得してくれた」
「兄貴がどうしてもち言うけん、仕方なか。まあ、わしの仕事関係を呼ぶちなったら、この家から弔問客が溢れてしまうけん。そもそも、こげな小さい家じゃ無理じゃ。でかい会館を借りんと」
 叔父さんが笑って言うが、父も恵那もそれに返事をしない。わたしも、祖母の方を見ているそぶりで聞き流した。祖母だったら、男の見栄張りはみっともないと叱り飛ばしただろうに。
 母が全員分のお茶を支度してきて、グラスの中身をひと息に飲んだ父が呟く。
「ばあちゃんは、家族と、ばあちゃんを偲んでくれるひとたちと静かに見送ろう。それが一番の供養やち思う」
 誰ともなしに祖母を見て、それからみんな頷いた。

町田そのこ
1980年生まれ、福岡県在住。2016年「カメルーンの青い魚」で第15回「女による女のためのR-18文学賞」大賞を受賞。17年、同作を含む短篇集『夜空に泳ぐチョコレートグラミー』でデビュー。『52ヘルツのクジラたち』で2021年本屋大賞を受賞。他の著書に『ぎょらん』『うつくしが丘の不幸の家』『星を掬う』『宙ごはん』「コンビニ兄弟」シリーズがある。

新潮社
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

  • シェア
  • ポスト
  • ブックマーク

株式会社新潮社のご案内

1896年(明治29年)創立。『斜陽』(太宰治)や『金閣寺』(三島由紀夫)、『さくらえび』(さくらももこ)、『1Q84』(村上春樹)、近年では『大家さんと僕』(矢部太郎)などのベストセラー作品を刊行している総合出版社。「新潮文庫の100冊」でお馴染みの新潮文庫や新潮新書、新潮クレスト・ブックス、とんぼの本などを刊行しているほか、「新潮」「芸術新潮」「週刊新潮」「ENGINE」「nicola」「月刊コミックバンチ」などの雑誌も手掛けている。

▼新潮社の平成ベストセラー100 https://www.shinchosha.co.jp/heisei100/