第1話「おつやのよる」を全文公開 町田そのこ『あなたはここにいなくとも』試し読み

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 通夜の時刻になると、祖母の友人や近所のひとたちがぽつぽつと来て、祖母と最後のお別れをしてくれた。
「ハルさんとは一昨日まで、夏祭りのフラダンスステージの練習をしとったのに」
「いつも遊びに来てくれて、嬉しかったなあ。ハルさん、向こうでまた会おうねえ」
 突然の死とはいえ、九十も半ばのひととなると皆どこか穏やかで、落ち着いている。そういう事態が近くに訪れることが分かっていたのだろうなと思うと同時に、自分のまったくの準備のなさが情けなくなった。祖母の友人たちの相手をしていると、背中にどすんとやわらかな衝撃がある。振り返ると子どもの笑顔がふたつ並んでいた。
「キヨ姉! 遊ぼう!」
 恵那の子どもは、上が一樹(かずき)、下が大樹(だいき)という。恵那の弟の萠(めぐむ)とプロレスごっこをしていたはずだけれど、と見れば萠は下の間の端っこに寝そべって「もう無理」と情けない声を上げた。
「そいつらの体力、無尽蔵だよ。オレ、ギブアップ」
「去年まで体育大の学生だったくせに、子どもに負けてんじゃないよ」
 わたしが笑うと、萠は力なく頭を振る。
「事務仕事ばっかりで、体が鈍ってるんだよ。ちょっと休ませてよ、キヨ姉」
 仕方ないなあ、とわたしは子どもたちに「ジュースでも飲む?」と訊く。エアコンが効いているけれど、子どもたちの顔には汗が滲んでいた。どれだけ夢中で遊んでいたのかと笑いが零れる。この子たちにはまだ祖母の死はよく分からないのだろう。でも、この笑顔と声だけで、祖母は慰められているはずだ。
 台所で冷えたジュースを用意していると、「何だと、コラァ」と激しい声がした。「ふざけたこと言ってんじゃねえぞ」と続く。どうやら、叔父さんが誰かに怒鳴っているらしい。びくりと震える子どもたちに「ここでジュース飲んでなさい」と言って慌てて和室に戻ると、叔父さんと恵那が睨み合っていた。「落ち着けよ、オヤジ」と萠が間に入っている。
「どうしたの」
 近くにいた母に訊くと「洵くんよ」とため息を吐く。
「勝弘さんがどうして洵くんが来てないんだって恵那ちゃんに訊いたんよ。そしたら恵那ちゃんが離婚するからどうでもいいって言ってね……」
 浮気くらい許してやれ、そんなの絶対嫌だという口論の果てに、叔父さんが激昂したのだという。
「母親ってのは、子どものために何があっても我慢するもんだ。お前は母親失格やぞ。そんなに離婚したいんなら、もう好きにせえ。でもな、家に帰って来るんじゃねえぞ。そんな阿呆を引き取るわけにはいかねえ」
 叔父さんは、ずいぶん酒を飲んだようだ。彼の座っているテーブルの前には、空になったウィスキーの瓶があった。顔が真っ赤なのは、怒りのせいだけでもなさそうだ。
「おい数恵。お前も反省せえよ。育て方を間違えとるやないか。こいつは亭主に食わせてもらってる恩も感謝も分からねえバカ娘になっとるやろが」
 叔母さんは、恵那の隣に座っていた。ふたりの言い争いを必死に取りなそうとしていたけれど、夫の言葉に顔つきを変えた。いつもの弱気な表情が消えたかと思うとゆっくりと立ち上がり、夫を見下ろす。
「……もういいわ。離婚しましょうや」
 震えていたけれどはっきりした言葉に、叔父さんが、ぽかんと口を開けた。
「娘にわたしと同じ苦労をしろなんて、口が裂けても言いたくない。あんたもよくそんなこと言えたもんやね。もう、呆れ果てた。別れましょう」
「お前、わしと別れてどうやって生活していくっち言うとや。帰る実家ももう無けりゃ才能のない専業主婦で、どうして生きていく。金は持たせてやらんぞ」
「ひとりでなら、どうにでも生きていけるわね。それに、お義母さんからこういうものを頂いとります」
 叔母さんが黒エプロンのポケットから取り出したのは一通の通帳だった。不思議そうに通帳を開いた叔父さんの顔から赤みが引いていく。
「よ、四百……!? こ、これをオフクロがお前に渡したっち言うんか。わしが金を貸してくれち頼んだとき、そんなもん無いっち言うたんやぞ。これだけあれば、三萩野の施設に手をかけられたやないか!」
「新しい人生を拓く助けにせえ、って萠が就職したときに頂いたと。どうしようかと持ってたままやった。お義母さんは何度だって『遠慮するな』っち言うてくれたんに」
 夫の震える手から取り上げた通帳を、大事そうにポケットに仕舞った叔母さんの目から、涙が零れた。
「嫁に来てからは本当の娘だと思うてた。娘の不幸を喜ぶ親はどこにもおらんのぞって。いまここで……お義母さんの前できちんとしたところを見せんと、顔向けできん」
「ばあちゃんは、父さんにずっと言ってたよね。数恵を大事にしろって。いつからか耳を貸さんくなって、ばあちゃんを避けるようになったよね。母さんはいつもここに会いに来てたよ。どっちが本当の子どもなんやろうね。ばあちゃんはどっちが、かわいかったやろね」
 恵那が加勢して、叔父さんが「黙っとれ!」と睨みつける。しかし恵那は一向に怯まなかった。「あたしも、帰るつもりはないけん。ここで暮らしたらいいってばあちゃん言ってたし、おじちゃんたちもこれからも全然構わん、て。なあ、おじちゃん?」と父に水を向ける。離れた席で様子を見ていた父は、それに黙って頷いてみせた。いつもなら酔った勢いで諍いごとに口を挟むのに、珍しい。さすがに、弟夫婦の離婚問題には簡単に割って入れないのだろうか。
 叔父さんがわなわなと震えて、叔母さんと恵那に指を突きつける。
「ふっ、ふざけんなよ、お前たち。そんなこと、おれは許さんからな」
「わたしも恵那も、あんたの援助なしで自立するだけよ。あんたに許されなきゃいけないことは、何ひとつない」
 涙を拭って、きっぱりと叔母さんが言い、叔父さんがぐっと唇を噛んだ。
 くいくいと服の裾が引かれ、見ると数人いた祖母の知り合いたちが「帰るわね」とそっと囁いた。嘘! まだ弔問客がいるのにこの騒ぎを始めたわけ?
 ああ、どうしてわたしの家は、いつもこうなんだろう。どこかまともじゃなくて、みっともない。
 母とふたりで、外まで見送りに出た。気まずそうにしているひとたちに、お恥ずかしいことで申し訳ありません、と何度も何度も頭を下げた。
 彼らの姿が見えなくなったころ、母が大きなため息をついた。玄関扉に手をつき、もう一度息を吐く。
「大丈夫? お母さん、今日、こんなに忙しくて透析に行けたの」
「もちろん。行かないと、死んじゃうもん」
 前髪のほつれを手で直す母の手首はとても細く、埋め込まれた内シャントが目立つ。
 母が人工透析を始めて、もう四年ほどだろうか。昔はふっくらとした体つきだったけれど、すっかり細くなった。年のわりに豊かな黒髪のお蔭か窶れた様子はないけれど、それでも老いた。祖母があまりに元気だったから忘れかけていたけれど、母もじゅうぶん、年を重ねているのだ。
「……ねえ、スロット行くのもいい加減にしないと。体に良くないよ」
 長生きできないよ、と言うと母は不思議そうな顔をして、それから笑った。
「長生きできんけん、好きなことしとるんやないの」
「え?」
「ばあちゃんが言ったんよ。これからは好きなことだけしんさい。あんたの人生はひとより短くなるかもしれんけん、後悔のないように好きなことだけしい、って」
 いいお姑さんやったよねえ、と母は嬉しそうに言った。数恵さんも言うてたけど、嫁を実の娘みたいに可愛がってくれたもん。ありがたいわあ。
 そう言えば、母がスロットに熱中しだしたのは透析を始めてからのような気もする。もともと好きではあったけれど、それでも月に数回行く程度のことだったのだ。
「さあ、とりあえず中に入って喧嘩を仲裁しなきゃ……あら?」
 家に入ろうとした母が首を傾げる。その視線を追ったわたしは、息を呑んだ。
 門扉に吊るされた御霊灯の灯りの隣に立っていたのは、新大阪駅で別れたはずの章吾だった。
「章吾……? どうして、ここに」
 章吾が口を開こうとする、そのとき。章吾の後ろから洵くんが飛び出てきて、「恵那に会わせてください!」と叫んだ。
「おれが全部悪いとです! 恵那に会わせてください。ばあちゃんに、謝らせてください!」
 意味が分からなすぎて混乱する。どうして、章吾と洵くんが一緒にいるのだ。そして洵くんはどうして、泣いているのだ。
「あらら。こりゃちょうどいいかもしれんねえ。いまね、恵那ちゃんと勝弘さんが喧嘩になっとるんよ。洵くん、行ってやって」
「妊婦なのに喧嘩!? し、失礼します!」
 涙を拭って、洵くんが家の中に駆けこんでいく。すぐに、「いまごろ何しにきやがった!」と叔父さんの怒鳴る声がした。
「うあ、お母さん。いまあの場に洵くんを入れたらダメだったんじゃないの」
「え、そんなことないでしょう。萠くんもいるし」
 そう言っている間に、何かが倒れるような大きな音と恵那の悲鳴が聞こえた。母が顔つきを変えて家に駆け戻り、わたしも後を追おうとしてしかし足を止める。振り返ると、見間違いでも幻でもない、喪服を着た章吾がいた。少しだけ申し訳なさそうに、でもどこか困ったように笑いかけてくる。
「ごめん、来てもた」
 迷惑やんな。灯りでほんのりオレンジ色に染まる顔に、胸がぎゅうと痛くなる。
「なんで手を上げるんよ! 父さんのバカ!」
 背後で、恵那の涙混じりの声と子どもたちの爆発するような泣き声が響いた。ああ、いまは章吾と話ができるような状況じゃない。
「話は、あと。とりあえず、入って」
 ともかく止めなくては。慌てて和室に向かった。
 どうやら、萠が殴られたらしい。通夜ぶるまいのテーブルの下で、煮物まみれになってのびているのを母が介抱している。恵那は泣き喚く子どもたちふたりを抱きしめ、仁王立ちする叔父さんの前に叔母さんが立ちふさがる。少し離れた場所で、洵くんが額を擦りつけて土下座していた。
「おれが全部悪かったんです! どうか、恵那と夫婦でいさせてください!」
「そんな情けない真似するくらいならどうして浮気なんてすんだ、馬鹿野郎。カカアに逃げられてもいいっちいう覚悟もねえなら浮気すんじゃねえ! 恵那、お前は亭主にこんな情けねえ真似させるんじゃねえ」
 叔父さんが言い、叔母さんが「じゃあ、あんたもその覚悟があって遊んでたんやろね」と返す。
「それならわたしが出て行っても、何の問題もないでしょ」
「それとこれとは違うだろう! 女は黙ってガマンを」
 叔母さんの胸ぐらを掴んだ叔父さんが、頬を殴ろうとする。そのハゲかけた頭をぺちんと叩いたのは、父だった。
「落ち着かんか、カツ坊。母さんの前でみっともねえ真似すんな。数恵さんも、熱くなりすぎちょう。ちょっとふたりで外出て、話しあってこい。若いのは、おれたちが見るけんよ」
 とても静かな、しかし怒りの滲んだ言い方に、ふたりがはっとする。それから叔母さんが「すみません……」と消え入りそうな声で言った。叔父さんも、泣きじゃくる孫と母親の柩を交互に見てバツが悪そうに俯いた。
「出て行け、とりあえず。な?」
 父が促すと、ふたりは大人しく出て行った。引き戸が静かに開閉する音を聞いた後、父が洵くんに「ほら、いいぞ」とやさしく声を掛ける。土下座したままだった洵くんが顔をあげ、「恵那、ごめんなさい」と深々と頭を下げた。
「本当に、ごめん。言い訳やけど、飲みに行っただけやけん。ほんとうに何もしてない。でも、そんな問題やないよな。おれがしたことは、最低やった」
 母が萠を起こし、台所に連れて行く。ふらついていた萠が「お前らもおいで」と声をかけると、涙で濡れた一樹と大樹は大人しくついていった。小さな背中ふたつを見送った恵那が「どうして急に謝ろうと思ったん」と訊く。息抜きに飲みにいくことの何が悪いって開き直ってたやん。ぶくぶく太って、ふうふう息吐いてるのが気持ち悪いって、もう女として見れんち言ってたやん。それが急になんなん? お義母さんたちにでも叱られた? そんなんであたしは許さんよ!
 捲し立てる恵那に、洵くんが首を横に振る。それから、スマホを取り出して差し出した。恵那に「メール見て」と言う。訝しそうにスマホを操作した恵那の指先が止まった。
「……ハルってこれ、ばあちゃん?」
 恵那が画面を何度かタップする。スマホから、泣き声が響いた。さっきの一樹と大樹の声に似ていて、わたしは思わず近づいて恵那の手の中のスマホを覗き込んだ。
 ママ、ママぁ。カズがダイちゃんのたまごやきとったぁ! ちがうもん、これカズちゃんのだもん! ねえママ、たまごもっと食べたいよお。
 それは我が家の茶の間を映した動画だった。手も顔もご飯粒だらけの子どもたちが喧嘩しながらご飯を食べている。恵那はそのいちいちに応え、『じゃあたまご焼いてくるけん、待っとき』と大きなお腹を抱えて立ち上がる。大樹が泣いて後を追い、恵那は苦しそうに、しかしちゃんと抱きかかえて頭を撫でる。ちょっと待っとき。美味しい玉子焼き作ってやっから。一樹も、待ちな。ママのぶん、食べとっていいけん。
 動画が終わり、恵那の指先が動く。祖母から洵くん宛にメールがいくつも送られていて、それには全て動画が添付されているらしかった。
 次の動画は、薄暗い部屋だ。常夜灯がちらちら動くから、夜の室内だろうか。大樹の泣き声がする。はいはい、怖い夢見たかなあ。ダイジョブだよお。ママ、ここにいるよー。眠たそうな、でもどこまでも優しい恵那の声がして、布団から這い出るような音が続く。立ち上がった恵那が大樹を抱っこして、背中をトントン叩いて寝かしつけようとしている。
『恵那、ばあちゃん代わろうか?』
 祖母の小さな声がし、恵那が『ごめん、起こした?』と言う。あたしの子やけん、ダイジョブ。さあ寝ようねえ、ダイ。大好きだよ、また明日遊ぼうねえ。重たそうな体を揺らして、恵那がふうふう息を吐きながら囁く。大好きだよ。
「おれ、それ見たら本当に申し訳なくなった。おれ、あいつらのために夜起きたことないもん」
 洵くんがうなだれる。ばあちゃんから、毎日届いとった。謝りに来いとかそういうのは一切なくて、ただ送ってきて。でもおれ、うぜえなち思って見もしなかった。でもばあちゃんが亡くなったち連絡きて、初めてそれ全部見て、それで……。
 堪らなくなって会いに来たのだと、洵くんは額を床につけた。
「二度としません。一度だけ、おれにチャンスを下さい」
 スマホの画面をじっと見つめていた恵那は、強く目を閉じた。それから時間をかけて、「いいよ」とゆっくりと言った。ここにおばあちゃんがいたら、きっと「そうしてやってよ」って言ったと思う。だから、今回だけは、いいよ。
 洵くんが「ありがとう」と涙を拭う。それから柩に向かって頭を下げた。ばあちゃん、ごめん。ばあちゃんが生きている間にしなきゃいけんかったのに。ごめん。
「パパぁ?」
 おずおずと声がして、見れば一樹と大樹が襖の隙間から顔を覗かせていた。洵くんが「おいで」と手を広げると、ふたりとも嬉しそうな顔をして駆け寄って行く。
「おそいんだよう、パパは」
「大ばあばが今日はぜったいくるよってまいにち言ってたのに、いっつもこないんだもん」
 洵くんが子どもたちを抱きしめて「ごめん」と謝る。本当に、ごめんな。
 無意識に滲んでいた涙を拭い、恵那を見る。恵那はスマホを見ながら「すげ、ばあちゃん」と小さく笑った。
「盗撮されてたん、全然気づかんかった」
「スマホ、使いこなしてたもんね」
 顔を見あわせて笑う。恵那の目尻も光っていた。
「ほんで、あんたはどちらさんですか。母の知り合い、でしょうか?」
 父の声がして、はっとした。見れば、部屋の端に所在無げに章吾が立っていた。すっかり忘れていた。
「お……ぼくは、清陽さんとお付き合いをさせていただいています」
 はじめまして、と章吾が頭を下げ、父が「うひゃ」と変な声を出した。
「このようなときに来るのも失礼かとは思ったのですが、おばあさまに最後にお目にかかりたくて」
 すみません、と章吾がもう一度頭を下げ、顔を真っ赤にした父がわたしと章吾を交互に見る。あまりに赤いので、深酒をしているのだと思う。さっきの叔父夫婦の仲裁に入ったときには感じなかったけれど、やはり酔っているのだろう。ああ、どうしてこんな状態が初対面なのだ。あまりにも最悪すぎる。
 父が口を開く。怒鳴り声か、下品な物言いか、思わず身構えて目を閉じた。
「それは、わざわざこんなところまでありがとうございます。母も喜ぶと思います」
 父はとても冷静に言った。一瞬聞き間違いかと思って目を開けると、恥ずかしそうに頭を掻いて、「騒がしい通夜で驚かれたでしょ。すみませんなあ」と続ける。
「すぐ片づけますけえ。洵くん、ちょっと手伝ってくれんかい。恵那はええよ、ゆっくりしとき。清陽、座布団持ってきてくれ」
「う、うん。すぐやる」
 一体、どうしたことか。片づけながらさっきまで父が座っていた席に目をやる。愛用しているちろりとぐい呑みがある。お酒を飲んでいるはずなのに、と首を傾げながら荒れた室内をどうにか整えた。
「いつも騒がしい家なんです。たいしたもんはないですけど、まあどうぞ」
 和室には、わたしと両親、章吾だけになった。恵那たちは茶の間に移動して話をしているようだ。萠の「暴力オヤジ、いつか反逆してやるけんな」という物騒な声がした。
「お酒飲めますか? ビールでいいかしら。お父さんは?」
 母が訊くと、父は「おれはこれでいい」とちろりを指す。
「日本酒ですか。ご一緒させてもらっても?」
 章吾の言葉に、父はわたしをちらりと見て、それから「いやいや」と俯いた。
「これはね、お湯なんで」
 え、と声が出る。お湯? 父は俯いたまま続ける。
「おれは酒が好きやけど、弱いとです。それで半年くらい前にこの子を怒らせてしまって、あそこのばあさんにそりゃ叱られたとですよ。清陽はもう二度と帰って来んかもしれんし、好いたひとも連れて来てくれんち言うて。嘘じゃろち思ったけど、本当に連絡ひとつ寄越さんくなった。焦りました。でも、おれも九州の男なんで、うまく謝るちことができん」
 父は頭をつるりと撫でる。お酒を飲んでいないのに、薄くなった頭頂部まで赤い。ほんで、どうしたもんかと思うておったら、ばあさんが『酒をやめろ』ち言うんですよ。酒やめたら清陽は帰って来る。あたしが絶対に清陽を呼び戻してやるって。そこまで言うのならじゃあ賭けようかってことになって、禁酒したんですわ。はは、可笑しい話でしょ。
 章吾が「楽しい、おばあさまだったんですね」と言い、父が頷く。
「ええ、とても面白いひとでしたよ。会ってほしかった……会わせたかった、かな」
 どこまでも穏やかな父の言葉が、わたしの胸を締めつける。どうしてわたしは意地になってしまったのだろう。この目の前の光景を、祖母が生きている間につくることもできたのに。
 泣きそうになるのを、ぐっと堪えた。
 それから母がビールとグラスを運んできて、わたしは章吾と父のグラスそれぞれに、ビールを注いだ。
「いいんか、清陽」
「一杯だけね」
 父はグラスを掲げて「賭けはおれの負けじゃ」と笑った。

町田そのこ
1980年生まれ、福岡県在住。2016年「カメルーンの青い魚」で第15回「女による女のためのR-18文学賞」大賞を受賞。17年、同作を含む短篇集『夜空に泳ぐチョコレートグラミー』でデビュー。『52ヘルツのクジラたち』で2021年本屋大賞を受賞。他の著書に『ぎょらん』『うつくしが丘の不幸の家』『星を掬う』『宙ごはん』「コンビニ兄弟」シリーズがある。

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※この記事の内容は掲載当時のものです

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