第1話「おつやのよる」を全文公開 町田そのこ『あなたはここにいなくとも』試し読み

試し読み

  • シェア
  • ポスト
  • ブックマーク

   *

 ふたりで話がしたいと言って、家を出た。小学生のころの通学路を何となしに歩く。トリカワと呼ばれて泣いて帰った道だ。やわらかな海風が頬を撫でた。
「昼間は、ごめんね。わたしすごく嫌な言い方した」
「まあ、ムカついたな。でも、家族が亡くなって動揺してたってことやもんな」
 手の甲が触れ、そのまま手を繋ぐ。やさしい温もりに包まれる。
「それもある。でも、わたし、家族を章吾にうまく紹介できそうになかったんだ」
 小さな情けない理由だ。わたしは結局何も成長できていないままだったのだ。よその家と自分の家を見比べてはショックを受ける子ども。そのせいで、大事なひとに大事なひとを紹介できなかった。
「ああいう身内がいますって、どうにも恥ずかしくて言えなかったんだ。情けないね」
「いいひとたちやんか。洵くんやっけ? 彼のことはおれわりと好きやで。素直や」
 洵くんは門扉の前で立っている章吾に話しかけ、わたしの恋人と知るや一緒に中に入ってくれと懇願したのだという。謝りたいけど怖くて入れないんです! と縋られたところでちょうど、わたしと母が表に出てきたのだと章吾は楽しそうに言った。
 家を出がけに茶の間に声を掛けたら、洵くんはせっせと萠の肩を揉んでいた。洵くんの浮気心のせいでオレが殴られたと憤る萠の機嫌を取っていたのだ。その横では恵那と子どもたちがニコニコと笑っていた。
「あと、あれ。可愛い写真貼ってたなあ」
「見たの?」
「ぶさいくかわいい。あれをずっと飾ってるセンスはええな」
 茶の間は少し覗いただけなのに、馬に泣くわたしの写真まで見ていたなんて。
「清陽は子どもの時分からお父さん似やな。声は、お母さん似。恵那ちゃんにもどっか似てるなあ。姉妹でも通るわ。ああ、おれ、みんな好きやな」
「……ありがと。でもまだちょっとしか話してないし、これから呆れることもあると思う」
「そうかもしれへんな。けど、大丈夫やと思うで」
 章吾が言い、わたしは隣を見上げる。章吾は、わたしが子どものころに通い詰めた駄菓子屋『三浦屋』の古い看板に目を向けていた。三浦屋のおばあちゃんはわたしの祖母の友達で、わたしを見ると『ハルやんの孫ちゃんにはこれあげよ』とポケットから飴玉をふたつくれた。ハルやんと一緒にお食べ。三浦屋はもうずいぶん前に閉店したけれどあの飴玉の甘さが鮮やかに蘇る。
「清陽の言葉やしぐさ、考え方の端々にあのひとたちがおるんや。パーツみたいなもんかな。おれはそういうパーツでできた清陽が好きやねん。やから、たとえ嫌なことや呆れることがあっても、でもこのひとのどこかにおれの好きな部分も絶対あるんやなあって考えるようにするだけ。それだけや」
 言葉を失って、それから、好きだなあと思った。そして、わたしはわたしのことを全部認めて受け入れてくれるからこそ、このひとを好きになったのだと思い出した。
「ああ、おばあちゃんに章吾を会わせたかったな。紹介したかった」
 哀しくなって呟くと、「おれ、会ったかもしれんで」と章吾が返す。
「新大阪出て、いったん清陽の部屋に戻ってん。ほんで荷物纏めて帰ろうとしてたら寝室の方で音がしてな。何やろなと思って部屋覗いたら、これがひらひらーって床に落ちてん」
 章吾が葉書を取り出した。今朝、チェストの上に置いたのは覚えているけれど、落ちるようなところに置いていただろうか。
「あなたのしあわせな顔を見せてちょうだい、って文字が目に飛び込んできて、ああこれおれが行かなあかんの違うかなって思ってん」
 おれが行かな、清陽のしあわせそうな顔見せられんやろ。章吾は恥ずかしそうに、でもどこか確信めいた口調で言った。わたしは溢れた温かな思いを、笑いに変えて零す。
「それ、あんまりにも自信家すぎない? でもそれは確かに、おばあちゃんが章吾を呼びに来たのかもしれない」
「せやろ。絶対そうやと思って、気付いたらこれ持って新幹線乗ってた。早かったで、おれの動き。この喪服なんかな、小倉駅の駅ビルで買うてん。さらの新品や」
 誇らしげに葉書を掲げ、むん、と胸を張ってみせる章吾に「靴も?」と訊く。
「当たり前やん。でもこれはあかんかった。実は靴擦れしてんねん」
 今度は情けない顔になる。ころころと変わる顔に笑っていると、ころりと涙が出た。一粒、二粒、転がり落ちていく。章吾がやわらかく目を細めた。
「……わたしね、おばあちゃんっ子で、おばあちゃんが大好きだったの。いまも、大好き」
 うん、と章吾が言う。
「とても元気なひとで、子どものころはおばあちゃんと唐揚げの大食いレースとかしてたんだ。ひとには言えなかったけど、でもすごい楽しくて」
「うん」
「そしてね、おばあちゃんの作る……すき焼きが大好物だったの。うちのすき焼きね、鶏肉で作るんだ」
「へえ、旨そうやん。タマゴと食ったら親子丼みたいでええな。食いたいな」
 そうでしょ、と言う声が少し詰まる。ああ、こんなにも簡単なことだったのだ。
「あ。あれ、清陽のおじさんたちやない?」
 章吾の指差す方を見れば、叔父さんと叔母さんが歩いていた。並んで歩いている背中を見送る。
「離婚、するのかなあ」
 大人しい叔母さんがあそこまで感情を露わにして怒鳴ったのを見たのは初めてだった。もう関係修復は難しいかもしれない。どうやろなあ、と章吾が言う。清陽のおばあちゃん、どうも策士のような気がするで。なんやうまいこといって、明日の葬式には、あのふたりも笑顔でおるんとちゃうか。
 そうだったらいい。祖母はもしかしたら、自分の家族の問題をすべて解決して亡くなったのかもしれない。そう思いたい。
「清陽」
 呼ばれた気がして、振り返る。したり顔の祖母が笑っていた、気がした。
「ただいま」
 章吾の手を強く握って、思いきり笑ってみせた。

続きは書籍でお楽しみください

町田そのこ
1980年生まれ、福岡県在住。2016年「カメルーンの青い魚」で第15回「女による女のためのR-18文学賞」大賞を受賞。17年、同作を含む短篇集『夜空に泳ぐチョコレートグラミー』でデビュー。『52ヘルツのクジラたち』で2021年本屋大賞を受賞。他の著書に『ぎょらん』『うつくしが丘の不幸の家』『星を掬う』『宙ごはん』「コンビニ兄弟」シリーズがある。

新潮社
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

  • シェア
  • ポスト
  • ブックマーク

株式会社新潮社のご案内

1896年(明治29年)創立。『斜陽』(太宰治)や『金閣寺』(三島由紀夫)、『さくらえび』(さくらももこ)、『1Q84』(村上春樹)、近年では『大家さんと僕』(矢部太郎)などのベストセラー作品を刊行している総合出版社。「新潮文庫の100冊」でお馴染みの新潮文庫や新潮新書、新潮クレスト・ブックス、とんぼの本などを刊行しているほか、「新潮」「芸術新潮」「週刊新潮」「ENGINE」「nicola」「月刊コミックバンチ」などの雑誌も手掛けている。

▼新潮社の平成ベストセラー100 https://www.shinchosha.co.jp/heisei100/