「愛の不時着」リ・ジョンヒョクをイメージしたラブ・ストーリー 井上荒野『僕の女を探しているんだ』試し読み

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黒いコートを着た背の高い彼は、大事な人を探しにここへ来ていた。海辺で、ピアノのそばで、病院で、列車の中で、湖のほとりで、彼は私たちをそっと守り、救ってくれた――。

大ヒットドラマ「愛の不時着」に心奪われた井上荒野さんによる熱いオマージュの込められたラブストーリー集『僕の女を探しているんだ』。今回は、ドラマの主人公リ・ジョンヒョクをイメージしていちばん最初に書かれた「今まで着たことがないコート、あるいは羊」の冒頭部分を公開します。

今まで着たことがないコート、あるいは羊

 豆屋でパパが倒れた。
 創業百五十年だか何だかの老舗の豆屋の店内で、パパは「うわっ!」と叫んだと思ったらガクンと床に膝をついて、そのとき宙を掻いた手がカウンターのカゴに当たって試食用の砂糖がけの豆を盛大にばらまきながら、へなへなと横たわってしまった。ありえない。私はとっさに何の反応もできなくて、店の人も店内にいた客たちもなぜかみんなそれぞれの位置で静止していて、「救急車!」と声を上げたのはそのとき外から入ってきた人だった。
 パパ以外の、私を含めて全員が、パパからその人に視線を移した。背が高くて手足が長くて、すごくきれいな顔をした男の人だった。歳は三十代半ばか少し上くらいだろうか。でもこの人、自分がイケメンだってことにあんまり気がついてなさそうだな。私はそう思った――緊急事態の真っ只中であるにもかかわらず。その人は黒いタートルネックに黒いパンツ、黒いコートという黒ずくめの格好で、お洒落でそうしているというよりは、自分がイケメンであることに無関心なのと同様に、目の前にあるものをただ無造作に身につけてきた、というふうだった。そしてそんなところも、ものすごくカッコよかった。
「救急車は……いいです……結構です……」
 パパが言った。顔をひどく歪めて、半身を起こそうとしながら。男の人が駆け寄って、パパの背中を支えた。
「動かないほうがいいです。きっと心臓です」
「いや、大丈夫だから……」
「電話、貸して」
 男の人はパパを無視して、私に言った。私は慌ててスマホを取り出して彼に渡した。
「救急車、何番?」
「え? 119?」
「あっ。ロック解除してくれますか」
 彼は私のスマホで救急車を呼んだ。パパの状態について、彼は落ち着いて、的確に説明した。それから「ここの住所を言って」と私にスマホを返した。私は電話の向こうの人に豆屋の店名を伝えた。
 それでわかったことがいくつかあった。この人は、携帯を持っていない。それに救急の番号を知らないし、今自分がいる場所もたぶんちゃんと把握していないのだ。
 到着した救急車に、私と一緒に男の人も乗って行くことになった。パパが、そうしてくれるように頼んだのだ。パパはむしろ、私抜きで彼だけについて来てもらいたそうだった。気持ちはわかる。私だってついて行きたくなかったけど、救急車が来たときには周りに結構な数の人が集まっていて、こっそり逃げ出せそうもなかった。パパに同乗を頼まれて、当然そうするつもりだったというふうに了承した男の人も、私が一緒に来ることを疑っていなかった。
「家族の人に連絡したら?」
 救急車が走り出すとすぐ、男の人は私に言った。
「ええと……あとで」
 私が曖昧に答えると、男の人は悲しそうな顔になった。
「事情があるんだね」
 私は頷いた――たしかに「事情」はある。
「あなたをなんて呼べばいいかな」
「春奈です」
「ハルナさん。僕は……」
 男の人は名乗ったけれど、私はよく聞き取れなかった。
「リさん?」
 聞き取れた部分はそれだけだった。
「うん。リさんでいいよ」
 と彼はニッコリ笑った。

 着いたのはわりと近い場所にある大学病院だった。
 パパはストレッチャーでどこかへ運ばれていき、私たちは呼ばれるまで会計待合所で待っていることになった。
 もう午後六時を回っていて、会計カウンターは閉まっていて、だだっ広いその場所に人はポツポツとしかいなかった。私たちと同じような理由で待っている人たちなのだろう。右側が病棟に通じるホールになっていて、そこに大きなクリスマスツリーが立っている。見上げるほど高くて、いろんな色のガラス玉と、雪の結晶のオーナメントで飾られている。電飾もなく、派手ではないけれどきれいだった。
「きれいだね」
 私の視線に気がついたらしいリさんが言った。私はとっさに答えられなかった。きれいだけど、見たくないものを見た、という気分になっていたのだ。
「あの……予定とかは、ないんですか」
 私は聞いた。この人がここにいるかぎり私は逃げ出せない。それに、もうこの人に横にいてほしくない。リさんに対する私の気分はクリスマスツリーに対するものと似ていた。
「予定はあるけど、大丈夫」
 リさんは微笑んだ。私はちょっとびっくりした。彼に「予定がある」ということと、それを口にしたときのきっぱりした口調に。
「予定があるなら、行ってください」
「いや……心配だから」
「予定はすっぽかすんですか」
「約束してるわけじゃないから」
 背後で声がした。子猫の鳴き声みたいな声だったから、私もリさんもくるりと振り返った。二列後ろに、ちょうどパパと私の組み合わせと同じくらいの年回り――若いほうは二十代のはじめくらいでその母親と思われるほうは五十代半ばくらい――の女性ふたりがいて、子猫の声みたいなのは、母親が泣いている声だった。娘が母親の肩を抱き寄せて、泣かないでよ、泣かないでよお願い、と今にも泣きそうな声で囁いていた。私たちは急いで元の姿勢に戻った。まったく、なんて場所に私はいるんだろう。豆屋の次がここか。
「ひとりにならないほうがいい」
 リさんはさっきより声を潜めて、私に言った。たしかに、彼にここにいてほしくないのと同じくらいに、いてほしいと自分が思っていることに私は気がついた。
「予定って、どんな予定なんですか」
 どうしてもそれが知りたい気がして、不躾に私は聞いた。
「人を探してるんだ」
「人? 誰? どういう人?」
「強くて、かわいい。すばらしい女性だよ」
「恋人?」
「どうかな。恋人……彼女がそう思ってくれているかどうかは、わからない」
「それをたしかめるために探しにきたんですか?」
 私はさらにずけずけ聞いたが、リさんは答えを探すようにクリスマスツリーのほうをしばらく眺めた。
「うん、きっとそれもあるね」
 彼は、私の質問に答えているというよりは、私がいないみたいに、自分自身に向かって、あるいはどこかにいるその女性に向かって語りかけているみたいだった。
「あなたは彼女を愛してるんですか」
「愛してる」
 即答だった。私は胸が痛くなった。なんて晴れやかな、確信に満ちた顔で言うのだろう。

続きは書籍でお楽しみください

井上荒野
1961年東京生れ。成蹊大学文学部卒。1989年「わたしのヌレエフ」でフェミナ賞、2004年『潤一』で島清恋愛文学賞、2008年『切羽へ』で直木賞、2011年『そこへ行くな』で中央公論文芸賞、2016年『赤へ』で柴田錬三郎賞、2018年『その話は今日はやめておきましょう』で織田作之助賞を受賞。他の作品に『もう切るわ』『ひどい感じ 父・井上光晴』『夜を着る』『キャベツ炒めに捧ぐ』『リストランテアモーレ』『あちらにいる鬼』『あたしたち、海へ』『そこにはいない男たちについて』『百合中毒』『生皮 あるセクシャルハラスメントの光景』『小説家の一日』などがある。

新潮社
2023年3月25日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

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1896年(明治29年)創立。『斜陽』(太宰治)や『金閣寺』(三島由紀夫)、『さくらえび』(さくらももこ)、『1Q84』(村上春樹)、近年では『大家さんと僕』(矢部太郎)などのベストセラー作品を刊行している総合出版社。「新潮文庫の100冊」でお馴染みの新潮文庫や新潮新書、新潮クレスト・ブックス、とんぼの本などを刊行しているほか、「新潮」「芸術新潮」「週刊新潮」「ENGINE」「nicola」「月刊コミックバンチ」などの雑誌も手掛けている。

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