まさかそこまで……唖然とした棚橋弘至選手の食事 『ルポ 筋肉と脂肪 アスリートに訊け』試し読み

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 週刊文春、dancyuでエッセイの長期連載を抱え、幅広い読者層から支持を集める作家・平松洋子さんが5年の歳月をかけて、「アスリートと食」「筋肉と脂肪」「人の体はどのようにつくられていくのか」のテーマを探求した単行本『ルポ 筋肉と脂肪 アスリートに訊け』。

 今年1月末に刊行されると、読売新聞や日経新聞、雑誌Tarzan、ダ・ヴィンチ、J-WAVEほかで著者インタビューが、また朝日新聞、毎日新聞、東京新聞、北海道新聞に書評が掲載されるなど高く評価されています。

 今回、「試し読み」として、本書のなかから「100年に1人の逸材」と言われる新日本プロレスの棚橋弘至選手の食事風景に触れた一節を公開します。

二章 プロレスと筋肉 食べなければ得られない

 ふらりと食堂に入ってきた男性と鉢合わせになった。
 金色に近い長髪が肩のあたりで跳ねている。Tシャツの半袖を盛り上げる上腕三頭筋。目を釘づけにするがっちりと厚い胸板。なのに、アンバランスなほどおだやかな物腰。このひとを知っている、だれだろうと思ったら、それは新日本プロレスを背負って立つ「100年に1人の逸材」棚橋弘至選手だった。オーラが完全に消えている、消している。
 椅子に座って、棚橋選手が台所にいる選手に声を掛けた。
「今日の隠し味なに?」
 穏やかな声で訊かれ、彼は弾かれたように食器を用意しに走った。道場に置いてあるコスチュームを受け取って移動する途中、ついでに食堂で昼食をすませるらしい。
 食器が運ばれてくるのを待つ棚橋選手に訊いてみた。
――ここで食べる食事はおいしいですか。
「道場は安心するんですよ。“いつ来ても、かならずちゃんこがある”という安心感があるんですよね」
 立命館大学卒業後、新日本プロレスに入団した棚橋選手にとって、九九年から〇一年まで二年間、きつい練習に明け暮れた古巣である。四十代に入って体重百一キロ、身長百八十一センチ、鍛錬を重ねてつくり上げた肉体美は、棚橋選手の魅力を担う大きな武器である。
 ちゃんこの大鍋は電磁調理器のコンロにかかっているので、食堂にある間はずっと熱いままだ。ふたを取ると、ほわっと湯気が上がる。棚橋選手が自分の丼によそうのは、野菜と鶏肉だけ。最初からご飯の丼はない。
 大根、しいたけ、ねぎ、にんじん、豆腐、選り好みせずまんべんなくよそうのだが、お玉を底のほうに差し入れ、鶏肉をたくさんよそっている。鶏肉は良質のたんぱく質だ。
 食べる姿を見て、あっと思った。箸で鶏肉をつまむと、肉についている皮や脂肪をいちいち指で取り除いている。
――ここまで細かく気をつけているとは……驚きました。
「皮や脂肪もいっしょに食べちゃうと、三十分よけいに練習しなくちゃいけなくなるから、効率が悪いんですよ。食べもののカロリー数はだいたい頭に入っています。摂取した脂質やたんぱく質も把握しています。今日の昼めしは一グラム(脂質)九キロカロリー、全部で二〇〇キロカロリーくらいだと思います」
 野菜や鶏肉のだしが染み出た熱いスープを少し飲み、言った。
「かっこいい身体になりたかったから、ずっとこういうふうにしてきました」
 毎日の食事を写真に撮るのは、レコーディングダイエットに活用すると同時に、SNSの発信ツールにするためだ。
「応援してくれるファンにとって、食べものは親しみやすい情報かなと思って」
 ソフトクリームの広告写真の前で、「むう」とコメントをつけて立ち尽くす棚橋のツイッター写真は、共感を超えて胸がときめく。あの並外れた筋肉の美しさは努力と節制のたまものだと察せられるし、人間味や親しみやすさが伝わってくる。プロレスラーも自分とおなじ生身の人間なんだなと思ってもらえれば、プロレスとの距離が縮まって親しみを持たれる――食べものを巧みに使いこなすクレバーさもまた、「100年に1人の逸材」を名乗る根拠に思われる。
 じっさい、棚橋弘至から聞く食べものとの関係は、聞きしにまさる律儀なものだった。

つづきは書籍でお楽しみください

平松洋子
1958年生まれ。東京女子大学文理学部卒業。食と暮らし、文芸をテーマに幅広い執筆活動を繰り広げている。2006年『買えない味』でBunkamuraドゥマゴ文学賞、12年『野蛮な読書』で講談社エッセイ賞、21年『父のビスコ』で読売文学賞を受賞。『食べる私』『日本のすごい味 おいしさは進化する』『日本のすごい味 土地の記憶を食べる』『肉とすっぽん 日本ソウルミート紀行』など著書多数。

新潮社
2023年5月 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

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1896年(明治29年)創立。『斜陽』(太宰治)や『金閣寺』(三島由紀夫)、『さくらえび』(さくらももこ)、『1Q84』(村上春樹)、近年では『大家さんと僕』(矢部太郎)などのベストセラー作品を刊行している総合出版社。「新潮文庫の100冊」でお馴染みの新潮文庫や新潮新書、新潮クレスト・ブックス、とんぼの本などを刊行しているほか、「新潮」「芸術新潮」「週刊新潮」「ENGINE」「nicola」「月刊コミックバンチ」などの雑誌も手掛けている。

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