<書評>『遠きにありて、ウルは遅れるだろう』ペ・スア 著

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遠きにありて、ウルは遅れるだろう

『遠きにありて、ウルは遅れるだろう』

著者
ペ・スア [著]/斎藤 真理子 [訳]
出版社
白水社
ジャンル
文学/外国文学小説
ISBN
9784560090794
発売日
2023/01/23
価格
2,200円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

<書評>『遠きにありて、ウルは遅れるだろう』ペ・スア 著

[レビュアー] ひらりさ(文筆家)

◆記憶とイメージの奔流

 「タイパ」(タイムパフォーマンス)という俗語が人口に膾炙(かいしゃ)した昨今。大量の情報の中から、より役立つものを短時間で摂取するスキルを有能さと捉える風潮は、世界共通のはずだ。三十年以上のキャリアを持つ作家ペ・スアがこの小説を韓国で上梓(じょうし)したのは二〇一九年。そこに、ネオリベラリズムに飼い馴(な)らされて硬直した現代の時間感覚への挑戦を読み込むのは、恣意(しい)に過ぎるだろうか。

 収録された三編に個別のタイトルはなく、時系列も不明だ。共通するのは、主体が「ウル」という名前の女であること。一編目では、旅館で記憶を失って目覚めた「私」と同行者が、巫女(みこ)のもとを訪ね、「私」はウルという名前だと教えられる。二編目では、「女」が客人を料理でもてなし、子供の頃興じた演劇の思い出を語り出すなかで、彼女の名前もウルだと明かされる。「ウルは見る目だ」から始まる三編目では、幼い頃視力を失ったウルが感じとる/記憶する世界が描写される。

 真っ赤なワンピース、緑のコート、アンズタケのバター炒め、草に隠れたコヨーテ、演劇をする子供たち、見知らぬカップルからの結婚式の招待、海沿いを走る黒い犬の影、<はじまりの女>。変奏され繰り返される膨大なモチーフからなる本作は、もはやひとつの詩に近い。ペ・スアの、(そしてそれを日本語で紡ぎ直した訳者・斎藤真理子の)たぐいまれなる文学的音感からなる唯一無二の配列は、一語も読みこぼせない。襲いくるイメージの奔流を早急に咀嚼(そしゃく)しようとせず、受け止め、読み進め、立ち止まり、読み戻り……。記憶と色彩の洪水にじっくりと身を委ねるうちに、全身の細胞が入れ替わるような清々(すがすが)しさが訪れる。

 「まるでこの世に初めて生まれた日のように、私は疲れに疲れ果てていた。私は進みつづけた。青い塀の上に横たわり、波の音と私の同行者が本を読む声を聞いた」

 映画を倍速で見るあなたに、「試し読み」しないと本が買えないあなたに、疲れていても満員電車に乗り込むあなたに、どうか手に取ってほしい。

(斎藤真理子訳、白水社・2200円)

1965年、ソウル生まれ。作家、翻訳家。本作が初の邦訳作。

◆もう1冊

『断絶』リン・マー著(藤井光訳、白水社)。時間と労働に追われる現代人を風刺する小説。

中日新聞 東京新聞
2023年5月7日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

中日新聞 東京新聞

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