“人間・大塩平八郎”の心の内側を描く慟哭の一巻
[レビュアー] 縄田一男(文芸評論家)
大塩平八郎といえば、戦前に書かれた佐々木味津三の『風雲天満双紙』を筆頭に、これまでにも数多くの作家が作品化している。
しかし、その人物の評価軸は実に振り幅が大きい。すなわち公儀の治政を正し民の困窮を救おうとした義人、世直し大明神としての像から、類焼町数百十三、被災家屋三千三百八十六軒、被災世帯数二万二千五百七十八家を数え、大坂の家屋の優に五分の一が灰燼に帰す乱を引き起こした元凶としての否定的なそれまである。
庶民のためにありあまる程の慈愛を持ちすぎ、病的なまでに清廉潔白、他者に厳しく自分にはもっと厳しい大塩という男は、思えば、徳川時代の終わりの始まりが生み出した異形の者といえるかもしれない。
これまで大塩を描く場合はどちらかの評価がとられていたが、伊東潤は詳細なまでに“人間・大塩平八郎”のすべてを書き込み、おそらくは、その両者が矛盾なく躍動する人物として書き上げた。
これは初めてのことであると言っていい。
したがって作品はラストの蜂起の場面ばかりをクローズ・アップすることなく、そこに至る経緯、すなわち同心・坂本鉉之助との友情、頼山陽との交誼などを経て、やがて心の内に訪れる〈太(たい)虚(きょ)〉が描き込まれている。それは無垢にして清澄なる心の状態のことで、その状態を保つことが出来れば正邪善悪が識別し得るという。この太虚の境地も本書の見所だ。その二文字が登場するのが二十四頁。そして最終章は「心太虚に帰す」であり、作品は見事なまでに首尾一貫性がとれている。
平八郎は作品の半ばで、やむなく妻と離縁しなければならなくなるが、後半での二人の再会は思わず落涙を禁じ得ない。
読み終わって自然と襟を正す気持ちになるのは、私だけではないだろう。慟哭の一巻である。