13億円は私のもの? 気づけば大騒ぎの中心に! 今も色あせない傑作ミステリ 久生十蘭『あなたも私も』試し読み

試し読み

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売れないファッション・モデルとして貧乏生活を送るサト子。実は自らも知らぬ間に、時価13億円の鉱業権の相続人に指定されていた! あれよあれよという間にサト子は、一攫千金のにおいをかぎつけた実業家や弁護士らに囲まれることに。莫大な資産はいったい誰の手にわたるのか、肝心の鉱山の実体は――。小説の魔術師・久生十蘭が、大きな運命に翻弄される女性の生を鮮やかに描く。今も色あせない傑作ミステリ。

マスキングテープブランド「mt」とのコラボカバーが目印の本書より、冒頭部分を特別公開いたします。

 ***

クラゲの海

 夏は終ったが、まだ秋ではない、その間ぐらいの季節……

沖波が立ち、海はクラゲの花園になっている。渚(なぎさ)に犬がいる。子供がいる。漁師が大きな魚籃(ぎょらん)をかついで、波うちぎわを歩いている。

 秋波のうちかえす鎌倉の海は、房州あたりの鰯(いわし)くさい漁村の風景と、すこしもちがわない。

 飯島の端(はな)にある叔母(おば)の家の広縁からながめると、むこう、稲村ケ崎の切通しの下までつづく長い渚には、暑い東京で、汗みずくになって働きながら夢想していたような、花やかなものは、なにひとつ残っていない。

 愛憎(あいそ)をつかして、サト子は、ぶつぶつひとりごとを言った。

「風景だけの風景って、なんて退屈なんだろう」

 ことしの夏こそは、この海岸でなにかすばらしいことが起るはずだったのに、叔母にはぐらかされて、チャンスを逃してしまった。

 鎌倉に呼んでもらいたいばかりに、春の終りごろから、いくども愛嬌(あいきょう)のある手紙を書いたが、今年はお客さまですから、とお断りをいただいた。

 この家をまるごと、ひと夏、七万円とか十万円とかで貸していたので、お客さまうんぬんは、お体裁にすぎない。

 あきらめていたら、夏の終りになって、迎いがあった。

「これからだって、面白いことは、あるにはあるのよ。いいだけ遊んでいらっしゃい」

 思わせぶりなことを言い、留守番にした気で、じぶんは、こけしちゃんという、チビの女中を連れて熱海か湯河原かへ遊びに行ってしまった。

 なにをして、どう遊べというのか。犬と漁師の子供では、話にならない。土用波くらいは平気だが、海いちめんのクラゲでは、足を入れる気にもなれない。

 こんなことなら荻窪の家に居て、牛車で野菜を売りにくる坂田青年でも、待っているほうがよかった。色は黒いが、いい声で稗搗節(ひえつきぶし)をうたう。

「おれァ、お嬢さん、好きだよ」

 などと、手放しでお愛想を言ってくれる。

「泣いて待つより……」

 退屈にうかされて、サト子は、稗搗節をうたいだした。

「枯葉」などという、しゃれたシャンソンも知らないわけではないけれど、稗搗節のほうが、今日の気分にピッタリする。

「野に出ておじゃれよ

 野には野菊の花ざかりよ……」

 調子づいてうたいまくっていると、地境の生垣(いけがき)の間から大きな目が覗(のぞ)いた。

久生 十蘭(ひさお じゅうらん)
1902年北海道函館市生まれ。本名、阿部正雄。1952年『鈴木主水』で第26回直木賞を受賞。推理小説、ユーモア小説、歴史小説などその作品の幅は広く、「小説の魔術師」「多面体作家」の異名を持つ。代表作に、「湖畔」「黒い手帳」「ハムレット」「無月物語」「母子像」など多数。『キャラコさん』『肌色の月』など映画・ドラマ化作品も多い。1957年没。

KADOKAWA カドブン
2023年7月21日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

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