世に多くの名言を残した大家が人間の在り方を描いた名作  武者小路実篤『馬鹿一』試し読み

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「この世は美しいものでいっぱいなので、醜いものをみる暇はない」――他人に馬鹿にされながらも、なんの変哲もない石や草を描き続ける画家・馬鹿一。決して上手とは言えないが、自然を愛する素直な人柄が表れる彼の絵は、不思議と周囲の眼を引きつける――。時代を超えて読み継がれる武者小路実篤の代表作『真理先生』の登場人物が織りなす、明るい知恵と人間愛に満ちた名作短篇集。
 
人気てぬぐい専門店「かまわぬ」とのコラボカバーが目印の本書より、冒頭部分を特別公開いたします。

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ある島の話

 これは山谷五兵衛の話、五兵衛の話を僕は信用しているわけではない。五兵衛は平気で 嘘(うそ)をつく男である。その五兵衛が法螺(ほら)吹きの友だちに聞いた話だというから嘘が二乗されているわけだ。ところがこれをかく僕も覚えのいい方ではない、忘れたところは自分の想像で見たようにしゃべる。だからこの話には嘘が三乗されているわけで、相当でたらめな話であることは、読む人は覚悟してもらいたいのである。しかしいい齢(とし)をしている僕が、なぜそんな嘘とわかっている話をかくかというと、嘘から出た誠という話がある。少し意味のとりちがいかもしれないが、この話にも、千に一つは誠があると思っている。その誠が他の話にはないものではないかと、思うのでかいてみるわけである。愛読していただけると幸いである。

私がある島を訪(たず)ねたのは、秋のまっ盛り、その島の木々が、紅葉しているまっ盛りでした。私は三年つづけて、山の秋を見ました。一昨年は北海道北見の国の阿寒湖(あかんこ)、去年は秋田の十和田湖、今年は信州の上高地、日本の秋の紅葉を賞美するにはいずれ劣らぬ処で、私はそれらを見られたことを幸福に思いました。このある島の秋はまたひとしおでありました。

 もちろん、阿寒湖のような原生林の雄大さはありませんでした。また十和田のように変化の富んだ美しさもありませんし、上高地の秋のように、山々にかこまれた高原的な壮大さもありません。しかし背景に海というこれはまた無限な広がりをもった処に、人工的に美しく紅葉する木々を実に美しく配置されている処は、ちょっとこんな処が地上にあるかと思われる美しさで、さすがに先祖代々島の王様といわれている人が住んでいるだけの処と思われました。

 この島がどこにあるかということは、秘密にすることをその島の王様に約束しましたから、お話しできないのは残念です。物好きな見物人がくることを極端に嫌(きら)っているので、私もこの島が、俗人どもに荒らされるのを喜ばないので、おしゃべりな君にはお話しできないのです。

武者小路 実篤(むしゃこうじ さねあつ)
東京・麹町生れ。子爵家の末子。1910(明治43)年、志賀直哉らと「白樺」を創刊、「文壇の天窓」を開け放ったと称された。1918(大正7)年、宮崎県で「新しき村」のユートピア運動を実践、『幸福者』『友情』『人間万歳』等を著す。昭和初期には『井原西鶴』はじめ伝記を多作、欧米歴遊を機に美術論を執筆、自らも画を描きはじめる。戦後、一時公職追放となるが、『真理先生』で復帰後は、悠々たる脱俗の境地を貫いた。1951(昭和26)年、文化勲章受章。

KADOKAWA カドブン
2023年7月 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

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