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- 月まで三キロ
- 価格:781円(税込)
ままならない人生を生きている普通の人たちを丁寧に描き、新田次郎文学賞を受賞、ベストセラーにもなった伊与原新の短編集『月まで三キロ』。
すべてを失い死に場所を探してタクシーに乗った男に、運転手が「知ってました?」と語り出す、表題作の「月まで三キロ」。真面目な主婦が一眼レフを手に家出した理由が徐々に明らかになる「山を刻む」。出会いを求めず仕事に邁進していたら39歳になっていた女性と、2歳下の男性との出会いを描く「星六花」。どんな時も人の心を信じていたい、そう思わせてくれる6編の傑作が詰まった短編集です。
本作の第2編「星六花」から、一部を特別に公開いたします。
***
「この傘は、しばらく持っていてくださって結構ですから」奥平さんは、半ば押し付けるように傘を握らせてくる。「そうだな……クリスマスぐらいまで」
「クリスマス?」
「ええ」奥平さんは腕時計に目を落とし、眉を持ち上げる。「やばい、もう終電だ。なんせ、隅田川の向こうまで帰らないといけないんで」
「あ、早く行ってください」慌(あわ)てて言った。
「すみません。遅いので、お気をつけて」地下への階段に向かおうとした奥平さんが、振り返った。「富田さん、ツイッターやってますか?」
「一応、アカウントはありますけど……」もう何年も書き込んでいない。
「よかったら、僕のツイッターも見てみてください。たまに雲の写真とかアップしてますから。本名でやってるんで、検索していただければ。じゃあ、また」
奥平さんは早口で言いながら、地下へと消えていく。わたしは折りたたみ傘を胸に抱き、「はい、また――」と会釈を返すことしかできなかった。
ふわふわした気持ちでいられたのは、渋谷で井の頭線に乗り換えるまでだった。
金曜の夜だ。混み合う車内を座席のほうまで進み、すき間を見つけてつり革につかまった。電車が動き出した途端、現実に引き戻される。自分の姿が窓ガラスに映ったからだ。
来年四十になる、やせっぽちの女。かわいい顔もしていないし、若々しくもない。服装にはそれなりに気を使っているが、オシャレとはとてもいえない。ダサい、オバさんくさい、と同僚から思われないように頑張っているだけだ。
奥平さんは三十七だと聞いている。二つ年下。公務員で、感じもいい。そんな男性が四十路(よそじ)目前の女をわざわざ結婚相手に選ぶ理由はない。
でも――。だったらなぜいそいそ食事会に出向いたの? 窓の中の自分に訊き返されて、心の中で自嘲(じちょう)する。
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1896年(明治29年)創立。『斜陽』(太宰治)や『金閣寺』(三島由紀夫)、『さくらえび』(さくらももこ)、『1Q84』(村上春樹)、近年では『大家さんと僕』(矢部太郎)などのベストセラー作品を刊行している総合出版社。「新潮文庫の100冊」でお馴染みの新潮文庫や新潮新書、新潮クレスト・ブックス、とんぼの本などを刊行しているほか、「週刊新潮」「新潮」「芸術新潮」「nicola」「ニコ☆プチ」「ENGINE」などの雑誌も手掛けている。
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