美への耽溺はなぜ破滅をもたらすのか? 高2で三島由紀夫の文学に触れた少年が書いた、新潮新人賞史上最年少受賞作 『海を覗く』試し読み

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 茨城の高校で陸上に打ち込んでいた少年がある日、日本近代文学の粋、三島由紀夫と出会った。

 三島と同じく美を文学で追求しようと、スマホで書き始めた小説で、第55回新潮新人賞を最年少の17歳で受賞したのが、2024年3月に刊行された伊良刹那さんの小説『海を覗く』(新潮社)だ。

 美への耽美と絶望の物語が大きな話題となった本作より、高校2年生で美術部の速水圭一が、美しさに魅了され、肖像画を描き始めることになる美少年・北条司と出会う冒頭部を試し読みとして紹介する。

 ***

 海を見た人間が死を夢想するように、速水圭一(はやみけいいち)は北条司(ほうじょうつかさ)に美を思い描いた。二人が交流を深めたのは高校二年生の春のことだった。始業式直後に隣の席に座った男の横顔の精緻さを、速水ははっきりと記憶している。秀(ひい)でた額と一直線に筋が通り先の尖った鼻。控えめな唇の艶やかな赤が白い肌に浮かんでいた。その横顔は速水の知る中で最も人間から遠い美、最も単純な美だった。人間というより、人間の形をした石像のようだった。そんな単純な美貌が速水に絵画を眺めるときのような恍惚(こうこつ)を与えたが、彼は美術部の一人で芸術を知っていたから、その美に介入することの愚かさも知っていた。それは広く雄大な海がたった一滴の血液で、その青さを損なうような、失意にも似た感覚だ。美は自己や客体といった要素が一度でも介在すると一瞬にして瓦解し、二度と美として顕現(けんげん)しないと速水は信じていた。たとえその要素がどれほど高尚な美徳でも悪徳でも、久遠(くおん)の美に立ち入ったその瞬間にそれらは夾雑物(きょうざつぶつ)であり、瑕瑾(かきん)にしかならない。透き通り静謐で独立不羈(どくりつふき)な美。自己の主張も他者の主張も意に介さない無関心の美徳。そのような本人すら自覚しない北条の人を魅了する本質を、速水は初対面でその見目形(みめかたち)から的確に読み取っていた。その美の瓦解を許したくないがゆえに、最初のうちは眺めるに留め、それほどの交流もなかった。
 当然、それほどの美貌が校内で注目されないわけもなく、速水も北条の存在を入学当初から認知していた。北条自身はというと、他人からの視線や情念を憂(うれ)えていたというより、それらの熱意にまるで関心がなかった。そしてそれを恥じることもなかった。北条はその人間的感情の不足から、人から好かれようとも嫌われようとも泰然自若の態(てい)をまるで崩さず、それがかえって、彼の透明な輪郭をよりはっきり、もしくはより曖昧(あいまい)にした。北条の関心は感情にもそれを内包する人そのものにもなかったのだ。熱意や陶酔からは全く離れたところに北条はいた。色白の肌と冷ややかで疲れを帯びた眼差(まなざし)は、北条の観念が肉体に作用していたというより他にない。まるで海のような男である。いかに身を捧げてもその深さには拒まれ、幽玄で無量の潮水が流水と静水で常に入り乱れているように、一貫性がないという点のみが一貫している。そして、滄海(そうかい)に血液が一滴とて滴(したた)ることを許さない。自身の静寂さを無自覚ながらに理解した堅牢(けんろう)な檻の中に住みながら、不自由など一切感じさせない姿を保つのだった。
 だが北条はまるで感情の欠落した人間ではない。あらゆることに無関心であり、無関心にすら縛られない人間であるから、速水が彼に感じる芸術性などは彼にとっては存在の有無すら疑われた。疲れた眼差のまま笑ってみせたり、色白の肌を日の下に晒しながら体育の授業を受けたりすることもあった。その微妙な矛盾が北条のアンニュイをより巧妙にした。その一面によって北条のほうから隣席の速水に話しかけたのは、いたって自然な流れといえるだろう。
「速水って海好き?」
 速水は口下手な男ではないが、この質問には動揺し、やや口籠(くちごも)った。速水は芸術家としての自負はあったが、自分が天才でないことを理解していた。表現は些(いささ)か凡庸さを抜け出してはいたが、感性は平均的であった。それゆえ、初対面の人間との会話は当たり障りのない、言葉の浪費としかなりえない、会話と呼ぶにはあまりにも粗末な代物であるのが常だったのだが、それとは対照的に北条の質問は人に性癖を問うようなものであった。速水にとって海はあらゆる生命の根幹であり、あらゆる官能の根幹であった。その好みの答えはまさに、人間が社会で生きる以上はみ出すことの許されない白線が何処に引かれているのかに対する答えと同義だった。
「す、好きだけど。どうして?」
「そっか。俺も」
 どうして、の部分にすぐには答えないところに、北条の無邪気な身勝手さが垣間見えた。
 だが、すぐに北条は続けた。
「美術室に飾ってた海の絵。速水圭一って名前も併せて記憶してたんだ。暗い海の美醜が写実された、いい絵だった」
 一年生の時に既にお互いの名前を認知していたことを知ると、速水は少し悦(えつ)に入った。それと同時に感嘆した。その海の絵は大したものではなく、何か大きなきっかけや感慨があって描いたわけでもなかった。確かに速水と海との距離の暗示も見られる絵だが、根本は構成とデッサンのための写生である。見たままの海、凡庸な自然である。速水は見たものを精緻に描くことに長(た)けていたが、犀利(さいり)な認識は常に外界に向けられ、内省的でありながら自分の感性を深く認識することのない仮面の性質によって、どれだけ美しい絵画も、そこに込められた発想より写生の精密さのほうが注目をあびるに相応(ふさわ)しい代物だった。だが北条は海という自然描写の透明すぎる抽象性と官能の中に、写実的な美醜を観たのだ。それはまさに行動の世界に生きる者にのみ許される視覚であった。行動を軽蔑する優美な本能と生きながら、北条は行動による物象(ぶっしょう)の輪郭すら知覚する。北条の表現が凡庸でありながら、その裏に鑑賞の才が潜んでいることに速水は気づき、慄(おのの)いた。何も考えずに眺めることこそが、鑑賞の最も幼稚な初歩であり、幼稚であるがゆえに最も枢要(すうよう)である。鑑賞による曲解を恐れず、ただ眺める子供のようなあどけない視線は、作者に媚びることも、他の鑑賞家に媚びることもしない。鑑賞に於(お)いて本質を見る権利はあっても義務などない。己(おのれ)が見たものと感じたものが全てで、意図も意味も、芸術は鑑賞する者に委(ゆだ)ねられて当然だ。なればこそ、己の認識と、その認識により形成された世界を脅かす第三者の認識との関係が、鑑賞の意義深さである。そのことを速水は熟知しており、それこそが北条との共通点でもあった。常に自分を規定するのは他者であると考え、自由の所有権は自分ではなく他人の手中にある。ただ一つの相違点は、速水はそれを愛すべき妥協と考え、北条はそれを意識すらしていなかったことである。
「ありがとう。北条くんに知ってもらえてるなんてうれしいよ」
「くん、はやめてくれ。北条でいい」
「じゃあ北条、君も海は好きか?」
「うん。でもどうだろう。海以外の自然にはあまり惹(ひ)かれないかな」
 海以外の自然に惹かれないという発言に速水は妙に合点がいった。北条は能動を嫌ったのだ。能動は意志であり、意志は関心である。無関心で透明で静寂な北条が、その性質を活かすには受動の世界に生きる他にないからこそ、文学や音楽はもちろん、自然という無理矢理押し寄せる美には惹かれないのだ。だが海は違った。その官能に全身が浸かろうと、海の全身を知ることはできないからである。動的でもあり静的でもあるという点では絵画も一致している。官能という美徳が北条には確かにあり、それがある種の共感であることを速水は悟った。だが北条は自身にも無関心のため、自身の想念が何処から滲(し)み出るものなのか知りえないし知ろうともしない。鑑賞に秀でた北条に一歩勝る分析に、速水はまた得意になり笑みが溢れた。
「そう。海は特別なんだな」
「うん。だから速水の絵、もっとみたい」
「別に俺は海の絵しか描かないわけじゃないよ」
「ハハ。それもそっか。でも気になるんだ。速水なら多分、海以外を描いても海の暗澹(あんたん)を描けると思うんだ。まあ端的に言うならファンなんだよ、お前の絵の」
 そこまで聞いて速水は少し怪訝(けげん)に北条を見た。美に介入することでその美しさが損なわれる恐怖が前提にあるとき、美から歩み寄ってきたのならそれは恐怖が這い寄ることと同じに思えた。だが速水はこの短時間で、会話すらせず名前と噂しか知らなかったときの夢想の北条と、現実の北条の差異なき事を感じた。どれだけ北条が俺に近づこうと、どれだけ親しくなろうと、彼の無関心が損なわれることはないだろう。俺の憧憬(しょうけい)、俺が久遠に眺めていたい美が損なわれることはないだろう。平行線は決して交わらないが、平行であることを保つために互いの視線は絶えず絡み合うのだ。
 その時、速水には悪魔的な発想が浮かんだ。この北条司という男の美の根幹、人を見透かしているのか、そもそも人の像を結ばないのか判別がつかないほど胡乱(うろん)なその眼差は、いったい俺にどこまで犯されるのだろうか、と。
 速水は芸術家であるから、認識の世界に生きることに慣れていた。ゆえに禁止と侵犯によるエロティシズム、汚穢(おわい)に身を滅ぼしかねない危険な美的領域に惹かれながらも、白線の内側で通過列車の残像を眺めるように、その一歩手前に佇(たたず)むことを至福としていた。だがもし一歩踏み出したなら。この男の持つ久遠の美を本当に久遠のものにできるのは俺しかいないんじゃないのか。そう考えると、口は思考を辷(すべ)り出させる役目のみを全(まっと)うし始めた。
「ファンって言ってくれるなら、少し頼まれてくれるか?」
「なに?」
「今までは抽象性を保ちながらも写実的な自然風景ばかり描いていたから、今度は人を描こうと思うんだ。前から北条のこと綺麗な顔してると思ってさ、描きたかったんだよ。話してまだ少ししか経っていないのにおこがましいけど、よければモデルになってほしい」
 自身がやっているのは北条の美を滅ぼしかねない行為だ。だがこの北条を描くことでしか、もはや芸術に価値はないと思えるほどに焦(こ)がれてしまったのだ。
「ああ。いいよ」
 上げた口角から白い歯がちらと見えた。速水は北条の返答より、雪のように白く、なだらかに並ぶ歯の一つ一つが、カーテン越しの日光と室内灯とに照らされ、透明な唾液によって赫奕(かくえき)とするさまに魅せられていた。
 この時既(すで)に、速水は恋に落ちていた。速水はあらゆる文学作品や詩集、芸術に触れることで恋を知っていた。だが優れた鑑賞家でない速水はそれらを普遍化することのみにとどまり、文学から見出した感情や法則を実感することはなかった。恋とはこういうものだ、と理解はできるが、自分にその痛みや情念を再現することはなかった。全ての感情は予見され、自分が感じる陶酔や情熱はそれに準(なぞら)えた予定調和だ、と速水は考えていた。己の感情の振れ幅を狭くするという反芸術的な行為を無意識に行う速水に、北条の気怠(けだる)い視線が絡んだのはある種必然であり、心の底で芸術や自然を優しく軽蔑する趣(おもむき)を持つ北条の夢想と根は同じであった。二人はあらゆる点で似ていたが、同じ根を共にしてもその花と葉はまるで異なるように、明確な違いがあった。その共感と違和感の綯(な)い交(ま)ぜによる感情を、速水が恋と自覚するのはまだ先のことである。

以上は本編の一部です。詳細・続きは書籍にて

伊良刹那
2005年生まれ。『海を覗く』で第55回新潮新人賞を受賞(受賞時17歳、史上最年少)。

新潮社
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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株式会社新潮社のご案内

1896年(明治29年)創立。『斜陽』(太宰治)や『金閣寺』(三島由紀夫)、『さくらえび』(さくらももこ)、『1Q84』(村上春樹)、近年では『大家さんと僕』(矢部太郎)などのベストセラー作品を刊行している総合出版社。「新潮文庫の100冊」でお馴染みの新潮文庫や新潮新書、新潮クレスト・ブックス、とんぼの本などを刊行しているほか、「週刊新潮」「新潮」「芸術新潮」「nicola」「ニコ☆プチ」「ENGINE」などの雑誌も手掛けている。

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