心臓を鷲掴みにされ、魂ごと持っていかれる究極のクライムノベル! 佐藤 究『テスカトリポカ』試し読み
試し読み
翌日、フリオは変わりはてた姿で見つかった。両目をえぐりだされ、舌は切断されていた。全裸で路上に転がされていたが、長い手足はすべて関節のつけ根から切り落とされていた。フリオはコヨーテ以外の密入国ブローカーを探した罰を受け、見せしめにされた。
こうしてルシアの兄は、十九年の生涯を終えた。
敵に顔を知られないように黒い目出し帽をかぶった警官たちが死体遺棄現場にやってきて、黄色い規制線を張り、写真を撮り、現場検証をすばやく終わらせた。規制線が外され、鑑識に回すフリオの死体が車で運び去られるまで、二十分もかからなかった。
アスファルトに染みついた血、砂埃(すなぼこり)の交ざった風、うなだれて歩いてきて血の臭いを嗅(か)ぐ肋骨(ろっこつ)の浮いた犬。
麻薬密売人(ナルコ)による虐殺は、避けがたい自然現象と呼べるまで日常に浸透していた。町の人々と同じように、ルシアもこう思っていた。もう誰も助けてくれないのだ、と。
泣き叫ぶ両親の代わりに、ルシアは葬儀の手配をし、遺品のうちで金に換えられる物はみんな売り払い、兄の余計な思い出は一つも残さないように努めた。
決断するならこれが最後のチャンスだ。ルシアはそう思った。ここで行動を起こさなければ、恐怖に身がすくむばかりで、一生この町を抜けだせない。
両親への置き手紙すら書かなかった。下手な証拠を残せば誤解が生まれ、麻薬密売人(ナルコ)に目をつけられる原因になる。だまって一人で消えるしかないのだ。彼女は誰にも伝えずに、ひっそりと寝室の十字架に口づけして、シナロア州クリアカンに別れを告げた。
兄とはちがって、コヨーテ以外の密入国ブローカーを探したりはしなかった。そもそも他人を頼らなかった。
国境の北、アメリカへ渡るのに麻薬密売人(ナルコ)へ金を払わなくてはならないのなら、はじめからアメリカに行かなければいい。
彼女は南をめざした。
十七歳のメキシコ人少女の冒険。
牛肉を運ぶトラックの荷台にまぎれこみ、毛布にくるまって木陰で眠り、知らない州の知らないバスに乗り、ひたすら南下する。やせこけた老人が乗る牛車よりもさらにのろまな農家のトラクターを呼び止めて、むりやり乗せてもらったこともあった。
相手がどんなにやさしげな笑顔を見せてこようと、信用しない。
彼女は故郷でそれを学んできた。たとえ老婆だろうが、身の危険を感じれば服の下に隠した小型の山刀(マチェーテ)で殺すつもりだった。
ナヤリット州、ハリスコ州、ミチョアカン州──いくつもの夜を乗り越えて、十七歳の少女は南下をつづけ、太平洋をのぞむゲレーロ州の港湾都市アカプルコにたどり着く。
まだ生きている。
潮風に吹かれながら、ルシアは呆然(ぼうぜん)と空を見上げた。犯されて喉(のど)を切り裂かれてもいないし、泥の色をした川をうつぶせになって漂ってもいない。信じられないが、一人でここまでやってきたのだ。
ルシアは十字を切り、グアダルーペの聖母(ヌエストラ・セニョーラ・デ・グアダルーペ)に祈りを捧(ささ)げた。それでも喜びはたいして湧(わ)いてこなかった。自分が何十歳も年老いてしまったような気がして、どこかあきらめに似た安堵(あんど)に包まれただけだった。
観光客でにぎわう九〇年代のアカプルコの光景が目にまぶしかった。クリアカンにくらべれば天国のような土地だった。
やがてこのアカプルコも麻薬密売人(ナルコ)の戦場となり、リゾートホテルから客が消え、毎晩のように殺人が起こるようになるが、それはまだもう少し先のことだった。
町の食堂(コメドール)に職を見つけたルシアは、支給された制服とエプロンを身につけて、テーブルに酒や料理を運んだ。ゆたかな黒髪に褐色の肌、黒曜石のように澄んだ大きな瞳をした少女はスペイン語しかできなかったが、すぐに世界中から来る観光客の人気者になった。アカプルコ滞在中に何度も店に現れる客もいた。デートに誘われて、チップ(プロピーナ)をほかの従業員より多くもらった。
食堂(コメドール)ではいつも明るく振る舞っていたが、ルシアの心は晴れなかった。これまであまりにも怖ろしい日々をすごしてきたせいで、心に穴が空いてしまい、何もかもがトンネルを抜けるようにその穴を通過していった。他人への警戒と、冷めきった視線を押し隠して、彼女は客に笑いかけた。
いらっしゃいませ(ブエナス・ノーチェス)、と言った。
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