心臓を鷲掴みにされ、魂ごと持っていかれる究極のクライムノベル! 佐藤 究『テスカトリポカ』試し読み
試し読み
暑い五月の午後、いかにも金まわりのよさそうな、身なりのいい白人の若者が食堂(コメドール)にやってきた。連れはいなかった。若者はミチェラーダを飲み、薄切りの牛フィレステーキ(カルネ・ア・ラ・タンピケーニャ)を黙々と切りわけていたが、ふとナイフとフォークを置いて、テーブルの隅にマッチ棒を並べはじめた。縦向きに三本、先端の薬剤の色は白だった。中央の一本だけ軸木を折ってあった。
並べられたマッチに気づいた瞬間、ルシアの顔は引きつった。何も気づかなかったふりをして、若者のグラスに水を注ぎ足し、厨房(ちゅうぼう)に引き下がった。いちばん仲のいい同僚のアレハンドラを呼び寄せて耳打ちした。「あのテーブルにいる奴、気をつけて」
「どうしたの?」
「声をかけられたり、名前を覚えられたりしないで」
「あいつ、何かふざけたこと言った?」ペルー出身のアレハンドラは眉(まゆ)をひそめた。
ルシアは固く口を結び、何も答えなかった。
ほどなくして白人の若者は食事を終え、静かに口をナプキンで拭(ふ)き、代金とチップ(プロピーナ)を置いて店を去った。警戒を解かずにいるルシアを尻目(しりめ)に、アレハンドラはつかつかとテーブルへ歩み寄り、ルシアに目くばせして代金とチップ(プロピーナ)を回収してきた。
戻ってきたアレハンドラは笑っていた。「もしかしてあのマッチ棒?」
今度はルシアが眉をひそめる番だった。アレハンドラも、あの意味を知っているのだろうか?
「引っかけようとしたってだめよ」アレハンドラはなおも笑いながら言った。「麻薬密売人(ナルコ)が来たってサインでしょ? 最近、あれ流行(はや)っているから」
言葉の出ないルシアのエプロンのポケットに、アレハンドラは紙幣をねじこんだ。「ほら、あんたのチップ(プロピーナ)よ」
食堂(コメドール)での勤務後、アレハンドラと夕食に出かけたルシアは、『掟(マンダミエント)』というタイトルの連続テレビドラマについて教えられた。
ハリウッド俳優も出演している人気シリーズで、物語の舞台はアカプルコ、主人公はカルテルの幹部をめざす若い麻薬密売人(ナルコ)だった。アレハンドラが言うには、マッチ棒を置くサインはドラマのなかの印象的な場面で何度も登場していた。いたずらなのか、自己満足なのか、いずれにしても白人の若者は、ドラマにかぶれて真似をしただけだった。
ルシアは食事をしながら、本気で怯(おび)えた自分をばからしく思った。だが声を出して笑うことはできず、自分が故郷で本物のマッチ棒のサインを目にして、その直後に起きた銃撃戦に友人が巻きこまれた話を、アレハンドラに打ち明けることもしなかった。
兄のことを思いだす。それと両親。神の教えに背いて自分は老いた父と母を見捨て、故郷を出てきた。でも、と彼女は考える。最初に神に逆らったのは誰? 兄をあんなふうに殺して平然と生きているのは? あいつらからコカインを買っているのは? テレビドラマ? 麻薬密売人(ナルコ)を気取った観光客? この世は救いようのない、巨大な冗談なんだわ。
ルシアがアカプルコで働くようになって一年がすぎた。仕事を終えたロッカールームで、アレハンドラに「もうすぐ店をやめる」と告げられた。ルシアのたった一人の友人は、勤務用に束ねた長い髪をほどき、頭を左右に振りながら言った。「ちょっとだけ故郷のペルーに帰って、つぎは日本(ハポン)で働くの」
思いがけない言葉だった。日本(ハポン)。名前くらいは知っているが、地図のどこにあるのかまではわからない。日本人観光客は食堂(コメドール)によくやってくるが、正直に言って中国人と見分けがつかなかった。
「短期滞在ビザで入国して、そのあいだにとにかく円を集めるのよ」とアレハンドラは言った。「日本の通貨は強いから。あんたたちみたいに隣にアメリカがある国民とちがって、ペルー人は日本へ出稼ぎに行く。トーキョー、カワサキ、ナゴヤ、オオサカ──」
ルシアにとって、それは驚くべき発想だった。そしてアレハンドラの言うとおり、たしかにメキシコ人は人生の転機がアメリカにしかないと考えがちだ。だから、命がけで国境を越えようとする。
「向こうで日本人と結婚できれば、もう言うことなしね」給仕の制服を脱いで下着一枚になったアレハンドラは、ロッカーのなかに腕を伸ばし、ハンガーにかけたオレンジ色のTシャツをつかんだ。「そうしたらずっと働ける」
「どこにあるの、日本って?」ルシアはまだ給仕の制服のままだった。袖(そで)のボタンすら外していなかった。
かぶったTシャツのなかでもがいていたアレハンドラは、いきおいよく頭を突きだすと答えた。
太平洋の端(アル・ボルデ・デル・パシフィコ)。
株式会社KADOKAWA「カドブン」のご案内
【カドブン】“新しい物語”に出会える場所がここにある。オリジナル連載・作家インタビュー・話題作のレビューや試し読みを毎日更新!話題作&ベストセラーの魅力を徹底紹介していきます。
関連ニュース
-
「第24回電撃小説大賞」大賞受賞作品が発売 全校生徒による異世界サバイバル
[リリース](ライトノベル)
2018/02/14 -
葉室麟『散り椿』が岡田准一主演で映画化 西島秀俊や麻生久美子など豪華キャスト
[映像化](歴史・時代小説)
2018/08/23 -
第64回現代歌人協会賞が決定 川島結佳子『感傷ストーブ』と佐佐木定綱『月を食う』が受賞
[文学賞・賞](日本の小説・詩集)
2020/06/23 -
浅田次郎の大好評新聞連載『流人道中記』単行本化でベストセラーに
[ニュース](日本の小説・詩集/ライトノベル/歴史・時代小説)
2020/03/21 -
戸田恵梨香×永野芽郁 映画「母性」に原作者の湊かなえ「物語の大切なところをすくい上げ、膨らませており安心した」期待を語る[文庫ベストセラー]
[ニュース](日本の小説・詩集/ライトノベル/歴史・時代小説)
2022/07/02