戦死した父、無知で疲れ果てた母…幼少期の「カミュ」に深く刻まれた貧困と窮乏の不条理とは?『NHK100分de名著ブックス アルベール・カミュ ペスト』試し読み
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- Book Bang編集部
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- (評論・文学研究)
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- NHK「100分de名著」ブックス アルベール・カミュ ペスト
- 価格:1,100円(税込)
2020年の春、新型コロナウイルスが世界で猛威をふるう最中に話題となり、世界的なベストセラーとなった小説がある。
アルベール・カミュ(1913~60)の『ペスト』だ。1940年代のアルジェリアの港町を舞台に、感染症のペストが蔓延して死者が相次ぐ。外部から遮断され閉塞する町の状況や、愛する人との離別、感染者数の増減に一喜一憂する市民たちなど、コロナ禍における状況と多数の共通項があり、日本では“まるで予言だ”と話題になった。
この世界的名著ともいえる作品を、予備知識がなくてもわかりやすく読み解くのが『NHK100分de名著ブックス アルベール・カミュ ペスト』だ。著者でフランス文学者の中条省平さん(学習院大学教授)は、カミュは自分の考える「不条理」という世界の条件をペストという災厄に象徴させたという。
そんなカミュ自身に降りかかった不条理や、反戦の思想を形作ったものは何だったのだろうか? 累計1000万部を超える大人気シリーズの同書より、第1章の一部を公開しよう。
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第1章 不条理の哲学
アルベール・カミュは一九一三年、フランス領アルジェリアのモンドヴィ(*1)という町で生まれました。その町の近郊のブドウ園で、フランスからの入植者の家系の出身で農場労働者だった父リュシアンが働いていたからです。その翌年、第一次世界大戦で本国に召集された父は、マルヌの戦い(*2)という激戦で戦死します。幼いカミュは四歳上の兄とともに、スペイン系の母カトリーヌに連れられ、海沿いの中心都市アルジェ(独立後の首都)の労働者街にある、スペイン領ミノルカ島(*3)出身の母方の祖母の住居で暮らします。
苦学した学生時代から、第二次世界大戦中の一九四〇年に二十六歳で植民地総督府による圧力によってジャーナリストの仕事を失うまで、カミュは前半生をアルジェの町で過ごしました。戦中、フランス本国に渡ってからも、一度故郷アルジェリアに戻って、『ペスト』の舞台となるオラン(*4)という港町で一年ほど暮らしています。
地中海人として、海と太陽の強いエネルギーを浴びて育ったことが、彼の文学的感受性に大きく影響していることは、「はじめに」で述べたとおりです。
自分にとって最も重要だったのは母(la mère)と海(la mer)である、とのちにカミュは語っています。これはフランス語の洒落(しゃれ)で、どちらも発音は「ラ・メール」なのです。詩人の三好達治(*5)も「海よ、僕らの使ふ文字では、お前の中に母がゐる。そして母よ、仏蘭西人の言葉では、あなたの中に海がある」(「郷愁」)と謳(うた)ったように、言語の違いを超えて、母と海を根源的に同じものと捉える考えには、日本人とも共通する感覚がありますね(漢字を発明したのは中国人ですが)。
『異邦人』の冒頭では、いきなり母の死が語られます。カミュは、自分にとって大切な母親の死で小説を始めることによって、主人公である語り手ムルソーの経験したつらさを強調したのではないでしょうか。読者の多くは、母の死にもかかわらず涙も流さず、恋人と戯れたり、フェルナンデル(*6)の喜劇映画を観に行ったりするところに衝撃を受けたわけですが、むしろカミュにとって母親を小説のなかで死なせることは、ある種の自己処罰的な意味あいがあったような気がします。それは自分が母親に何もしてやれなかったという罪悪感と結びついていたかもしれません。
耳が少し不自由で、発語に障害があり、読み書きもできない無知な母親は、商家などでの家政婦の仕事で疲れはて、家でも極端に寡黙でした。
一九六〇年、突然の自動車事故によってカミュが四十六歳の若さで亡くなったとき、愛用の鞄のなかに見つかった未完の遺作『最初の人間』(*7)は、みずからの少年時代をテーマにした小説でした。そこでは母親が強い愛着をもって描写されています。添えられた構想メモには、「もしこの本が最初から終わりまで母親に宛てて書かれたとすれば、理想的だ──そして最後になって読者が彼女は字が読めないことを知れば──そうだ、それこそ理想的なのだが」(大久保敏彦訳、新潮文庫)と記されていました。
生後まもない頃に戦争で父を失ったことも、カミュの人生と文学に大きな影響をあたえています。第一次世界大戦で父親が戦死したことで、彼は貧乏のどん底に叩きこまれたのでした。戦争はただの抽象的なイメージではなく、きわめて具体的な人生の条件としての悪でした。
『ペスト』で重要な意味をもつことになる一九三六年からのスペイン内戦(*8)も、母がスペイン系であり、自分もその血筋であることから、けっして他人事ではなく、むしろ母親の祖国の悲惨な出来事として身近に感じられたはずです。ヘミングウェイ(*9)のようにジャーナリストとしてのヒロイズムによって他国の戦争に関わる、というような事件ではなかったのです。
それらの戦争が、カミュの反戦と非暴力の思想を形成する大きな契機になったのはまちがいありません。戦争で父を失ったカミュは、アルジェの下町で、貧困と窮乏のなか幼少期を過ごしました。『ペスト』にこんなくだりが出てきます。
「僕は、このペストがあなたにとってどういうものなのかと思うのです」
「ええ」とリウーはいった。「果てしなき敗北です」(中略)
「そんなことを誰が教えてくれたんです、先生?」
答えはただちに返ってきた。
「貧乏ですよ」
リウーは医師であり、この小説の主人公です。リウーに作者本人をどこまで重ねてよいかという問題はあるのですが、カミュはここに自分自身の忘れがたい記憶をふと書きこんでしまったのではないかと思うのです。なぜなら、このくだりはあまりにも唐突に出てきて、かえって不自然に見えるからです。「敗北」は戦争を暗示すると解釈することもできますが、ここではカミュの人生のもっと根っこに近い経験を指しているのではないでしょうか。「貧乏」を通じて、人生が「果てしなき敗北」にほかならないことを、カミュは人生の初期に身をもって学んでいたのです。そして、その体験がカミュの文学を決定づける重要な要素だったということがここに反映している気がします。物語の読解とは別に、このように作者の実人生を窺わせるものがちらりと出てくる部分に気づくのも、小説を読む面白さのひとつだろうと思います。
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