ノーベル文学賞作家ガルシア=マルケスの代表作『百年の孤独』が文庫化されたことで大きな話題となっているが、難解な小説ということもあり、挫折する読者も多いという。
その難解な小説に大きな影響を受けたのが、2017年に『百年泥』で芥川賞を受賞した石井遊佳さんだ。
『百年の孤独』と出会ったことで、気づき手に入れたものとは?
※本稿は文芸誌「新潮」(2024年8月号)の特集「『百年の孤独』と出会い直す」に掲載されたエッセイです
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- 百年の孤独
- 価格:1,375円(税込)
後になればなるほど言い出しづらくなるので先に言ってしまうが、実は、この作品を通読したことは数えるほどしかない。
物語の中のとりわけ好きなくだりを含む数頁、あるいは当該章をくり返し読む。おいしいところだけをくり返し噛みたおす。
この局部くり返し読みの嗜癖を悪化させたのが、チェンナイでの日々だった。当時私は某IT企業で日本語を教える無能な教師、教室からよれよれになって戻るオフィスでの休憩時間、係の人が持ってきてくれるティー(南インドではチャーエと言わない)の湯気の中でわずかに人心地を取り戻し、デスクの上に常備してある何冊かの本の中から無作為に1冊を取り出してひらく。そのうちの1冊が『百年の孤独』だった。教室の苦役から解放され、魂を放つ5分ばかりの読書。このような状況にある者が、ブエンディア一族をめぐる錯綜したプロットを順序だてて追う忍耐力が持てなかったとしても責めてはならない。お気に入りのくだりとは例えば冒頭の数章。伝染性不眠症。メルキアデスが生き返ってホセ・アルカディオ・ブエンディアと再会するくだり。小町娘レメディオスの天衣無縫さ。マコンドにおびただしい「新発明の品々」がやってくる章。最終章。それらは、なぜ自分がチェンナイにいるのかどうしても思いだせない、へばりきった1人の日本人に5分間の忘却と慰安を与えたが、幾度となく徘徊したはずのその路地裏で、しばしば読んだ覚えのない一文や言い回しに出会うのだった。自分にとって無二の作品とは、何十回、何百回となく出会い直しを経験できる作品だ。とはいえ今回、久しぶりに全篇を通読したところ随所に見逃せないくだりを再発見、すでに付箋だらけの「百年の孤独」に新たに大量の付箋が貼られた。
「百年の孤独」が広大無辺の懐を持ち、さまざまなレベルで深読みのできる〈脱線上等〉の物語だということはわざわざここで念を押すまでもない。それをいいことに思いを致せば、〈孤独〉に関し、私の中に長くとどまって離れないある印象にたどりつく。
子どものころ私は、ごくシンプルにこの世界は嘘で、これとは別に〈ほんとうの世界〉があることを前提に生きていた。その世界で不如意なことは何ひとつなく、願っただけでたちどころにほしいものが手に入る。そのため私は、その世界に行ったとき願うのを忘れないように、ほしいものを思いつくと片っ端からその商品名を紙に書きつけた。大人が思いつくような、美貌や聡明さや名声などではない、子どもの欲望の対象はおおむね「モノ」だ。周囲の事物と自身との区別が希薄な子どもの物欲は、大人のそれとは格別かつ強烈である。
その世界のことを、私は誰かにしゃべったらしい。その誰かが告げ口したのだろう、あるとき下校途中の私の前に突然、あまり話したこともない、いかにも勝ち気な感じの一人の女子が立ちはだかり、
「あんた魔法使えるねんて? 何でも思い通りに、好きなもん出せるねんて? そんならここに何か出してみい! 今すぐ出してみいや!」
憤然と右掌を私の目の前に突き出したのである。
彼女の後ろには何人かの女子がいて、困ったような笑みをうかべこちらを見ている。おそらくその中の一人に対して私が語ったのは〈ほんとうの世界〉の魔術的性格だったはずで、ここで出せというのは筋違いであるが「出してみい」の子にとってはどちらでも同じことだったろう、その子は私の発言の「非常識さ」を糾弾したのだった。私は、山菜採りの途中でクマに遭遇した人のように、相手の目を見ながら騒がずじりじりと後ずさりしていった。
矛盾を知らない幼児の心は、自己と幻想〔イリュージョン〕が渾然一体となった神話状態と言いうるが、右の一件は小学校中学年ごろの事とおぼしく、幼児的心性を強固に保ち続けている子とそうでない子との個体差のはなはだしさがこのエピソードから了解される。私の中の〈神話的現実〉が表現を得るためには、一定の手続きが必要であって、休み時間の教室やトイレで友だちにそれを〈ふつうのこと〉みたいに話したりするから怒られるのだ。それから幾星霜、ようやく「百年の孤独」にたどり着いた私は「こんなん、ありなんや」とつぶやく。
かくして「モノ」と「コト」を中心とした、簡潔でユーモアあふれる文体、常軌を逸した出来事を〈ふつうのこと〉みたいに語るスタイルが、私の理想かつ標準となった。
「出してみい」というミもフタもない右掌によって、あのとき私に刻印されたもの、それは人間の〈根源的孤独〉だった。その〈孤独〉こそ幼児期より続く神話的心性のしからしめるところであり、大人になった後、例えば「百年の孤独」の如き無二の小説と出会い、何百回となく出会い直すための物語的想像力の培地に他ならない。誰も奪うことのできない、人間の心の自由。それはそのままチェンナイのオフィスのデスクで、ティーのカップを手に五分間だけ「百年の孤独」に魂を放つ情けない日本語教師の背中と打ち重なるのである。
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