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- ミスター・チームリーダー
- 価格:1,650円(税込)
「前代未聞の筋トレ小説」として『我が友、スミス』で鮮烈なデビューを果たして以来、文芸界の注目を集める石田夏穂さんの最新刊『ミスター・チームリーダー』。
本作の主人公は、大手リース会社に係長として勤めるかたわら、ボディビル大会の上位入賞を目指す男・後藤。後藤はある日、社内の人材の無駄に切り込み組織の代謝を上げると、己の身体も仕上がることに気づき、チームの脂肪除去に驀進(ばくしん)し始めます。
今回は試し読みとして、冒頭部分を公開します。
***
後藤は毎朝だいたい午前五時に起きる。最近だと午前四時には空腹で目が覚めていて、腹をさすりながら起きようかと迷っている。二週間前だったら起きていただろうが、このところは横になったままのことが多い。
日課として、後藤は起きるとまずトイレに行く。それから即座に体重計に乗る。この起き抜け体重の数値だったら、嫌でも過去三十日分くらいは頭に入っている。
昨日の朝は、八十二・二キロだった。一昨日の朝も八十二・二だ。目が覚めた瞬間、あるいはそれよりも前から、後藤は体重のことを意識している。
横たわりながら、自分の下腹に(まずいな)と思う。いままったく尿意がないのだ。朝一でドカンと排尿しないと、それだけ朝の体重は重くなる。後藤は先々月から減量期(オン)に入り、水なら毎日五リットルは飲んでいた。あれだけ欠かさず水分補給をしているのに、起き抜けの排尿が乏しいのは、いったいなぜだ。
後藤は、トイレに行くのが怖くなった。これではきっと溜息のような排尿しかない。五〇cc? 二〇cc? いまの膀胱にある微かな緊張から、尿の量を推し量ろうとする。
減量でこんなに苦戦するのは、初めてだ。いままでも思うように体重が減らないことはあったが、それなりの工夫と努力をすれば、いつも乗り越えられてきた。それもゾッとしたことに、今日から八月だ。今年はどうしてこうも思い通りにならないのだろう。
午前五時まで、まだ一時間ある。後藤はじっと目を閉じて尿意を待った。自分が最後におねしょしたのは、いったいいつだったか。あれだけ一気に出せてしまえたらと、昔の自分が少し羨ましくなった。
午前七時に、会社の門をくぐった。朝から全身汗だくである。大会まで残り二か月はあるが、このままでは目標体重に届かない。今朝はやむなく四十分も歩いた。
エントランスの脇に設けられた更衣室に入ると、後藤と似たような朝活直後の従業員たちが、そこかしこで身支度を整えていた。後藤は大手のリース屋に勤めている。本社は日本橋のド真ん中にあって、それこそ朝から有酸素運動するなど、意識高めの人間が多かった。
「お、珍しいね!」
後藤がシャワー室に入ろうとすると、知り合いの社員が声を掛けてきた。
「え、後藤クンも遂に走るようになったの?」
興味津々に訊ねる。この鈴木という先輩社員は、会社にある陸上部のエースだ。後藤が入社したときからそうで、要するにガチの市民ランナーであるが、今朝もいったい何キロ走ったのか、「(株)レンタール 陸上部」のオレンジ色のユニフォームを、恥ずかし気もなく汗まみれにしている。
「前に筋肉が落ちるから絶対に走らないって言ってなかった?」
この身体は体脂肪率、推定十二パーセント。枝のような腕と、鳥のような脚と、電柱のような胴体が目の前にある。細いながらも太い血管が走っている点は、いかにも長距離走者(ランナー)という感じだった。
「いえ、ちょっと歩いてるだけです」
「もうコレはやめたの?」
鈴木はマスキュラーのポーズをした。両腕を胸の前で内側に曲げる、モスト・マスキュラーと呼ばれるものだ。「コレ」とはすなわちボディビルで、後藤の経験上、ボディビルを表すジェスチャーとして、フロント・ダブル・バイセップスをする者が全体の八割。このようにモスト・マスキュラーをする者が残りの二割。この人は後藤が「選手」であることを知っていた。
「いや、やめてないです」
「じゃあ何で歩いてるの」
「再来月に大会があるんですけど、なかなか思うように絞れなくて」
思わず自分の腹を掴む。
「停滞期っていうんですかね。何だか身体が浮腫(むく)んでる感じで」
「もっと水を飲んだら?」
「うーん、そうですね……」
大会の二か月前にしては、ずいぶん掴める皮下脂肪が多い。後藤は朝っぱらから打ちひしがれる思いだった。
「でも後藤クン、すごくいい身体してるじゃん。まあ趣味なんだし、気楽にやったら?」
俺みたいに、とばかりにアクエリアスを呷る。その半透明の濁った色合いに、後藤は反射的に目を逸せた。俺は絶対にアクエリアスは飲まない! 減量期(オン)であっても増量期(オフ)であっても、スポーツドリンクの類は決して飲まない。
「……三時間は切りましたか」
ようやくジャージの上下を脱ぎながら、後藤は久し振りに訊ねてみた。鈴木のフルマラソンのベストタイムは、確か「三時間と二十分」だ。かねがね鈴木にタイムを訊くのは、半分は挨拶のようなものだった。
「それがさ、この前の仙台のレースで、三時間と十七分だったよ!」
鈴木は少年のように目を輝かせると、その何とかマラソンの話を始めた。後藤はふんふんと耳を傾けながら、次第に(いいなあ)と思えてきた。こういう市民ランナーに順位はない。あるのは唯一、タイムなのだろう。「自分との戦い」とか何とか言って、ぞんがい隣にいる生身の人間とは勝負しないのだ。
「三分ちぢめるのに三年かかった」
ハハハと、屈託ない。後藤は(自分の競技は違う)と思った。ボディビルではほんらい順位をつけられないものに順位をつける。そのために必ず隣の選手と比較される。ボディビルも「自分との戦い」とはよく言われるが、後藤は決して、そうは思わなかった。それは、どこまでも他人との戦いだ。自分だけでは完結しない、未知の他人との戦いだ。
後藤は今年で大会八年目の、そこそこ中堅の選手だった。選手登録しているのはJBBC(Japan BodyBuilding Competition)で、数あるボディコン団体の中で、最も硬派な部類とされる。刺青は禁止、スプレータンニングも禁止、もちろんステロイドの使用も禁止。ステージでの演出もたいへん地味なもので「やアアアまだアアア……たろおオオオ!」と、MCが絶叫しながら選手がステージに立つ他団体とは違い、JBBCでは病院の待合室のように「38番」と、ドライに呼ばれる。仮に名前を呼ばれることがあるとすれば、表彰台に立つときくらいだ。
本当は、後藤は有酸素運動などしない。過度に歩いたり走ったりすると、それだけ脂肪は分解されるが、同じだけ筋肉も分解される。もともと代謝は非常にいいほうで、いままで食べる量を調整することで、結果を残してきた。
更衣室を出ると、階段のほうに行きかけたが、いまの執務室は十五階だったと思い出す。踵を返してエレベーターのほうに行くと、そこには五人の人がいた。その六人目になろうとしながら、後藤の頭は、こんなことを思った。この五人は、程度の差こそあれ、おのおのデブだなあと。デブが雁首そろえて同じエレベーターを待っている。鈴木のランナーボディを見たあとだったから、余計にそう思われた。
後藤の脚は、階段のほうに向き直った。考えてみれば地上十五階など、普段の脚トレにすればウォームアップにもならない。一階あたり二十段として、たかだか三百ステップだろ? そうして静々と階段を上りながら、後藤は、何だかイライラしている自分に気づいた。目下、体脂肪率十パーセントの自分が、こうして階段を使っているのだから、あのデブたちもそうするべきじゃないかと思ったのだ。
執務室には、まだ誰もいなかった。後藤は自分の机にある異物に気づいた。それは、ちんすこうとサーターアンダギーだ。誰かが沖縄に行ったらしい。
ギョッと、一歩ひき下がった。いったい誰だ、こんなものを置いたのは。ちんすこうとは「小麦粉、砂糖、ラードを練り固めた焼き菓子」だ。サーターアンダギーとは「小麦粉、卵、砂糖を練り固めた揚げ菓子」だ。いまは絶対にこんなもの食えない。
後藤は先の七月から「建設資機材課 第2」の係長だった。同課は各地の建設現場に、クレーンだの敷鉄板だの発電機(ジェネレーター)だの、分電盤だのフォークリフトだの排水ポンプだの、とにかく必要なものを何でも貸し出す部門だ。前任者の退職によって入社九年目で抜擢されたのだから、早いと言えば早いほうだった。それまでは「第3」と「第4」を渡り歩いて、ずっと執務室は三階だった。三階はこことは違い殺伐としていて、こういうお土産の類はまずなかった。
そうだ、昨日の午後は外勤だったから、その間に置かれてしまったのだろう。食べたら絶対にうまいものたちを前に、後藤は意地でもそれらを見ないようにした。減量はかなりストイックにやるが、後藤だって人並みに甘いものは好きだ。脳が、それを食べたいと思う前に。否、脳がそれを食べ物だと認識する前に! 後藤はそっぽを向いたまま菓子を掴むと、それらを斜め向かいの大島の席に滑らせた。そうして誰もいないのに背後を振り返り、万引きでもしたかのような心地だった。
あー、やれやれと、ひとまず給水する。会社員でよかったと思える数少ないことのひとつに、水が飲み放題というのがある。ものは安っちいウォーターサーバーであるが、冷水のみならずお湯も出る。後藤は滅多に冷水は飲まない。無暗に身体を冷やしてしまうから。なので、夏の盛りであっても、必ず冷水とお湯を半分ずつに割る。
今朝の体重は、八十一・九キロ。後藤はズズズとお白湯を飲んだ。あと二か月弱で、七キロを落とさねばならない。さもないと、自分はステージに立てない。
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1896年(明治29年)創立。『斜陽』(太宰治)や『金閣寺』(三島由紀夫)、『さくらえび』(さくらももこ)、『1Q84』(村上春樹)、近年では『大家さんと僕』(矢部太郎)などのベストセラー作品を刊行している総合出版社。「新潮文庫の100冊」でお馴染みの新潮文庫や新潮新書、新潮クレスト・ブックス、とんぼの本などを刊行しているほか、「週刊新潮」「新潮」「芸術新潮」「nicola」「ニコ☆プチ」「ENGINE」などの雑誌も手掛けている。
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