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- パスタぎらい
- 価格:858円(税込)
イタリアに暮らし始めて35年超の著者・ヤマザキマリさんは、日本滞在中、イタリア料理店での会食に誘われることが多い。
ただ、そこでいろいろな違和感を覚えるのだという。
そんなヤマザキさんが作る、原価30円程度という、絶品の「貧乏パスタ」とは――。
人気漫画家による、食文化エッセイ『パスタぎらい』より一部を抜粋してお伝えします。
I 貧乏パスタ
十七歳でイタリアに暮らし始めてから今年(二〇一九年)で三十五年。他の国に滞在していた期間も短くはないが、何よりイタリア人の家族を持っているというバックグラウンドのため、私はイタリア料理に詳しい人、イタリア料理に対する嗜好性が高い人と日本では思われている。
「毎日イタリア料理を食べられるなんていいですね。羨ましい」などと言われると、どうもそのままやり過ごせなくなり、「じゃあ、あなたもやってみて下さいよ。長く持って二週間くらいだから」と毒気混じりの返答を口にせずにはいられなくなってしまう。
中には、私との会食は「イタリアン必須」と考えてしまう人もいるらしく、そんな時は「せっかくイタリア料理以外のものが食べられる国にいるので、イタリア料理ではないものにしてください」とリクエストする場合もある。
もちろんイタリア料理を徹底的に拒絶しているというわけではない。東京には、イタリアよりもよほどお客を思いやった素晴らしい料理を出す店はたくさんあるし、新宿五丁目にある日本人シェフのイタリア料理店はとても気に入っていて、その味を知ってもらいたくて大切な友人を連れていくことも度々ある。
正直、私はグルメではないし、美味しさ感覚の沸点もとんでもないくらい低い。コンビニエンスストアのお弁当も、お腹が空いている時であればしみじみ美味しいと感じるし、気取らない大衆食も大好きだ。逆に、もの凄く評価の高い高級料亭で振る舞われる、最高の素材を使った最上の料理となると、どうもそれに見合うだけの感動を覚えられる自信がない。ハードルの高さを感じてしまう時点で、おそらく味覚の天真爛漫な積極性が萎えてしまうのだろう。
*
今から二十数年前の一九九五年、未婚で産んだ二歳の子供を連れて日本へ一時帰国した私は、生計を立てるため札幌のローカルテレビ局の料理番組でイタリア料理をお披露目していたことがある。料理研究家でもなければグルメでもない、しかもイタリアでは貧乏生活が長過ぎて大して美味しいものを食べた経験すらない私が、なぜそんな畏れ多き大胆なことをやっていたのかというと、それこそ高級感を醸し出している日本でのイタリア料理の扱われ方に疑問を抱いたのがきっかけだ。
たまたまテレビ局のプロデューサーとイタリア料理店で食事をする機会があり、私がニンニク、塩コショウ、鷹の爪をオリーブ・オイルで和えただけのシンプルな一品「アーリオ・オリオ・エ・ペペロンチーノ」スパゲッティを頼んだ。これは、日本における「素うどん」と言ってもいいポジションのスパゲッティで、私がフィレンツェでいつ野垂れ死にしてもおかしくないほど貧乏な暮らしをしていた時代に、おそらく最も高い頻度で食べていた料理である。
当時イタリアでは、安いスパゲッティだと五百グラム入りが五十円くらいで買えたから、「一人前=百グラム」と換算すれば、一人分の食材費は他の食材を足しても二十円か、多くても三十円くらいだろう。まさに私の飢えを救ってくれた食べ物だったと言っていい。
同じ頃世話になっていたフィレンツェの文壇サロンでも、このスパゲッティをよく食べた。同じように経済的に困窮した作家や画家が集まって夜中まで話し込んだ時、誰ともなく茹で始め、皆で食べていたのもこのスパゲッティで、私の中ではもはや「好き/嫌い」の枠には収まらない、自分という人間を構成する細胞の一部分になっている。
ところが、札幌のレストランで出されたこのスパゲッティの値段は、当時で千円を超えていて、私は思わず「うわあ、ほとんどレストランの儲けじゃないですか……」と漏らしてしまった。しかもその店には日本人しか働いていないのに、スタッフたちが「ペルファヴォーレ!」「グラッツィエ!」などとイタリア語で喋っているのも違和感だし、子連れの客なんかはとてもじゃないけど入れなさそうな雰囲気。客はやたらとワイングラスをぐるぐる回していて、「なんだかイタリアのイメージが日本には間違って伝わってませんかねえ」などと矢継ぎ早にだだ漏れてくる私の言葉に耳を傾けていたプロデューサーが、「だったら一回テレビに出て、その安上がりイタリア料理とやらを作ってみてよ」と思いつきの提案をしたことが、全ての始まりである。
最初にお披露目したのは、「アマトリチャーナ」というおそらく日本のナポリタンの原型となったと思しきトマト系のスパゲッティだった。これだって、食材費はたいして掛からない。生放送だったので、料理中の私の呟きもそのまま視聴者には届く。「人数で割っても食材費は一人百円そこそこじゃないでしょうかね」とか、「レストランだと千円以上で出してたりしますからね」とか、およそ料理番組にふさわしくない言葉が主婦層には大いにうけたようだが、レストランの経営者やシェフたちは腹を立てたらしい。当然である。
とにかく、安上がりで腹持ちもするパスタはイタリアにおいては庶民のための食であり、イタリア映画でも貧窮した様子を表現する時は、大人数で大量のトマトソースのスパゲッティを食べるシーンをよく用いている。私もニンニク塩コショウパスタが続いて、さすがに飽きてきた時は、奮発してひと缶五十円くらいのトマトの水煮を調達し、トマトソース仕様にしたりするのだが、自分の人生でいったいどれだけこの類いの「貧乏パスタ」を食べてきたのか数え切れない。
夫は幸運なことに貧乏体験は一度もしていない人だが、イタリア人にとって「おふくろの味」とも言えるトマトソースのパスタは大好きで、自分でもしょっちゅう作っている。しかしそんな時私は、日本から持って来た素麺や蕎麦を食べることにしている。正直、若い時に過剰に摂取し過ぎたためか、もはやスパゲッティを含むパスタ全般に食欲をそそられることは、ほとんどなくなってしまったのである。
フィレンツェに留学をしていた十一年の間に、おそらく私は一生分のパスタを食べてしまったのかもしれない──。
*
そうは言っても、「やはりたまにはパスタを食べたくなるんじゃないですか?」なんて思う読者の方もきっといるはずだろう。
食べ尽くしたとはいっても、もう今から四半世紀以上前のことだし、確かにここ数年、日本に足繁く帰ってくるようになってからは、パスタを食べたくなることも、時々ある。ただしそれは「アーリオ・オリオ・エ・ペペロンチーノ」でもなければ「アマトリチャーナ」でもない。「カルボナーラ」でもなければイカスミのパスタでもなく、ウニとカラスミのパスタでもない。私が食べたくて仕方のなくなるパスタは、ケチャップを使った和製のナポリタンやタラコのソース、または納豆を使ったような、いわゆる「和風スパゲッティ」である。ああいう類いのものであれば、胃袋はまだ喜んでくれる。
エッセイ漫画にも描いたことがあるが(『それではさっそくBuonappetito!』)、留学生活の初期に家をシェアしていた大学生たちに、私はケチャップをふんだんに使用したナポリタンを作ったことがあった。イタリア人たちがあまりにケチャップの存在を邪道扱いするので、偏見を正してもらいたいという思いもあったからなのだが、確かに彼らの目からしてみれば、イタリアという国のこともろくにわかっていない東洋から来た小娘の作るスパゲッティを食べるなど、一種の罰ゲームみたいなものだったはずである。しかも使用する調味料がトマトケチャップとなれば尚更だ。
ところが、このナポリタンが意外にも皆の口にあったのである。全員貧乏だったせいで胃袋が至極寛容になっていた、というわけでもなかったらしい。あの時私を満たした達成感は、今でも思い出せるくらい愉快爽快なものだった。
いくら海外暮らしが長くても、家族が外国人であっても、やはり私の味覚はなんだかんだで和製優位なのだろう。茹で過ぎてぶちぶち切れてしまう、お弁当の付け合わせに入っているようなケチャップベトベトの冷めたスパゲッティを口にした瞬間、なんだか心底からホッとしてしまうのも、間違いなくその証拠なのである。
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