平安時代は平安でも雅でもなかった! 熾烈な主導権争いで多発した事件を解説 『古代史の正体―縄文から平安まで―』(関裕二)試し読み

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 さまざまな「歴史の定説」を覆してきた関裕二さん。初の通史となる『古代史の正体』では、さらなる大胆な推理で『万葉集』『日本書記』の真実に迫ります。

 大河ドラマ「光る君へ」でも注目を集めた平安時代の優雅なイメージからかけ離れた、荒っぽい「事件簿」を見てみましょう。

(『古代史の正体―縄文から平安まで―』からの抜粋です)

第10章 平安時代は平安でも雅でもない
平安の6大事件

 平安時代といえば、『源氏物語』に描かれたような雅(みやび)な貴族社会を思い浮かべるだろう。8世紀末から12世紀末まで約400年続き、国風文化が誕生したから、混乱のない平穏な時代と思われがちなのだ。しかし、政権内部でくり広げられた主導権争いは熾烈を極め、藤原四家(藤原不比等の4人の男子から生まれた。武智麻呂の南家、房前の北家、宇合の式家、麻呂の京家)が他氏を追い払ったあと、北家がひとり勝ちし、その中のさらに一部(北家の藤原良房(よしふさ)の末裔)が摂関家(摂政と関白を出す家)となり、王家を傀儡にしてしまう。さらに摂関家の藤原道長(みちなが)が「藤原の世は欠けることのない満月」と豪語し高笑いした瞬間、(案の定?)歴史の歯車が狂い出す。王家が新たなカラクリを発明し、強い権力を握り、巻き返しに出たのだ。それが、「院政」だ(なぜ権力を握ることができたのか、理由はのちに)。

 貴族社会(藤原氏)内部でも権力闘争が勃発し、身内同士で憎しみ合い、骨肉の争いが始まった。王家と貴族の暗闘は、武士を巻き込んで泥沼化し、結局武士の台頭を許した。貴族に見下されていた武士たちが、めきめきと力をつけていったのが、平安時代なのである。

 平安時代は末法(まっぽう)の世(いくら修行しても救われない時代になったという仏教の思想)でもあった。人々は震え上がったが、藤原氏だけが栄え、富を独占し、腐り、堕落の道に突き進んでいった。また、多くの民が貴族社会の支配に苦しんだ。ただし彼らはおとなしくしていたわけではない。とくに、東国が激しく抵抗した。一時、関東は無法地帯となりはてた。そこで沈静化を目的に送り込まれたのが、源氏と平氏(平家)だった。ところが、ここが不思議なのだが、東国の民は源氏と平氏を歓迎し、一丸となって貴族社会に復讐していくのだ。藤原一党独裁を打ち破ったのは、朝廷がつねに恐れ続けた「東の底力」と言えるのかもしれない。また、鎌倉時代が解放感に溢れ、新たな信仰が雨後の竹の子のように誕生していくのは、人々が藤原の支配から解放されたからだ。

 この平安時代の歴史を理解するためのポイントとなる事件は、①阿弖流為(あてるい)の降服(802)、②応天門の変(866)、③菅原道真(みちざね)の左遷(901)、④白河(しらかわ)上皇の院政の開始(1086)、⑤保元(ほうげん)の乱(1156)、⑥平治(へいじ)の乱(1159)だ。順番に、説明していこう。

夷をもって夷を制した藤原氏

 時代を少し巻き戻す。奈良時代の平城京遷都(710)の時点で、藤原氏はほぼ実権を手中にしていたが、邪魔者である旧豪族は健在だった。しかも旧豪族は東国の軍事力をあてにしていたから、藤原氏は旧豪族に東国の軍団を添えて東北にさし向けた。「まつろわぬ蝦夷(えみし)(蝦夷には東国の野蛮人という意味が込められている)」を東国の軍事力で叩き、同時に政敵の力を削ぐことができる。「夷をもって夷を制す」策だった。もっとも将軍に指名された大伴氏らに戦意はなかったため、蝦夷征討は長期化した。切り札として送り込まれた征夷大将軍・坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が、蝦夷の長・阿弖流為を説得して、征討戦にひとつの区切りはついた。また、都に凱旋した坂上田村麻呂は、阿弖流為の助命を嘆願したが、許されなかった。藤原氏は、こうして東の脅威を封じこめた(かのように見えた)。

 このあと、東北の蝦夷たちの中で、恭順した者たち(熟蝦夷(にぎえびす))は故郷で暮らすことを許された。しかし、従わない者たち(俘囚(ふしゅう))は、強制的に日本各地に移住させられた。その中でも関東に移された俘囚たちは、次第に手がつけられなくなる。だから源氏と平氏が送り込まれたのだが、このあたりの詳しい話は、のちにする。

 次に、応天門の変だ。ここで、藤原氏の台頭に最後まで抵抗した名門豪族・大伴氏の没落が決定的となった。まず、天安(てんあん)元年(857)、外戚の地位を利用して、藤原北家の藤原良房は太政大臣に登りつめた。本来なら、皇族が立つポジションで、人臣の立つ最高位・左大臣の上に位置する。恵美押勝(藤原仲麻呂)や道鏡ら、独裁権力を握って自滅した二人の人物が立っていた役職だ。

 貞観(じょうがん)8年(866)閏3月、内裏の応天門が炎上した。原因不明だったが、伴善男(とものよしお)(大伴氏)が、政敵の左大臣・源信(みなもとのまこと)(第52代嵯峨(さが)天皇の第7子)の仕業と訴えた。すると藤原良房は清和(せいわ)天皇(第56代)に、これは讒言(ざんげん)に違いないと諫言した。そして8月、今度は伴善男を恨む人物が、真犯人は伴善男だと密告した。その後、清和天皇は良房を摂政の地位に上げて、始末を委ねたのだった。ちなみに、「摂政」とは、天皇に成り代わって政治一切を取り仕切る役目のことだ。天皇が未成年だったり、何かしらの支障をきたした時に任命される。「関白」は、天皇を補佐して政務を取り仕切る。つまり、摂政も関白も、法を超越した存在だった。北家の中でも良房の末裔だけが摂政と関白の地位に立つことができた。これを「摂関家」と呼ぶ。

 藤原良房は摂政の地位に立って、事件を裁断した。かかわりのない紀氏にも罪を着せて、伴氏と共に、配流の刑にした。伴善男の私財は没収された。良房はこうして、旧豪族の息の根を止めたのだった。

以上は本編の一部です。詳細・続きは書籍にて

関裕二
1959(昭和34)年、千葉県柏市生まれ。歴史作家、武蔵野学院大学日本総合研究所スペシャルアカデミックフェロー。仏教美術に魅了されて奈良に通いつめ、独学で古代史を学ぶ。『藤原氏の正体』『蘇我氏の正体』『神武天皇vs.卑弥呼』『スサノヲの正体』など著書多数。

新潮社
2025年4月25日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

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1896年(明治29年)創立。『斜陽』(太宰治)や『金閣寺』(三島由紀夫)、『さくらえび』(さくらももこ)、『1Q84』(村上春樹)、近年では『大家さんと僕』(矢部太郎)などのベストセラー作品を刊行している総合出版社。「新潮文庫の100冊」でお馴染みの新潮文庫や新潮新書、新潮クレスト・ブックス、とんぼの本などを刊行しているほか、「週刊新潮」「新潮」「芸術新潮」「nicola」「ニコ☆プチ」「ENGINE」などの雑誌も手掛けている。

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