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- 結論それなの、愛
- 価格:1,925円(税込)
主演の栗山千明さんのほか、伊藤健太郎さんや千賀健永さんなど豪華な出演陣も話題のドラマ「彼女がそれも愛と呼ぶなら」。その原作者・一木けいさんが描く、最新恋愛小説『結論それなの、愛』が刊行されました。
舞台はタイ、バンコク。そこで暮らす日本人駐在員の妻たちを通して、「通じ合う」ということの複雑さとあたたかさを描き出します。
麻布競馬場さん、町田そのこさん、大橋未歩さんといった多彩な表現者たちからも絶賛の声が寄せられている本作。
今回はその冒頭部分を、試し読みとして特別に公開します。
菜食週間
スーパーマーケットに蛍の光が流れた。
「何か起きたの?」
棚にタロイモチップスを並べていた店員にタイ語で尋ねると、彼は小首を傾(かし)げた。
「なぜですか」
「この曲が流れてるってことは、もうお店を閉めるんでしょう。大きなデモ? まさか近くでテロがあったとか」
「僕は何も聴いていませんけど。ちょっと待っててください」
そばにいたスタッフ数名に声をかけ、彼はバックヤードへ入っていった。
「一月だから、だそうです」戻ってきた彼は、笑顔でそう言った。「ヨーロッパの方に、この曲を年始に流す国があるみたいで」
「知らなかった。日本ではお店を閉めるときや卒業式で流れる曲なのよ。終わりのさみしい感じがするでしょう」
そうかなあ、と彼は色素の薄い目を遠くへ向けた。
「僕は、いまからはじまる広がりを感じます」
あの一月の午後、わたしは、そしてきっと彼も、コロナの存在を知らなかった。
あれから九か月が過ぎ、いま店内にいるすべての人がマスクを装着している。欧米系もアジア系も、どんなにインフルエンザが流行しようとマスクなどしなかったこの国の人たちも。
世界各国の高級食材や日用雑貨が並ぶ店内を、ゆっくり歩く。缶詰、チーズ、チョコレート、トリュフオイル、シャンプー、歯磨き粉、ワイン。すれちがうときは触れてしまわないよう、互いに距離をとって、目だけでほほ笑みを交わす。これは敵意ではなく、ソーシャルディスタンス。たいへんな世の中よね。
自宅から少し離れているが、品揃えがよく、スタッフも皆気さくで感じがいいので、月に二度は訪れる店だった。今夜も果物コーナーの女性はアボカドやグアバを量って値付けしながら「明日はセントラルデパートのそばでデモ集会があるから近づかない方がいいわよ」と教えてくれたし、レジの袋詰め担当のフィリピン人男性は流麗な英語で「そこの床は拭いたばかりだから気をつけて」と声をかけてくれた。
会計時、わたしの前に並んだスーツの男性は、頭髪と眉をうつくしく剃り上げていた。コロナでも出家するのか。出家前のイベントはずいぶん縮小されたことだろうと思いながら、日焼け止めクリームや細長くカットされた青マンゴー、ドリップコーヒーをかごから出してカウンターに置いた。
マダム、と声をかけられたのは、店を出た直後だった。
「こんな時間にくるの、めずらしいですね」
蛍の光について話した店員だった。
確かに、こんな遅くに来店したことはない。わたしが買い物するのは午前中か、午後三時前後が多かった。アルコールを購入できる時間帯は混むから。
「近くのホテルに泊まってるの」
スコールが何度もベランダから流れ込みリビングの床がかびてしまったけれど、二週間以上放置されていること。その上エアコンが故障したことなどを説明すると彼は、
「家族みんなで移動? それは大変ですね」と言った。
泊まっているのは自分一人だったが、そんなことを話せば誘っていると勘違いされる可能性もあると思い、やめた。
わたしの夫は耕運機の開発に関わる仕事をしている。五年前、駐在地として会社から提示されたのはタイのバンコクだったが、担当地区は東南アジア全域で、赴任直後から出張ばかりだった。インドネシア、カンボジア、ベトナム。ときにはインドへも飛んだ。出張から戻ると夫はたくさんのお土産をくれた。鞄から取り出される異国のお菓子、鮮やかなショール、ハンドクリーム。いっしょに可愛らしい白い小花がこぼれ出たこともあった。荷物に潰され萎(しお)れたその花は、熟れ切ったバナナの匂いがした。
コロナで国境が封鎖されたとき、夫はマレーシアにいた。そのまま七か月、夫婦別々の場所で生活している。
エアコンからとつぜん氷が降ってきたのは、昨日の十九時頃だった。アパートに住み込みの修理工を呼んで対応してもらったが、直らなかった。外部から専門業者を呼べるのは最速で三日後と言われ、少なくとも半月はこの状態が続くことを覚悟した。
ただでさえ眠れない日々が続いていた。その上猛烈な暑さとかびに耐えて生活できる気がしなかった。夫に相談しようと電話をかけたが繋がらない。電波状況の悪い地域にいるときは数日連絡が取れないことなどざらだったので早々に諦め、バリバリ降ってくる氷の動画を撮影してLINEで送り、ソファで無理やり目を閉じた。睡魔は訪れず、瞼の内側を乾いた布で擦られているようだった。リビングに扇風機が首を振る音が響いていた。電話がかかってきたのは明け方。夫は状況を確認すると、ホテルを予約するからとりあえずそこへ移るようにと言って切った。
夫がとってくれた部屋は広く、洗濯機やミニキッチン、オーブンまでついていた。シャワーはたっぷりとお湯が出て、窓から見える夜のビル群もきれいだった。
「これからそのホテルに戻るんですか」
鍵を原付バイクに差し込みながら彼が訊いた。
「僕、送っていってあげますよ。ついでだから」
「大丈夫。すぐそこなの」
「こんな時間にひとりで歩いたら危ないです。乗って」
「でも」
この子と二人乗りしているところを夫の知り合いに見られたら、夫が恥をかく。
「コロナ以降、治安が悪くなってるんですよ。こないだも隣のソイ(小道)でひったくり事件があったの知ってますか? もしマダムに何かあったら厭だし、家族も悲しみます。それにこんな大雨のあと歩いたら、水たまりを車が通るたび泥水を被ることになりますよ。とりあえず乗って」
そもそもわたしは、原付バイクの後ろに乗った経験がない。日本ではもちろん、タイで生活をはじめる際も夫の会社から、バイクタクシーは事故が多いので社員も家族も乗らないように、とお達しがあった。五年間一度も乗らずにきたのに、ここでこの子のバイクに乗って、濡れた地面で転倒でもしたら。そんなことで死にたくない。
「送らせてください。ほんとうに心配だから」
彼の視線がスーパーの入口に飛んだ。数名のスタッフがにやにやしながらこちらを見ている。乗せてもらった方がいいですよー、と果物売り場の女性が手を振りながら言った。
「どこか行くところだったんじゃないの?」
後ろに座って尋ねると、彼は配達ですと答えた。
「だめじゃない」
笑って降りようとしたわたしの手を彼が掴む。
「その家すごく近くなんです」
彼が口にした場所は、確かに近かった。
「じゃあ、お客さんの家に先に行ってね」
店員が女連れで配達にくるのと、想定していた時刻より遅く商品が届くこと、客にとってどちらが問題か。この国では前者などありふれている。
「しっかり掴まっていてくださいね」
彼は自分の腹の上で重ねたわたしの両手をぽんぽんと軽くたたき、半分振り返ってほほ笑んだ。
湿った夜風が吹き、頭の芯がぐらりと揺れた。バンコク特有の、なんでもゆるされてしまいそうな、ゆがんだ熱気。
彼はテオと名乗った。母親はタイ人で、父親はオーストラリア人。わたしの名前がマリだと話すと、彼は年上の人につける呼称ピーと合わせて、わたしをピーマリと呼ぶようになった。
「このあいだ配達中にピーマリを見ましたよ」バイクを走らせながらテオが言った。「目をつぶって歩いてたから、びっくりしました」
「それ、わたしじゃないと思う」
「いえ、ピーマリです。エカマイ通りで」
ああ、と納得した。
「少し前にあそこの歩道で、水道管の工事中にミャンマー人が生き埋めになったの知ってる?」
「知ってます。行方不明者もいましたね」
「うん。その上を通るときは冥福を祈るようにしてるの。生きたまま埋められてしまうなんて、どんなに怖かっただろうと思って」
バンドの生演奏が近づいてきて、遠ざかった。風になびくように、過ぎた道を振り返る。ビアホールのテラス席で、赤ら顔の客たちが巨大なジョッキを傾けている。いつまた店内飲酒禁止になるかわからない、刹那的な享楽。テオの腰回りは華奢で、肩甲骨から汗と肌とタイの柔軟剤の混ざった匂いがした。
届け先の家には立派な門がそびえていた。テオがバイクを停めると、入口脇の小屋から制服を着たガードマンが出てきた。わたしはとなりの屋敷との境に立つ電柱にもたれ、周囲を見渡した。門から玄関まで何十メートルあるだろうというような豪邸が建ち並んでいる。トランシーバーを使ったやりとりのあと門のひらく音がして、出てきたお手伝いさんらしき女性がテオから商品を受け取った。
「ピーマリ、具合が悪いんですか」
「どうしてそう思うの」
「顔色がよくないです」
「エアコンや床のことで疲れたし、ずっと睡眠がうまくとれてなくて」
「なぜ?」
「悲しいことがあったの。でもそれはもう、考えても仕方のないことだから」
ふうんとつぶやいてテオはバイクに跨(またが)り、来た道を戻った。
信号待ちの交差点で、ざくろは好きかと尋ねられた。ホテルはもうすぐそこだ。好きと答えると、彼はファミリーマートにバイクを停め、店の脇にあった屋台でボトル入りのざくろジュースを買ってくれた。振って蓋を外しストローを挿して、どうぞと差し出してくる。
「いただきます」
日本語で言って両手を合わせ、口をつけた。甘酸っぱくて胃に沁みる。
「おいしい」
顔を上げたら、テオが目を細めてわたしを見ていた。
「日本はいま暑いんですか?」
いま何月だっけ。十月。十月の東京は、確かもう暑くはなかった。そこまで考えてから、涼しくて快適な時期よと答える。
「ピーマリ、ごはんは食べましたか」
「食べてない」
「お腹すいてますか」
お腹がすくもすかないもない。どれくらい食べたか食べていないのかもわからない。
「いいところに連れて行ってあげます」
彼がわたしの手を取り角を曲がった。薄暗く、ひと気のない路地に警戒心が湧き起こる。
「もう帰らなきゃ」
「心配しないで。ほらあそこ、麺屋台があるでしょう。人気店なんですよ」
路地の奥にほのかな灯りが見えた。腕時計で時刻を確認し、じゃあ十分だけと念押しして歩き、色の剥げたプラスティック椅子に腰かけた。
「コロナになってピーマリがいちばん困ったことはなんですか」
「グアバを毎日買ってたフルーツ屋台の人が田舎に帰っちゃったことかな」
答えた瞬間ぞっとした。長いあいだ、自分が誰にもほんとうの気持を話していないことに気づいた。
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