幸せは苦難の先に待っていた 東大教授が「すごい科学論文」をかみ砕いて紹介

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幸せとは何か?(写真はイメージ)

 科学は人類を幸福にしたのだろうか――SFでよく登場する疑問である。核兵器やSNSの害を見ればそんな気持ちになるのも理解はできる。

 しかし多くの科学技術が人類を様々な困難から救ったのもまた間違いない事実。さらには「幸福」そのものもまた科学者の研究対象となっているのだ。

 1日100本の科学論文を読むのが日課だという池谷裕二さん(東京大学薬学部教授)が厳選した科学論文を紹介した新著『すごい科学論文』の中から、ヒトの感情に関するコラムを3本紹介してみよう。

(以下、すべて同書から抜粋・再構成したものです。なお、もとになる「すごい科学論文」については文末に記しているので、原文に当たってみたいというチャレンジングな方はそちらをご覧ください)

(1)幸せを求めすぎると不幸せになる

 アラン、ラッセル、ヒルティ。この名前にピンとくるでしょうか。3名とも『幸福論』という書物を著し、それらは世界三大幸福論とも呼ばれています。私はアランの著作を読んだことがあります。アランは「幸せは外的要因ではなく、自身の行動と考え方によって作り出される」と主張しています。納得できます。とはいえ、今日から具体的に何をどう気をつけたらよいのかは、本を読んでも、なかなかイメージが湧きませんでした。私の理解が足りないのでしょう。
「幸せ」という代物は、どうにもボヤけた印象で掴みどころがありません。「末長くお幸せに」は新郎新婦への常套句です。私も「幸せとは何か」を深く考えずに、つい、この言葉を贈ってしまいます。でもよく考えてください。そもそもヒトは幸せになるべき存在なのでしょうか。幸せはヒトの目指すべき終着駅なのでしょうか。
 幸せに関してカリフォルニア大学のフォード博士らが意外な発見をしています【*1】。「幸福を重視すると心理的健康を損なう」というのです。博士らは、うつ病の患者や健康な方、全159名を対象に2つの調査を行い、「幸せに極端に価値をおくことがうつ病のリスク因子となる」と結論付けています。幸せは求めるほどに遠ざかる――。『幸福論』を手に取った私も「幸せになりたい病」に罹っていたのかもしれません。

 セロトニンは一般に「幸せホルモン」として知られています。実際、セロトニンはうつ病に関わる重要な神経伝達物質で、選択的セロトニン再取り込み阻害薬(SSRI)は、うつ病治療薬として広く使われています。しかし、セロトニンは本当に「幸せを生み出す」のでしょうか。
 オックスフォード大学のコルウェル博士らが2024 年8月の「ネイチャー通信」誌に発表した論文では、脳のセロトニンを増加させたときのヒトの行動の変化を調べています【*2】。たとえば、勝敗を決める選択テストでは、セロトニンが増えても、勝ちにつながる行動に目立った変化は見られませんでした。逆に判明した事実は、負けることへの躊躇の軽減です。
 博士らは「セロトニンは嫌悪的な状況での損失感受性を低下させる」と述べています。セロトニンは、決して「幸せのホルモン」ではなく、不幸を感じにくくさせて急場を凌がせる「忍耐ホルモン」というわけです。
 人生は、苦労とは無縁な常夏の楽園ではありません。どんな人にも山もあれば谷もあります。ヒトは幸せを求めようとつい山に憧れてしまいますが、本当は逆で、谷をいかにやり過ごすかが肝心です。そんな苦難を乗り越えるときにセロトニンが心強い味方になるのです。
 アランの『幸福論』では「不幸への抵抗」についても説かれています。アランは「不幸な状況や困難に対してただ悲観的になるのではなく、積極的に抵抗し、前向きに対処しようとする“不幸への抵抗”が幸福の一環である」と説きます。さすがは世紀の名著。脳科学的な視点から見ても、ずばり真実を射抜いているのです。

池谷裕二
1970(昭和45)年、静岡県生まれ。脳研究者。東京大学薬学部教授。薬学博士。神経科学および薬理学を専門とし、海馬や大脳皮質の可塑性を研究。著書に、『海馬』(糸井重里氏との共著)『脳はこんなに悩ましい』(中村うさぎ氏との共著)『受験脳の作り方』『脳はなにかと言い訳する』『脳には妙なクセがある』など。

新潮社
2025年5月3日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

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