ヘビはなぜ足がないのか(写真はイメージ)
東京大学薬学部教授の池谷裕二さんは、テレビ番組のコメンテーターとしてお茶の間でも有名な存在。出演する「情報7Days ニュースキャスター」(TBS系)での落ち着いたコメントには定評がある。
同番組で池谷さんの説明として名前の下にいつも書かれているのが「1日100本の科学論文を読むのが日課」というものだ。そのままスルーされがちだが、よくよく考えれば「1日100本???」と違和感を抱いても不思議はない。
しかしこの数字、決して誇大表現でないのだという。池谷さんの新著『すごい科学論文』にはこうある。
「私は研究の傍ら、論文に目を通すことを日課(=日々の楽しみ)としており、毎日少なくとも100本、多い日には500本、年間では述べ5万本の論文に接しています。
まるで図書館に住み着いているようですが、それほどまでに論文の世界は奥深く、魅力に満ちているのです」
池谷さんがその日課の中から見出した、特に面白い論文をピックアップした同書から今回は「生物のふしぎ」をテーマにしたコラムを3本ご紹介しよう。
(以下、すべて同書から抜粋・再構成したものです。なお、もとになる「すごい科学論文」については文末に記しているので、原文に当たってみたいというチャレンジングな方はそちらをご覧ください)
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- すごい科学論文
- 価格:1,056円(税込)
(1) タコの足の秘密が判明!
ヒトの手は味わい深い作りをしています。とりわけ親指の向きは奇抜で、手で物を掴むとほかの4本と向かい合わせになります。一方、足の指はすべて同じほうを向いています。親指の対向性は霊長類だけに、ヒトでは手だけに見られる特徴で、いわば「奇形」です。
言うまでもなく、この奇形によって、親指の腹をほかの指の腹と密着させることができます。つまり、指先で「つまむ」ことが可能になります。ヒトが殊のほか器用なのは、この珍妙にして不格好な親指のおかげです。ところが残念なことに、それほど器用な指を得られたのに、多くのヒトにはなぜか「利き手」があります。器用なのは一方の手だけで、もう一方の親指が宝の持ち腐れです。
利き手があるのは珍しいことではありません。イヌやネズミにも利き手があり、なんとタコには「利き足」があります。タコの8本の足は等価ではなく、通常使う足はだいたい決まっています。
タコの足は、ヒトの手に劣らず、味わい深い作りをしています。よく「タコには脳が9個ある」と言われます。頭部には中枢部にあたる典型的な「脳」(中央脳)があり、これに加え、それぞれの足の付け根に、足を制御するための神経細胞が集まって「神経節」を作っています。この神経節の合計サイズは中央脳に匹敵します。各足に巨大な神経節を備えているということは、それだけ「足」の機能を重視している証拠。タコは、その見かけどおり「足のために生きている」といってもよいほどで、やはり味わい深い生物です(食用にしても深い味わいですが)。
タコは足でブラインドタッチができます。ヒトは目で確認しながらものに触れることが多いですが、タコは見ずに触ります。砂底や岩穴の奥を探るために、ブラインドタッチの能力が役立ちます。足の吸盤にセンサーがあり、獲物を探しているのです。
このセンサーの実体は長らく不明でしたが、ついにハーバード大学のベローノ博士らとカリフォルニア大学のヒブス博士らが解明しました【*1】。2023年4月の「ネイチャー」誌に発表した論文で、タコの足に独特なセンサー分子があることを報告しました。この分子を調べたところ、神経伝達物質の受容体と似ていました。つまり外部の「化学物質」を感知するセンサーです。このセンサーを用いて、獲物となる魚の皮膚や卵などの表面にある化学物質を検知しているのでしょう。
このような化学センサーの使い方は、とりもなおさず「味覚」です。触れたものが食べられるか否かを判断するのに味覚を利用することは、たしかに理に適っているとはいえ、なかなか味わい深い発明です。ただし、足のセンサーからの味覚情報は、付け根の神経節の中で処理され、頭部の脳までは届きません。必ずしも脳で「旨い!」と堪能しているわけではなさそうです。
ちなみに、タコの足は、英語では「arm」と言います。英語圏では「足」ではなく「腕」と見做しているようです。つまり、利き足でなく、利き手です。なんとも味わい深い差です。
池谷裕二さん
(2) ネコの「ゴロゴロ」の正体論争に終止符!
次はネコの鳴き声の話題です。鳴き声といっても、ニャーと鳴く愛らしい声ではなく、ゴロゴロと喉を鳴らす低周波数の音のほうです。ネコは生後間もないころから喉を鳴らすことができます。心地よいときだけでなく、爪を切られたり、シャワーで洗われたりなど、強いストレスがかかったときにも喉を鳴らします。
ウサギやモルモットを飼育したことがある方ならばご存知かと思いますが、ゴロゴロという鳴き声はネコだけの特徴ではありません。逆に、ネコ科の動物ならば必ずゴロゴロと音を発するわけでもありません。たとえばライオンやトラは喉を鳴らしません。代わりに、これらの動物は「ガオオ」と吠えます。ネコ科の動物は、喉を鳴らすネコ亜科と、吠えるヒョウ亜科に大別できるほど、両者の発声法は異なります。
このゴロゴロは実に不思議です。声帯から音が出る原理は、柔らかい管を空気が通るときに振動するというものです。これを「筋弾性空気力学論」と呼びます。ニャーという鳴き声はもちろん、トリの鳴き声やヒトの発話も、すべて筋弾性空気力学論により音が発せられています。
しかしゴロゴロは咽頭で鳴っているにしては低すぎます。リコーダーやフルートを想像すればわかるように、あれだけの低音を出すためには、理論的にはもっと長い管が必要です。つまり、ゴロゴロは筋弾性空気力学論では説明できないのです。ネコは、ニャーという一般的な発声法(筋弾性空気力学論)だけでなく、別の方法でも音を出すやり方を会得しているはずなのです。
それはどんな方法でしょうか。いくつかの仮説が提唱されていますが、代表的な説明は「筋収縮を用いている」というものです。この方法は筋弾性空気力学論とは対照的です。筋弾性空気力学論は「空気が細い管を通れば勝手に振動する」という受動的な共鳴法なのに対し、筋収縮では神経支配によって能動的に筋肉を震わせて音を出します。
この長い論争に終止符を打つであろう研究結果が2023年11月に発表されました。「カレントバイオロジー」誌に掲載されたウィーン大学のヘルブスト博士らの論文です【*2】。結論を先に述べると「ゴロゴロという音も筋弾性空気力学論で出る」というものです。
博士らは、亡くなったネコから咽頭を摘出し、さらに筋肉を取り除き、管だけの状態にしました。その中に人工的に空気を通したところ、なんとゴロゴロと音が鳴ったのです。つまり、神経活動も筋収縮も必要ないのです。生きたネコが実際にこの方法でゴロゴロと喉を鳴らしているかどうかはさらなる研究の余地がありますが、ネコの短い咽頭でも筋弾性空気力学論によって低い音を出すことができるという発見は重要です。
と、ここまで読んで「あれ?」と思った方はおられるでしょうか。結局なぜ「短い管から低音が出る」のか。勘のよい方なら察しがつくでしょう。私たちヒトも、眠っているときに喉から低い音が出ることがあります。そう、あの「いびき」と同じ原理だったのです。
(3)「ヘビ」はなぜ足がないのか
世界保健機関(WHO)のロゴを知っているでしょうか。ヘビが巻き付いた杖がモチーフになっています。ヒトに危害を与える、あの毒々しいヘビが、なぜ健康の世界的機関のシンボルであるWHOのロゴに使用されたのでしょうか。
この杖はギリシャ神アスクレピオスの持ち物です。アスクレピオスは優れた医術で多くの人々を治療しました。しかし、死者まで生き返らせることは神の意に反する行為。ゼウスの怒りを買い、雷撃で殺されてしまいました。天に昇ったアスクレピオスは「へびつかい座」となって星空を彩っています。
ヘビは長時間の飢餓に耐性があり、高い生命力を誇ります。また脱皮を繰り返し成長する姿は、死から生への回生を思わせます。実際、ウロボロス(自分の尾を噛んで輪になったヘビ)は不老不死の象徴になっています。また、ヘビは実用面においても薬用として有益でした。日本では滋養強壮用のマムシ酒がよく知られています。まさにヘビは医学の代弁者ともいえる存在なのです。
もちろん、ヘビの文化的な扱いはそれほど単純ではありません。アダムとイヴに禁断の果実を食べるように唆(そそのか)す悪知恵の持ち主だったり、見たものを恐怖で石化させるメドゥーサの頭髪だったりと、様々な形で姿を現します。日本でも、信仰の対象の白蛇だったり、暴虐を働くヤマタノオロチだったりと、多様な側面を持っています。文化のあちこちに顔を出すということは、逆にいえば、ヘビは古くから身近な生物であった証拠。
実際、ヘビは身近によく見かける生物で、生物学的にも多様です。ヘビは有鱗目と呼ばれるトカゲの仲間ですが、魚類を除いた脊椎動物の30パーセント以上が有鱗目です。一つの生物目だけで、哺乳類の全種類よりも多い数を占めるのです。なるほど、よく見かけるはずです。
またヘビは有鱗目の中でも群を抜いて多様です。環境に合わせて柔軟に生態を変えてきたからでしょう。陸にも海にも生息しますし、食べ物も、狩りの仕方も、毒もさまざまで、その多様性はトカゲの比ではありません。
足を失ったことが進化を加速させた――。
こう推測するのは、ミシガン大学のラボスキー博士です。博士らは、世界中のヘビやトカゲなどの有鱗目6万匹以上の生態観察と、1018種の遺伝子を解析した結果を、2024年2月の「サイエンス」誌に報告しています【*3】。データ分析から、ヘビは1億5000万年前にトカゲから分岐し、足を捨て、独自の感覚器や毒腺を発達させたことがわかったのです。
おそらくヘビのような独特な生物の出現は、周囲の生態系に劇的な変化をもたらしたはずです。当然、そうした生態系の変化を受けて、ヘビ自身もさらに適応しながら進化することになります。弱肉強食の世界において他の種を出し抜こうとするイタチごっこが、ヘビをこれほど多様にしてきたということです。
こうした優れた適応性を持つ生命力だからこそ、WHOの象徴にぴったり――。私はそんなふうに感じるのです。
*1 Allard, C. A. H. et al. Structural basis of sensory receptor evolution in octopus. Nature 616, 373-377 (2023).
*2 Herbst, C. T. et al. Domestic cat larynges can produce purring frequencies without neural input. Curr. Biol. 33, 4727-4732.e4 (2023).
*3 Title, P. O. et al. The macroevolutionary singularity of snakes. Science 383, 918-923 (2024).
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