「鶏肉は水で洗うな」「記憶力は悪くてもいい」 「すごい科学論文」を東大教授が厳選紹介

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鶏肉を洗ってはいけない理由とは(写真はイメージ)

 動いているのは天ではなくて地面のほうである――かつてはマトモに取り合われなかった地動説は現在では当然常識である。科学者たちはときに、時代の常識に挑む存在であり、それはいまも変わらない。

 1日100本の科学論文を読むことを日課としている池谷裕二さん(東京大学薬学部教授)の新著『すごい科学論文』から、今回は世の中の「定説」に挑んだ論文をピックアップしてご紹介しよう。

(以下、すべて同書から抜粋・再構成したものです。なお、もとになる「すごい科学論文」については文末に記しているので、原文に当たってみたいというチャレンジングな方はそちらをご覧ください)

(1)「食材は洗うべき」とは限らない

 皆さんは野菜を洗ってから使っているでしょうか。スーパーで買ったダイコンやゴボウには土がついていますし、レタスやキャベツの葉の隙間にもたくさんの土が入りこんでいます。農薬も付着しているかもしれません。野菜は汚れをきれいに洗い落としてから口にするのが常識でしょう。
 では聞きます。生鶏肉を洗っているでしょうか。アンケート調査によれば、「洗っている」と答えた人はわずか25パーセントです。「洗わないなんて不衛生な」と感じた方は要注意。鶏肉は洗う必要はありません。いや、洗ってはいけないのです。
 鶏肉には病原性の微生物や寄生虫が付いていることがあります。飼育環境が不衛生だからではありません。死体だからです。動物には免疫系が備わっていて、筋肉の内部にはほとんど微生物はいません。しかし、死んでしまうと免疫の監視が消え、微生物は繁殖し放題になります。だから生肉は低温で保存し、火を通してから口にします。これは豚や牛を含めた鶏以外の肉にも当てはまります。生鮮肉は食中毒の危険性と隣合わせです。

 生肉を洗うと、表面に付着した微生物が飛び散り、キッチンを汚染します。これが食中毒のトリガーとなります。ノースカロライナ州立大学のシューメイカー博士らは、鶏肉に付着した細菌がどのようにキッチンに拡散するかを調べました【*1】。
 一般人300人を集め、鶏肉のオーブン焼きとレタスのサラダを作ってもらいます。料理後にはキッチンの片付けと清掃を依頼しました。参加者が会場から去ったあと、鶏肉から出た細菌がどれほど残存しているかを調べたところ、生鶏肉を洗った場合、サラダやキッチンから多くの細菌が検出されました。予想通りです。
 生鶏肉を洗わなかったグループでは、さすがにキッチンに飛び散った細菌は少量ですが、驚いたことにサラダには、洗ったグループの半分程度の細菌が付着していました。食中毒の危険性は依然高かったのです。
 一見すると不思議な結果ですが、ビデオ解析で原因が判明しました。理由はシンプル。手洗いが不十分だったからです。生鶏肉に触れた手には細菌がびっしりと付着していたのです。汚染された手でレタスを盛り付ければ、もちろんサラダに細菌が付着します。
 こうした知識は料理に慣れた人にとっては常識ですから、さすがに鶏肉に触れたあとは、手を洗う人が多いでしょう。しかし、よく考えてください。汚染された手をキッチンで洗うことは、生鶏肉を洗うことと実質的には大差ありません。細菌は飛び散ります。さらに、水道の蛇口ハンドルや包丁の柄など、手が触れたものも、汚染されてしまいます。
 結局のところ一番の対策は、サラダのように生のまま口にするものは、生肉に触れる前に用意する、ということなのかもしれません。


池谷裕二さん

(2)記憶力がいいことが良いとは限らない

 ご自身の記憶力に満足しているでしょうか。古代ギリシア以来多くの記憶法が提唱されていますから、当時の人々も記憶力にコンプレックスを持っていたのでしょう。現在でも記憶や学習のノウハウ本がしばしばベストセラーになるということは、2500年以上が経ってなお、完璧な記憶法が編み出されていないことを意味しています。
 もし本当に記憶力を高められる方法があるのなら、とうの昔に周知され、すでに世間の常識となっているはずです。裏を返せば、「効きそうで効かない」ことが記憶法ビジネスの要とも言えます。化粧品やダイエット食品と同じ原理です(効果抜群だったら商売上がったり)。
 となれば、記憶力に悩まされるのは、人類の運命。この呪縛からは永遠に逃れられないかもしれません。だとしたらいっそ「きっと記憶力が悪いことには意味があるのだ」と開き直ってしまったほうが気分は楽になります。

 最新の遺伝子工学技術を用いると、DNAを操作して記憶力の優れたネズミを生み出すことができます。論文を2つ紹介しましょう。
 1つ目は欧州神経科学研究所のディーン博士らの成果です【*2】。シナプスの機能を改変し、一度学んだことをしっかりと覚えられるネズミを作り出すことに成功しました。エサのある場所を覚えるのが早く、記憶も長期間安定します。なんとも羨ましい限りですが、予想外な不都合が現れます。記憶力がよすぎるため、記憶が更新されにくいのです。
 ある日エサの場所を変えてみました。もちろん、この天才ネズミは新しいエサ場をすぐに覚えます。ところが以前の場所にも行って、エサを探してしまうのです。「もうエサがない」という記憶も脳の中にありますが、エサがあった頃の記憶も同じくらい鮮明なので、「エサがなくなったのがいつだったのか」を判断できないようなのです。私たちは、淡く褪(あ)せゆく記憶をぼやけた目で眺めることで、過去を過去として認識します。過去と現在が同じくらい鮮明だと、時の流れが止まってしまいます。
 2つ目は2023年5月に発表された研究です【*3】。オランダ・ラドバウド大学のロバート博士らは、シナプスの可塑性(かそせい)を高めて、脳が柔軟なネズミを作りました。この天才ネズミも、やはり記憶力が冴え、すぐにものを覚えることができました。ところが、多くのことを記憶するときに問題が生じました。似たものごとを混同しやすくなり、記憶が不正確になってしまったのです。
 私たちは「これはこれ、あれはあれ」と個々の記憶を別の格納庫に仕分けることで、ものごとを分類します。しかし、格納庫入口の扉を柔らかくして記憶の吸収力を高めると、格納庫の壁まで柔らかくなってしまい、隣接した格納庫の保管物が混じり合ってしまうのです。
 なるほど。自分の記憶力に悩むのはやめたほうがよいかもしれません。悩み続けていたら記憶力ビジネスの格好の餌食です。実際のところ、現状の「記憶力の悪さ」の程度こそが、ベストな塩梅にチューニングされた状態なのでしょう。今の私、万歳。

(3)電気自動車よりもエコに優しい道がある

 2035年以降はエンジンを搭載した新車販売を禁止する――。
 EUが2021年に打ち出した方針です。ガソリン、ディーゼルを問わず、CO2を排出する内燃機関を減らそうという取り組みです。崇高な理念に根ざしたEUらしい未来志向の姿勢を感じます。いや、「理念だけは素晴らしい」というべきでしょうか。理想論は耳触りはよいのですが、現実から乖離した目標は竜頭蛇尾に終わるのが世の常。結局、2023年3月、一部のエンジン車許容へと方針の転換がなされました。
 電気自動車にシフトするためには、ただ電気自動車を販売すればよいわけではありません。ガソリンスタンドを充電ステーションに置き換える等のインフラ整備は必須ですし、何よりバッテリーは劣化しますから定期的な交換が必要となります。バッテリー生産ラインの強化も忘れてはなりません。
 そもそもEUはやや電力不足の状況にあります。電気自動車のために火力発電所を増設するようでは本末転倒です。加えて、性急な社会転換は雇用を不安定化させかねません。現実を直視せずに理念ばかりを追求しては立ち行かなくなることは火を見るより明らか。無理なものは無理。より現実的な対策が必要です。

 中国から発表された論文を興味深く読みました。2023年7月の「ネイチャーサステナビリティ」誌に発表された浙江大学の研究です【*4】。研究では2013年から21年にかけて収集した自動車の走行軌跡データを解析しています。自家用車に対象を絞り、「ドライバー攻撃性指数」を算出することで、人々が普段どのような運転をしているかを推定しています。
 解析の結果すぐにわかった事実は「ほとんどの方がエンジンからのCO2排出を最小化するような最適な運転をしていない」ことです。これは容易にイメージが湧きます。速度超過したり、ブレーキが遅れたりといった好ましくない状況は、車を運転する方ならば誰もが思い当たることでしょう。
 研究では不適切な運転をやめさせるよう行動変容を促すだけで、2050年までの総CO2の排出量を4億トン以上も減らすことができると試算しています。CO2に留まりません。排気ガスには一酸化炭素や窒素酸化物、PM2.5などの大気汚染物質も含まれています。つまり、政策的に電気自動車を推し進めることは大切かもしれませんが、同時にドライバー一人ひとりがエンジンの特性を理解し、理性を保った運転をするだけで、環境保護に貢献できるのです。
 ちなみに、中国の電気自動車の生産台数は、2位に大差をつけ、今や世界第1位に躍り出ています。国内の普及も急激に進み、先進国でもトップクラスの伸び率です。政府が補助金を出して後押ししたからです。しかし、この支援は2022年末で終了しました。さて、電気自動車の行方はいかに。中国はもちろん、世界の動向から目が離せません。

*1 Shumaker, E. T. et al. Observational study of the impact of a food safety intervention on consumer poultry washing. J. Food Prot. 85, 615-625 (2022).
*2 Awasthi, A. et al. Synaptotagmin-3 drives AMPA receptor endocytosis, depression of synapse strength, and forgetting. Science 363, (2018).
*3 Navarro Lobato, I. et al. Increased cortical plasticity leads to memory interference and enhanced hippocampal-cortical interactions. Elife 12, (2023).
*4 Xia, Y. et al. Future reductions of China’s transport emissions impacted by changing driving behaviour. Nat. Sustain. 6, 1228-1236 (2023).

池谷裕二
1970(昭和45)年、静岡県生まれ。脳研究者。東京大学薬学部教授。薬学博士。神経科学および薬理学を専門とし、海馬や大脳皮質の可塑性を研究。著書に、『海馬』(糸井重里氏との共著)『脳はこんなに悩ましい』(中村うさぎ氏との共著)『受験脳の作り方』『脳はなにかと言い訳する』『脳には妙なクセがある』など。

新潮社
2025年5月5日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

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