不倫相手の子を宿した女性が本妻と同居生活…奇妙な家族関係を描いた吉川トリコの長編小説 『裸足でかけてくおかしな妻さん』試し読み

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『余命一年、男をかう』や『あわのまにまに』で、近年、様々な人間関係を描いた話題作を発表している吉川トリコさんの最新長編『裸足でかけてくおかしな妻さん』が刊行されました。

 妊娠中の楓は、お腹の子の父親である太陽の提案で、太陽の妻・野ゆりと一緒に暮らすことに。積極的に楓の世話を焼く野ゆりの本心がわからないまま続く、むちゃくちゃな同居生活の行く先は……。

 一風変わった家族小説とも言える本作の冒頭部分を、試し読みとして公開します。

第一章 楓

   1

 世界の果てにきてしまった。
 東京から名古屋まで新幹線、そこから在来線に乗り換えてさらに一時間十五分。電車を降りると、木造の古い駅舎が楓を出迎えた。太陽は高く、白飛びしたようなおもての風景とは対照的に駅舎の中は濃い影に塗りつぶされていた。
 壁に貼り出された時刻表は、上りと下りそれぞれ一時間に一本しか電車がこないことを示している。バスの案内板は確認するまでもないだろう。タクシー乗り場にはタクシーの一台もなく、駅の前にぽつんと一軒、喫茶店なのかスナックなのか、営業しているのかどうかも怪しい「ミカド」という看板を掲げた店があるだけだった。駅舎の天井に設置された扇風機がゆっくりと首をまわし、ぱさついた楓の髪を流していく。
 ここから逃げ出すのは、そうかんたんではなさそうだ。着いて早々この町から出ていく方法について考えていると、深緑色の大きな車が駅前に滑り込んできた。「買っちゃった、ディフェンダー」といつだったか先生が写真を見せてくれたことがあったが、角ばったフォルムがあのときの写真と似ている気がする。楓にはベンツぐらいしか車の区別がつかない。
「ごめん、待った?」
 運転席から飛び降りてきた先生は、都内のカフェで待ち合わせていたみたいな軽い調子で言って、楓の手からボストンバッグを奪った。先生と楓が会うのはいつも密室で、都内のカフェどころか太陽の下、こんなふうに顔を合わせるのははじめてだった。なんか照れる、と楓がはにかんだら、なにがよ、と先生も笑った。
 東京ではきれいに整えられていた先生の髭が伸びっぱなしになっている。知らない人みたいでなんだか楓はどきどきする。薄ピンク色のレンズが入った眼鏡。ぴかぴかに磨きあげられたイギリス製の革靴。真夏だというのにわざわざ長袖のシャツを着て、袖をまくりあげている。腕時計は大学の入学祝いに祖父から買い与えられたという古い型のセイコー。
 手に取るもの、身につけるものひとつひとつに先生は明確な意図を持っている。楓からすると意味不明のことばかりだったが、ひとつひとつ、そのストーリーを聞かされるたびに不思議と胸が高鳴った。楓の知らない世界、楓の知らない時代を生きてきた人。そこが同年代の男の子たちとはぜんぜんちがう──そういうことを楓が言うと、「どうちがうの、くわしく教えてよ」と先生はしつこく聞きたがる。にやにやしながら、うれしそうにしている。先生は、かわいい。
「荷物、これだけ?」
「昨日、段ボール三個送ったから、明日とどく」
「あ、そういうこと、後乗りでね」
「着払いにしちゃったけど、よかった?」
「ん、了解」
 後部座席にボストンバッグを放り込むと、先生は運転席に乗り込んだ。車高がある上にステップも高い位置にあるから、腹をかばいながら助手席に乗り込むだけで一苦労した。シートベルトも締め切らないうちに車が動きはじめたので、せっかち、と非難するようにつぶやいたら、妻にもよく言われる、と先生が笑った。窓の外にひろがる景色を眺め、もう戻れないんだな、と楓は思う。戻るって、でもどこに? そんな場所どこにもないのに。
 駅前の集落を抜けたとたん、あとはもう山と川と田畑が広がるばかりで、コンビニの一軒も見あたらなかった。緑と緑のはざまに宇宙人の棲み処のような太陽光パネルの一群が唐突に顔を出し、面食らいながら楓はスマホの画面に目を落とした。
「3Gって! こんなところにほんとに住めるの?」
「住める、住める」笑いながら先生は軽い調子で言う。「ネットもない時代にこんなところで育った人間がここにいるから安心しな。いまはネットでなんでも買えるし、車で三十分ぐらい行ったところに温泉街があって、そっちはだいぶひらけてるからそこまで不便じゃないよ」
 車で三十分。運転免許証を持っていない楓には異国よりも絶望的な距離だった。
「コロナで都会からの移住者もずいぶん増えたんだって。子育てするには最高の環境だから、これからもっと増えるんじゃないかな。古民家を改修したカフェとかゲストハウスとか、若い人たちがあちこちではじめてるみたいよ」
 どうせオーガニックとかそっち系なんだろうなと思いながら、「その移住者に、もしかして私も入ってる?」と楓は訊ねた。
「いや、どうだろう? うちは妻が補助金を申請するって言うから夫婦で住民票を移したけど……あれ、楓って住民票どうなってるんだっけ?」
「よくわかんないから、そのままにしてある」窓の外に目をやったまま楓は答える。
「よくわかんないよな、そういうのって」そう言って先生がまた笑ったから、調子を合わせて楓も笑っておいた。「俺も妻にまかせっきりだから、楓も相談してみたらいいよ。きっと、いいようにしてくれると思う」
「さすがにそれは……」
 気が引ける、とまでは口にせず、楓はスマホを操作した。「移住 補助金」で検索をかけると、「単身で六十万円以内、世帯で百万円以内」とある。楓は自分が「単身」なのか、それとも「世帯」に組み込まれるのか、よくわからなかった。先生に訊いたところで、「楓は僕らの家族だよ」といったような薄きらびやかな答えしか返ってこないことは想像がついた。おひさまのにおいのする、なんの腹の足しにもならない言葉。
「だめだ3G、遅すぎて苛々する。大丈夫かな、限界感ハンパないんだけど」
「大丈夫だって、うちにはWi-Fiも通ってるから」
「先生もしかして、Wi-Fiがあるって言えば若い女みんな喜ぶと思ってる?」
「ちがうの?」
「ちがわない。Wi-Fi最高。愛してる」
 雨風をしのいで安心して眠れる場所がある上に、食べるものに困らず身のまわりの世話をしてくれる人までいて、Wi-Fi完備。こんな夢のような生活を与えてくれるなんて、楓にとって先生はまちがいなく神様だった。ここが岐阜の僻地でさえなければ。
 さぞ立派な家なのだろうと想像していた先生の家は、だだっ広い敷地にちんまりと建つ、よくある田舎の家だった。昔ながらの屋根瓦に土壁の古ぼけた家。とてもリフォームしたばかりには見えなかった。まわりに何軒か似たような家が寄り集まり、すぐ裏には竹林が広がっている。
「たぬきっ」
 車を降りてすぐ、風鈴の音のように涼やかな声が聞こえた。たぬき? とびっくりしてあたりを見まわしていると、開け放した縁側から女の人が裸足で飛び出してきた。ぴょんと庭に降り立ち、そのまま軽やかな足取りで畑のほうへかけていく。
「いまのが野ゆり。うちの妻」
「思ってたのとちがう」
「こっちにきてから、ずいぶん逞しくなったからね」
 呆気にとられる楓の横で、先生が体をくの字にして笑った。妻さんとの初対面にそなえ、新幹線の車中からずっとぴりぴり身構えていたのに、気勢をそがれてしまった。もしかしてこれも、向こうの手の内なんだろうか。
「緑がうるさい」
 目から耳から──五感すべてから、身内に押し入ってくる暴力的な気配に楓は顔をしかめた。駅の周辺では感じなかった、生きものの濃厚な気配に息が詰まる。ピンヒールのミュールをとおして、ごつごつした砂利の感触が足裏に伝わる。
「緑? 虫の音じゃなくて?」
「ちがう」楓は首を横に振った。先生は平気なんだろうか。こんなにうるさいのに。それともここで暮らしているうちにすぐに慣れてしまうものなんだろうか。
「緑がうるさい、か」
 スマホを取り出し、先生が素早く文字を打ち込む。職業柄、こんなふうに会話を中断し、楓の発した言葉をメモに取ることが先生にはよくあった。
 先生は金村太陽という名でこれまでに七冊の本を世に出している。先生が小説を書いて稼いだ金で楓は暮らしている。だから、楓の言葉は先生のものだった。
 おそらく同じように妻さんの言葉も採集しているのだろう、そうして書かれた小説が『人青(じんせい)』なのだろうと楓は想像する。拾い集めたどんぐりを得意げに披露するリスの姿が浮かび、思わず笑ってしまう。だめだ、かわいい。どうしたって楓は先生を憎めなかった。
 楓はゆっくりと息を吸って吐いた。陽射しは強いけれど、東京よりはいくらか涼しくて、呼吸もしやすかった。
「東京の空気とはぜんぜんちがうよな。めっちゃマイナスイオン出てる」
 そう言って先生も目をつぶり、両手を広げて空を仰いでいる。朝ドラのヒロインでもいまどきこんなムーブはしないだろうと冷めた目でそれを眺め、そうか、はしゃいでいるのか、とようやく楓は理解する。今日の先生はなんだか妙にテンションが高い。
「マイナスイオン?」
 つめたく刺すような声がしてふりかえると、両腕にとうもろこしを抱えた妻さんが畑から戻ってくるところだった。なんとなく視線を合わせられなくて、土にまみれた妻さんの素足に楓は視線を落とす。
「マイナスイオンなんて存在しない、だろ。はいはい、わかってますわかってます」それ以上を言わせまいと、急いたように先生が言う。「ニュアンスじゃん、ニュアンス。いかにもマイナスイオン的ななにかが出てるかんじ、するじゃん。フィトンチッドとでも言い換えるべき?」
 そんな先生を見るのも、楓ははじめてだった。楓の前ではいつも余裕ありげな大人の顔をしているのに、悪戯を咎められた子どもみたいな顔をしている。
「ごめんなさい、いきなりみっともないところをお見せしちゃって。お昼の準備してたら、裏からたぬきが出てくるのが見えて」
 先生を無視して、妻さんは楓に向かってほんの少しだけ頭を下げた。
「たぬき、出るんですね」
 ほかに言うべきことがある気がしたが、反射神経で答えていた。その場を取り繕うために惰性でする会話。
「そうそう、ちょっと目を離したすきに畑を食い荒らされちゃうから毎日戦いで。ほかにも猿とか猪とか……」
「わあ、たいへんですね」
「えっと、楓さん、でいいのかな」と言ってから、なんかちがうな、というふうに妻さんが首を傾げた。「楓ちゃん?」
「どっちでも」と楓は首をすくめた。「そのときどきのノリで」
「ノリ……」
 妻さんが口にすると、ぜんぜん別の意味合いの言葉のように聞こえた。
 白い肌に散ったそばかすとちぎったようなおかっぱ頭。化粧もしていない。頭からすっぽりかぶるだけの麻のワンピース。四十をすぎているはずだが、どこか少女っぽい雰囲気がある。
 いかにも先生が自分の妻に選びそうな女でもあったし、意外といえば意外なような気もした。楓の中で像を結んでいたイメージ──つめたくおしゃれな都会の女の面影がまったくないかといったら、そういうわけでもない。
「野ゆりと楓、どっちも植物の名前だね。太陽がないと生きていけない」
 うまいことを言ったとばかりに声をあげて先生が笑った。妻と愛人を前にしてそういうことをしれっと言ってしまえる神経を疑ったが、よくよく考えてみればこの場にいる妻さんも妻さんでどうかしているし、楓も楓でどうかしているのだった。
 そういうのを目クソ鼻クソを笑うって言うんだよ。
 いつだったか、なにかの折に先生が口にした言葉にぴったりの状況だった。それでも妻さんが目クソで楓が鼻クソなら、先生はただのクソだと楓は思った。目クソ鼻クソとクソだったら、どう考えてもクソのほうが汚い。
「お腹空いたでしょう? これ、すぐ茹でちゃうからお昼にしましょう」
 そう言って、このぎくしゃくとした顔合わせから先に逃げ出したのは妻さんのほうだった。

以上は本編の一部です。詳細・続きは書籍にて

吉川トリコ
1977年生まれ。名古屋市在住。2004年「ねむりひめ」で「女による女のためのR-18文学賞」第3回大賞および読者賞を受賞。同年、同作が入った短編集『しゃぼん』にてデビュー。2021年エッセイ「流産あるあるすごく言いたい」(『おんなのじかん』所収)で第1回PEPジャーナリズム大賞オピニオン部門受賞。2022年『余命一年、男をかう』が第28回島清恋愛文学賞を受賞。他の著書に「マリー・アントワネットの日記」シリーズ、『夢で逢えたら』『流れる星をつかまえに』『あわのまにまに』『コンビニエンス・ラブ』などがある。

新潮社
2025年5月8日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

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