明仁天皇(現上皇)と美智子皇后(現上皇后)はミクロ化した「国体」を確立した。
戦後の新憲法で「国政に関する権能を有しない」と規定されたにもかかわらず、実際のところ、天皇は今なお権力の主体であり続けている――政治思想史家の原武史さんは、新刊『日本政治思想史』(新潮選書)で、このように主張しています。
天皇が権力の主体として行動した一つの事例として挙げられているのが、2016年8月8日に明仁天皇(現上皇)が退位の意向をにじませた「おことば」の発表です。同書第15章「象徴天皇制と戦後政治」から一部を抜粋・編集し、試し読みとして公開します。
-
- 日本政治思想史
- 価格:2,035円(税込)
天皇制の現在
1989年1月7日、1年あまりに及ぶ闘病生活の末、昭和天皇が死去しました。元号は平成に変わり、天皇明仁(現上皇)と皇后美智子(現上皇后)が即位します。昭和天皇という、戦前の男性的な軍事指導者の面影を戦後もなお残す天皇がいなくなったことで、皇后化した天皇制としての象徴天皇制の姿が一層あらわになりました。
明仁と美智子は、1959年の結婚以来、ほぼ必ず2人そろって全国を回り、福祉施設や病院、ハンセン病などの療養所を訪れてきました。2019年4月に退位するまでに、全都道府県を2人で少なくとも3回は訪れています。北は北海道の宗谷岬から西は沖縄県の与那国島まで、離島を含めてくまなく回っています。
また2人は皇太子(妃)時代に沖縄県の沖縄本島や伊江島、さらに天皇、皇后時代に東京都の硫黄島、サイパン、パラオ、フィリピンなど、海外を含む太平洋戦争の激戦地を訪れたほか、天皇、皇后時代には地震や津波、台風、豪雨、火山の噴火などの被災地や避難場所にも、2人で頻繁に足を運んできました。
訪問した場所で、明仁と美智子はともに膝をつき、1人ひとりに同じ目の高さで話しかけたり、そろって黙祷したりしています。昭和天皇の巡幸や行幸の途上で見られたような、天皇と万単位の臣民が一体となることで「国体」が視覚化される「君民一体」の空間は、もはや成立しなくなっています。しかし地方訪問のたびに、政府や国会などを媒介とせず、天皇、皇后と1人ひとりの国民が直接つながる関係をずっと築いてきたという意味では、ミクロ化した「国体」が確立されてきたとも言えるのです。
現実の政治が権力にまみれ、社会的弱者や被災者に対して有効な対策をなし得ていないと映れば映るほど、天皇や皇后の存在感は増し、カリスマ性が引き立つという構造は、平成になってむしろ強化されました。この点では、三島由紀夫が批判した「週刊誌天皇制」のもとでも、天皇のカリスマ性はなお保たれていると言えるわけです。
天皇明仁は、2011年3月11日に起こった東日本大震災の5日後、初めてテレビの前で「東北地方太平洋沖地震に関する天皇陛下のおことば」と題するビデオメッセージを読み上げました。昭和初期の超国家主義では、下からの「君民一体」を求めて、政府や議会などの要人を暗殺するテロやクーデターが起こりましたが、このときは1945年8月15日の玉音放送と同様、天皇の側が政府や国会を飛び越え、国民に直接訴えかけようとしたのです。「おことば」は、地震や津波、原発事故などで動揺していた国民の心を落ち着かせるうえで、政治家よりもはるかに大きな影響力を及ぼしました。
実は2009年頃から、天皇明仁は非公式な場で退位の意思を表明していました(井上亮『比翼の象徴 明仁・美智子伝下 平成の革命』、岩波書店、2024年)。ところが12年に成立した第2次安倍晋三政権は、天皇の意思に従って退位を認めてしまうと憲法に抵触することを恐れ、十分な対応をとろうとはしませんでした。16年8月8日に天皇が再びテレビに出演し、「象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば」と題するビデオメッセージを10分あまりにわたって読み上げたのは、11年3月の「おことば」が国民に大きなインパクトを与えたという前例を踏まえ、国民に向かって直接退位の意思を強くにじませることで、国民の圧倒的支持をとりつけ、政府や国会を動かそうとする政治的意図があったからだと思われます。
天皇(およびその意を受けた宮内庁)の狙いは見事に的中し、17年6月に「天皇の退位等に関する皇室典範特例法」が成立します。退位を認めない皇室典範そのものは変えないまま、1代限りの例外として退位を認めたのです。
特例法に従う形で、天皇明仁は19年4月30日に退位して上皇となり、5月1日には新天皇徳仁(なるひと)が即位しました。こうした一連のプロセスは、憲法に抵触しないようにするための手続きを踏んでいるとは言え、天皇が国政に関する権能を有しないことを定めた憲法第4条に照らし合わせてみると、問題がなかったとは言い切れません。
天皇明仁は、16年8月の「おことば」で単に退位を強くにじませただけではありませんでした。自ら象徴の務めにつき、積極的に定義しているからです。
「私はこれまで天皇の務めとして、何よりもまず国民の安寧と幸せを祈ることを大切に考えて来ましたが、同時に事にあたっては、時として人々の傍らに立ち、その声に耳を傾け、思いに寄り添うことも大切なことと考えて来ました。」(宮内庁ホームページ)
「国民の安寧と幸せを祈ること」は宮中祭祀を、「人々の傍らに立ち、その声に耳を傾け、思いに寄り添うこと」は行幸(ないしは行幸啓)を指しています。宮中祭祀も行幸も、そのほとんどは天皇の権力が増大する明治になってつくられたり、大々的に復活したりしたものです。それらを戦後になっても明治、大正、昭和の各天皇より熱心に続け、ついには「象徴としてのお務め」の二大柱としたのです。
本章第1節で述べたように、宮中祭祀は「私的行為」、行幸は「公的行為」に当たります。どちらも「国事行為」ではありません。憲法の条文には明記されていない行為が、象徴の中核に位置づけられたわけです。
憲法第1条に規定された国民主権の原則を踏まえれば、象徴の具体的中身について不断に議論するべき主体は、私たち国民自身のはずでした。1946(昭和21)年6月に第1次吉田茂内閣の憲法担当国務大臣となった金森徳次郎(1886~1959)は、「国民はこれから新たに象徴と云う言葉に当嵌(あてはま)る内容を自ら研究し、自ら案出を致しまして、恐らくはこの憲法の考えて居るような正しき意味に了解して呉(く)れるであろう」と述べています(清水伸編『逐条日本国憲法審議録第一条天皇』、日本世論調査研究所、1962年)。しかし実際には、天皇明仁から「象徴とは何か」という問題提起が投げかけられるまで、私たちは議論らしい議論をほとんどしてきませんでした。
前述のように、2019年5月1日には新天皇徳仁が即位し、元号は令和に改まりました。明治から大正、大正から昭和、昭和から平成と、代替わりのたびに天皇制のスタイルが大きく変わってきたことを踏まえれば、「令和」が「平成」と全く同じということはあり得ません。実際に令和になると、それまでのマス・メディアに代わり、SNSのような個人が参加可能なメディアによって、天皇制が「消費」されるようになりました(河西秀哉『皇室とメディア 「権威」と「消費」をめぐる一五〇年史』、新潮選書、2024年)。また2020(令和2)年から世界的に大流行した新型コロナウイルスによって、現上皇が象徴の務めの一つとした行幸(ないしは行幸啓)ができなくなる状況がしばらく続きました。
天皇徳仁と皇后雅子は、皇居でオンラインによる行幸啓を始めるなど、こうした時代の変化に対応した新しい象徴のスタイルを模索しています。2024年4月からは、宮内庁がインスタグラムを始め、SNSで情報を発信しています。しかしもう一度繰り返しますが、天皇制のあり方は本来、主権者である国民自身が議論して決めるべきことでなければなりません。現行の皇室典範に基づき、男系男子による皇位継承に固執するのか、それとも皇室典範を改正して女性天皇や女系天皇を認めるのか、さらには男系にせよ女系にせよ女性に子どもを生ませることを前提とする天皇制というシステムそのものを見直すのかも含めて、「平成」の反省を「令和」にどう生かすかが問われているのです。
株式会社新潮社のご案内
1896年(明治29年)創立。『斜陽』(太宰治)や『金閣寺』(三島由紀夫)、『さくらえび』(さくらももこ)、『1Q84』(村上春樹)、近年では『大家さんと僕』(矢部太郎)などのベストセラー作品を刊行している総合出版社。「新潮文庫の100冊」でお馴染みの新潮文庫や新潮新書、新潮クレスト・ブックス、とんぼの本などを刊行しているほか、「週刊新潮」「新潮」「芸術新潮」「nicola」「ニコ☆プチ」「ENGINE」などの雑誌も手掛けている。
▼新潮社の平成ベストセラー100
https://www.shinchosha.co.jp/heisei100/
関連ニュース
-
先週一番売れた本[文芸書] 1位はコンビニで働く著者による芥川賞受賞作『コンビニ人間』
[ニュース](日本の小説・詩集/海外の小説・詩集/歴史・時代小説/経済・社会小説/ミステリー・サスペンス・ハードボイルド/心理学/評論・文学研究)
2016/08/17 -
畠中恵のサイン会が開催 「しゃばけ」シリーズ最新刊『むすびつき』刊行記念
[イベント/関東](歴史・時代小説/SF・ホラー・ファンタジー)
2018/07/31 -
「今一番しっかりした教養番組」作家・天童荒太が読書バラエティ「ゴロウ・デラックス」を絶賛
[ニュース/テレビ・ラジオで取り上げられた本](日本の小説・詩集/ミステリー・サスペンス・ハードボイルド)
2018/07/07 -
西きょうじ特別講義 「そもそも、私たちが生きているのは『たまたま』である」
[イベント/関東]
2017/05/02 -
大人気ファンタジー時代小説「しゃばけ」最新刊はミュージカル版キャストとのコラボも[平野良・藤原祐規]
[ニュース](日本の小説・詩集/歴史・時代小説)
2017/07/29