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- 夜想曲
- 価格:814円(税込)
奇想と論理の新本格派が贈る、華麗なる論理パズル。
同期会が催された山荘で三日三晩に三人のメンバーが絞殺された。俳優の桜木も会に参加していたが、なぜか、その間の記憶を失っていた。ただひとつ、誰かの首をロープで絞めた生々しい感触をのぞいては……。
角川文庫編集部が魂を込めて復刊した、依井貴裕による傑作ミステリ『夜想曲(ノクターン)』の冒頭を特別公開します。
序編 過去へ
意識が戻ったとき、桜木は汗で全身が冷たくなっていた。手の感触に、悪夢が現実になったのかと恐れたが、握り締めていたのは濡れたタオルだった。
深くため息をつき、ゆっくりと周りを見回してみる。壁に作り付けの本棚には、映画や演劇に関する本が並んでいた。よく使い込まれた感じの天然木の机。黒い革張りの椅子。いつもの書斎だった。気を失っていたのは、そう長い時間ではなかったらしい。あの椅子に坐って手紙を読んでいたところまでは、桜木ははっきり覚えている。
床に頭をぶつけて、記憶を失くしていないかと思ったが、大丈夫のようだった。戸棚のガラス扉に映る自分の影も、不安を掻き立てるところはない。机に向かっていたときと違うのは、どこからか現われたタオルを手にしていたことだけだ。よほど固く握り締めていたとみえて、腕にだるいような痛みが残っている。
手紙を読んでいるうちに、桜木は気が遠くなり、床に投げ出されるようにして倒れた。そこで意識を失ったと思うのだが、そこから先は夢か現実か、よく分からなかった。
顔の見えない相手の首に、幾重にもロープを巻きつけ、じわじわと絞め上げていく。反り返った喉の滑らかな曲線が、目の裏に眩しく焼きついていた。ロープを持つ手に伝わってくる、何ともいえない振動と衝撃。現実に体験したとしか思えない生々しさで、その場面が繰り返し再現される。
桜木は、かなり白いものの交じった髪を、左手で掻き上げた。銀幕の中で自分を特徴づけるために始めた動作だったが、何十年も経つうちに、知らず知らず自分の癖になっていた。板張りになった床は、冬の陽が差し込んでいるとはいえ、相当冷たくなっている。桜木は手で身体を支えながら、ゆっくりと立ち上がった。
特に痛いところはなかった。椅子から転げ落ちても、どこも打たなかったようだ。子供の頃に武道で鍛えたのが、壮年に近い年齢になっても財産として残っているのだろう。俳優の仕事を休業してはいたが、桜木はまだ体力に自信があった。
しかし、それとは反対に、精神的な面での自信は今やほとんど崩壊しつつあった。何故あんな悪夢を何度も見るのだろう。ロープで首を絞めた痺れにも似た感触が、紛れもなくこの手に残っている。頭の中で繰り返し再生される場面は、本当に夢に過ぎないのか。自分の知らない間に、人を殺したのかもしれない、そんな恐ろしい考えに、桜木は取り憑かれていた。
「あ、先生、大丈夫だったんですか?」
開いたままになっていたドアの脇から、外丸須美乃が顔を覗かせて言った。桜木が若かった頃の女子学生みたいに純情な娘だった。小さな顔ににきびの跡を残しているが、目がくるっとして愛らしい。本業の俳優以外に、エッセイなども書く桜木のことを、須美乃はいつも先生と呼んでいる。
「ん、ああ」
曖昧に返事を濁しながら、桜木は背凭れの高い椅子に身を沈めた。身体は何ともなかったが、本当に大丈夫なのかどうかは、自分でもはっきり分からなかった。
「よかった」
きっと見た目はいつもと変わらないのだろう。須美乃は桜木の言葉を、肯定的な意味に受け取ったようだった。
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