【映画原作】戻れない! 15歳で同級生の女子と入れ替わった少年はそのまま結婚、出産まで――!? 君嶋彼方『君の顔では泣けない』試し読み

試し読み

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高校1年生の坂平陸は、ある日突然クラスメイトの水村まなみと体が入れ替わってしまう。どうやら一緒にプールに落ちたことがきっかけのようだ。

突然のことに驚き、戸惑いながらも入れ替わったことはお互いだけの秘密にしようと決めた2人。しかし意外やそつなく坂平陸として立ち振る舞うまなみに対し、陸はうまく水村まなみとして振る舞えず、落ち込む日々が続く。まなみの家族との距離感、今まで話したこともなかったまなみの友達との会話、部活の顧問からのセクハラ……15年間、男子として生きてきた自分が、他人の人生を背負い女性として生きること。

いつか元に戻れる日を諦めきれないまま、それでも陸は高校を卒業し上京、そして結婚、出産と、水村まなみとしての人生を歩んでいくことになる――入れ替わった後の15年を圧倒的なリアリティで描く、第12回小説野性時代新人賞受賞作!!

2025年11月に芳根京子さん、King & Princeの髙橋海人さんの初共演で映画化が決定した『君の顔では泣けない』(君嶋彼方・著)より、冒頭の一部を公開します。

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 年に一度だけ会う人がいる。夫の知らない人だ。

 その日はいつもより一時間以上早くアラームが鳴る。夫と娘が目を覚ます前に素早く音を止め、息を殺してゆっくりと布団から這い出る。娘が蹴飛ばしたブランケットをかけ直す。

 リビングに向かい、カーテンを開ける。七月ともなると六時前にはもう日が高い。いつもこの日はいい天気だ。今日もその法則に違わず、高い空には雲一つなく太陽が煌々と照っている。普段は見上げたりしない空を仰いでみる。

 炊飯器を開ける。セットしたタイマー通りに米がきちんと炊けているのを確認すると、蓋を閉じて、トイレに行って顔を洗い、歯を磨く。昨日は早く床に就こうと思っていたものの、なんやかんや二時過ぎまで寝られなかったのですこぶる眠たい。着替えを終え、化粧は新幹線でしちゃえばいいか、と一瞬思ったものの、席に座るやいなや眠ってしまう自分の姿が容易に想像できて、どうにか自らを奮い立たせて化粧道具を手にする。

 結婚して子供ができて、着飾ることからいつの間にか遠ざかりつつあるが、今日は久々に気合を入れる。あいつに老けたなとか変わったなとか思われるのが一番むかつくのだ。

 化粧を終えて壁にかけた時計を見上げる。家を出る時間まで少しだけある。シンクに溜まっている水に浸けたままの食器を洗い始める。

 家族三人が詰まった小さな部屋は、物が多く雑然とはしているものの、きちんと片付いている。これでも家が不快な場所にならぬよう充分に気を配っているつもりだ。室温も匂いもクッションやソファや布団の柔らかさも、常に最適に保っていなければならない。

 八分目まで腹を満たしたごみ袋を箱から取り出し、新しい袋を取り付ける。口を縛って玄関先まで持っていく。もう一度用を足し、手を洗うと足音を殺して寝室へ再び入る。

 夫は気配に気づくことなく、大きな体躯を丸めてすやすやと眠っている。その隣で娘も同じ格好をして寝ている。また蹴飛ばされたブランケットをそっと拾って、娘にかける。エアコンの除湿を温度高めでつけて、夫のくしゃくしゃの癖っ毛を撫で「いってきます」と小さく声をかける。返事とも寝言ともつかない低い呻き声が聞こえてきた。
 
 

君嶋 彼方
1989年生まれ。東京都出身。「水平線は回転する」で2021年、第12回小説野性時代新人賞を受賞。同作を改題した『君の顔では泣けない』でデビュー。

KADOKAWA カドブン
2025年7月22日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

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