【映画原作】「あなたみたいな顔に生まれたかった」合コンに失敗した腐女子が歌舞伎町で出会った美人キャバ嬢は…… 金原ひとみ『ミーツ・ザ・ワールド』試し読み

試し読み

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実写映画化決定! 主演・杉咲花×監督・松居大悟で2025年10月24日(金)全国公開予定。

焼肉擬人化漫画をこよなく愛する腐女子の由嘉里。恋愛経験ゼロで、人生二度目の合コンも失敗した帰り、新宿歌舞伎町で美しいキャバ嬢・ライと出会う。「私はこの世界から消えなきゃいけない」と語るライに、「生きてなきゃだめです」と詰め寄る由嘉里。正反対の二人は一緒に暮らすことになって――。世間の常識を軽やかに飛び越え、新たな世界の扉を開く傑作長編。第35回柴田錬三郎賞受賞作。

死にたいキャバ嬢と推したい腐女子の出会いを描く『ミーツ・ザ・ワールド』(金原ひとみ・著)より、冒頭部分を公開します。

 ***
 
 歩けない。歩けなかった。人生の中で自分の意思で歩けないという記憶がなくて、今自分が歩けないことが恐ろしくて仕方ない。しゃがみ込んでいた体から力が抜け、尻を地面につけた瞬間もうここで死ぬのかもしれないと思う。私はこんなところで、こんなに惨めな気持ちのまま、こんなになす術もなく処女のまま死んでいくのか。そう思った瞬間涙が溢れた。トモサン助けて。手を伸ばせない相手への思いだけが体に渦巻いている。悲しかった。身体中の感覚が鈍って、血の気が引いて、猛烈に気持ち悪くて、手が震えていて、さっきまで食べていた熟成肉が溢れ出しそうなのに、ただただ悲しかった。つまらない人生だった。我が人生をそう締めくくると、涙がアスファルトを濡らした。

「救急車呼んだ方がいい感じ?」

 頭上からかけられた言葉に顔を上げた瞬間、ぐっと肉がこみ上げたのが分かった。ふらついているサラリーマン、バカみたいに騒いでいる大学生、何だかよく分からない若い女とおじさんのカップル、時間感覚を喪失した蝉の鳴き声、輝くネオンにドブの臭い。子供の頃、くるくると回しながらレンズを覗き込むと世界がキラキラに見える筒状のおもちゃを持っていたのを思い出す。今私の世界はあの時のキラキラだけが損なわれ、ただ不明瞭にぐるぐる回っている。それでも一点だけ動かないその中心に、怪訝そうな美しい顔があった。

「……うわあ」

「大丈夫?」

「綺麗な人」

「ありがとう」

「あなたみたいになりたかった」

「まあ三百万あればあんたでもなれるんじゃない?」

「三百……?」

 三百万が目の前にあるような気がして、その三百枚の紙幣に触れてきた人々の手から一枚一枚の紙幣に移った皮脂が自分に塗りたくられた気がして黙り込んだ次の瞬間、思い切り嘔吐した。予想外の勢いの嘔吐に、腕から手にかけて吐瀉物にまみれたのが分かる。肉の脂の臭い胃液の臭い無理して飲んでいたカシスオレンジの甘味酸味飲みに行く前に酔い防止のために飲んだ二百ミリリットルの牛乳の生臭さ。それらのミックスは最高に臭くて自分のゲロ臭に思わず顔をしかめる。うわ、と一言彼女の引いた声が聞こえた。喉の奥に詰まっていたそんなあれこれが蓋になっていたかのように、嘔吐の後にはとめどなく涙が流れた。ぼろぼろという音が聞こえそうなほど勢いよく大きな滴が目から垂れる。

「あなたみたいになりたかった。あなたみたいに生きたかった。あなたみたいな顔に生まれたかった」

 最後には「くそう」と久しぶりに口にする罵倒の言葉が溢れた。大声で泣き喚けたらいいのに。そう思いながら肩を震わせうっ、うっ、と呻いていると彼女はポケットティッシュを投げてよこした。

「三百万あげようか?」

 怒りの色を込めて彼女を見上げるけれど、涙は止まらないままだった。

「あんたが私の顔になって私になったらいい」

金原ひとみ
1983年東京都生まれ。2003年『蛇にピアス』で第27回すばる文学賞を受賞しデビュー。同作品で04年に第130回芥川賞を受賞。10年『TRIP TRAP』で第27回織田作之助賞を、12年『マザーズ』で第22回Bunkamuraドゥマゴ文学賞を、20年『アタラクシア』で第5回渡辺淳一文学賞を、21年『アンソーシャル ディスタンス』で第57回谷崎潤一郎賞を、22年『ミーツ・ザ・ワールド』で第35回柴田錬三郎賞を受賞。

集英社
2025年7月22日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

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