【第173回直木賞候補作】孫が通う保育園の「若いママ」に自転車を貸しただけなのに…“隣の悪意”から地獄が始まる 芦沢央『嘘と隣人』試し読み

試し読み

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ミステリ・ランキング常連の注目作家、芦沢央(あしざわ・よう)による新境地連作ミステリ! 地獄は始まる。あなたの隣の小さな悪意から……。

ストーカー化した元パートナー、マタハラと痴漢冤罪、技能実習制度と人種差別、SNSでの誹謗中傷・脅し……。リタイアした元刑事・平良正太郎の平穏な日常に、事件の数々が降りかかる。身近な人間の悪意が白日の下に晒された時、捜査権限を失った男は何を見るのか?

「該当作なし」で世間に衝撃を与えた第173回直木賞。その候補作嘘と隣人』(文藝春秋)の魅力を伝えるべく、超豪華な試し読みが実現! 第1話「かくれんぼ」と第2話「アイランドキッチン」の各冒頭を公開します。計1万8000字以上で読み応えたっぷり。芦沢ワールドをご堪能ください。

第1話 かくれんぼ

 歯が痛いことには、五日前から気づいていた。

 そのうち治まるだろうと市販の鎮痛剤でごまかしていたものの、これは無理だと認めざるをえなくなったのが、昨日の就寝前。氷枕で冷やしながら眠りにつき、今朝歯医者に電話をする頃には、元々どの歯が痛かったのかもわからなくなるほど右顎全体に波打つ痛みが広がっていた。

 十一時からなら診察できると言われ、十時半に家を出た。十分ほどで歯医者が入っているたまプラーザ駅ビルの駐輪場に着いたが、空いているラックが見当たらない。二列ほど確認してようやく空きを見つけ、自転車を担ぐようにして押し込んだ。

 ビルの入り口へと足早に向かいながら、二十七番、二十七番、と頭の中で唱える。

 それは正太郎にとって、一種の確認のようなものだった。帰りまで番号を覚えていられるかどうか。

 現役時代には意識せずともできていた。見聞きしたものをとりあえず覚えておくのは、刑事の習性だったからだ。現場検証や聴取で得た情報は、リアルタイムでは使えないことがほとんどで、街中を歩いているときに目に入った光景が後々意味を持ってくることもある。新たな情報が入ったときに結びつけられるよう、できるだけ取捨選択せずに映像のまま頭の引き出しに入れておかなければならない。

 何十年も習慣づけているうちに、自分は元々記憶をするのが得意な人間なのだと思うようになっていた。だが定年退職して一年半が経ち、そうではなかったのだと思い知らされている。今や、意識を向けなければ認識すらできないし、覚えておこうとしなければ忘れてしまう。

 歯医者に着いて受付を済ませると、十一時を五分過ぎたところで診察室に呼ばれた。

 口の中を検められ、レントゲンを撮られた結果下された診断は、やはり虫歯だった。

「かなり深くまでいってますし、痛みの出方からしても神経に達していると思います」

 若い男性の歯科医師はレントゲン写真を指さしながら言う。

「加齢に応じて歯のエナメル質が減っていくので、どうしても虫歯になりやすくなるんですよ。あと多いのは歯周病ですね」

 歯科医師はもう一度正太郎の口の中を確認して言い、カルテに何かを書き込んでいった。

「歯の状態からすると神経を抜いた方がよさそうではありますが、できるだけ神経を残したいというようなご希望はありますか」

「痛みが取れればなんでもいいです」

 正太郎は、白い天井を見上げたまま答える。

「それでは麻酔して根の治療をしていきますね」

 歯科医師はさらりと言うと、背後にいたスタッフに専門用語らしき言葉で指示を出し始めた。椅子がゆっくりと倒れていき、正太郎は遅れてヘッドレストに頭を委ねる。

 ――おまえ、虫歯一本もないんだろ。

 ふいに、柴崎の言葉が蘇った。

 若い頃からずっと目標にしてきた先輩でもあった柴崎が顎をさすりながら言ったのは、もう何十年も前、正太郎が被疑者の聞き込みを担当しながら重要な手がかりを見過ごしていたことが判明して課長から大目玉を食らった後だった。

 柴崎は正太郎を昼食に誘い、ラーメンを口の左側だけで咀嚼しながら「この仕事は食うのも寝るのも不規則だろ」と言った。風邪くらいなら気合いで何とかなるけど歯が痛いのはどうにもなんねえんだよなあ、と。

 柴崎は銀歯だらけの歯を見せて笑い、正太郎の背中を叩いた。

 ――おまえは刑事に向いてるよ。

 治療が終わり、会計を済ませて歯医者を後にしたときには、十一時半を回っていた。

 正太郎はゴムのような感触になった顎を指でつつきながら、駐輪場へ向かう。精算機の前まで来たところで動きを止めた。

 一拍置いて、二十七番という響きが浮かび、詰めていた息を吐く。操作を終えてラックから自転車を引き出した瞬間。

「あ」

 背後から高い声がした。

芦沢 央(あしざわ・よう)
1984年東京生れ。2012年『罪の余白』で野性時代フロンティア文学賞を受賞しデビュー。21年『汚れた手をそこで拭かない』が直木賞候補に。22年『神の悪手』で将棋ペンクラブ大賞優秀賞(文芸部門)、23年『夜の道標』で日本推理作家協会賞(長編および連作短編集部門)を受賞。その他の著書に『許されようとは思いません』『火のないところに煙は』『カインは言わなかった』『魂婚心中』等がある。

2025年8月20日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

文藝春秋

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