【第173回直木賞候補作】なぜ22歳の青年は「逃亡者」になったのか? 震災下の過酷な運命に抗う人々を描く 柚月裕子『逃亡者は北へ向かう』試し読み

試し読み

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『狐狼の血』『盤上の向日葵』『教誨』などのヒット作で知られる柚月裕子(ゆづき・ゆうこ)が地元・東北を舞台に描く最新長編!

雪がちらつく三月の東北。震災直後に殺人を犯し、死刑を覚悟しながらも一通の手紙を手に姿を消した青年・真柴亮。自らの家族も被災した一人の刑事が、執念の捜査で真柴に迫る。壊れた道、選べなかった人生――混沌とした被災地で繰り広げられる逃亡劇。

「該当作なし」で世間に衝撃を与えた第173回直木賞。その候補作逃亡者は北へ向かう』(新潮社)の魅力を伝えるべく、超豪華な試し読みが実現! 緊迫したシーンから始まるプロローグと第一章、2万字超の大ボリュームでお届けします。

プロローグ

 小さな影が、視界を遮った。

 雪だ。

 三月下旬ともなれば、西の方ではもう桜が咲いている。しかし、東北ではまだ雪がちらついてもめずらしくはない。だが、どうして今日なのか。絶対に失敗ができない日なのに。

 新井は、体育館の外壁から突き出た庇の上にいた。小学校で使用しているもので、外周には幅一メートルほどのコンクリートが、一階と二階を隔てる高さに張り巡らされている。新井はその庇の上に身を潜め、外から体育館のなかを見下ろしていた。

 気を引き締めて、スコープを覗いている目に意識を集中させる。構えている銃は、レミントンM七〇〇。命中精度が高い、ボルトアクション式のスナイパーライフルだ。照準は、ある男の頭部に定めていた。

 真柴亮、二十二歳。一般人の男性と警察官、計二名を殺害して逃亡している重要指名手配犯だ。

 いまからおよそ十日前の三月十四日、福島県さつき市で一般男性の他殺死体が発見された。警察の調べにより、事件に関する重要人物が捜査線上に浮かんだ。それが真柴だった。事件の管轄であるさつき東署は真柴の行方を追ったが、すぐに足取りは掴めなかった。

 そして、その翌日に、新たな事件が発生する。同県の会津市で、職務質問をした警察官が射殺されたのだ。事件を目撃していた女性の証言から、犯人は真柴である可能性が高いことがわかった。

 福島県警本部は、事件を管轄するさつき東署に特別捜査本部を設置し、真柴の行方を追った。

 真柴の目撃情報が入ったのは、最初の事件から六日後だった。場所は岩手県の山間部。真柴は福島県を出て、北へ向かっていたのだ。

 真柴が県を跨いで移動していることから、警察庁は真柴が起こした事件を広域重要事件に指定し、真柴の手配写真を公開した。じわじわと追い詰められた真柴が立てこもったのが、この岩手県の体育館だった。

 標的に狙いを定めてじっとしていると、ヘルメットに内蔵されている無線から声がした。

「こちら郷田。真柴の動きはどうだ。どうぞ──」

 郷田剛──岩手県警本部捜査一課長を務めている。

 体育館の周囲には、特殊カメラが設置されている。警察の技術支援班が、密かに取り付けたものだ。なかの様子はそれである程度把握できる。それでも郷田が訊いてきた理由は、画面越しでは伝わらない空気感が知りたいからだろう。

 無線のマイクに向かい、新井は小声で答えた。

「こちら新井。標的に動きなし。どうぞ──」

「人質はどんな感じだ」

 新井は真柴の左側を見た。ひとりの男児がいる。真柴の人質だ。真柴の脇に座っている。

「男児に変わった様子はありません。大人しくしています」

 新井がそう答えると、郷田がほっと息を吐く気配がした。続いて、厳しい声がする。

「警備局長からの指示は、すでに伝えてあるとおりだ。真柴は拳銃を所持している。人質に危害を加えるような素振りがあれば、射殺やむなし。速やかに職務を遂行しろ。慎重かつ的確な判断を求める。以上──」

 無線が切れる。

 新井は改めて、スコープの照準を標的に定めた。真柴の右側の床のうえには拳銃が置かれている。真柴が殺した警官から奪ったものだ。

 出動命令を受けた新井が、立てこもり現場の宮前小学校の体育館に到着したのは、今朝の午前五時近くだった。

新潮社
2025年8月20日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

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1896年(明治29年)創立。『斜陽』(太宰治)や『金閣寺』(三島由紀夫)、『さくらえび』(さくらももこ)、『1Q84』(村上春樹)、近年では『大家さんと僕』(矢部太郎)などのベストセラー作品を刊行している総合出版社。「新潮文庫の100冊」でお馴染みの新潮文庫や新潮新書、新潮クレスト・ブックス、とんぼの本などを刊行しているほか、「週刊新潮」「新潮」「芸術新潮」「nicola」「ニコ☆プチ」「ENGINE」などの雑誌も手掛けている。

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