【第173回直木賞候補作】「そんなに警戒しないでくれ。私も、愛知五中の出身なんだ」伝説の2人がタッグを組む歴史ミステリ 青柳碧人『乱歩と千畝 RAMPOとSEMPO』試し読み

試し読み

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日本ミステリー界の巨匠・江戸川乱歩(1894-1965)と、多くの人命を救った外交官で「東洋のシンドラー」と呼ばれる杉原千畝(1900-1986)。

同じ高校大学に通い、同じ時代を生きたふたりが、もしも学生時代に出会い友人となっていたら――。そんな大胆な発想で、今までの枠を超えた壮大な物語を青柳碧人(あおやぎ・あいと)が描く!

「該当作なし」で世間に衝撃を与えた第173回直木賞。その候補作乱歩と千畝 RAMPOとSEMPO』(新潮社)の魅力を伝えるべく、超豪華な試し読みが実現! 乱歩(本名・平井太郎)と杉原千畝が出会う第一話を、1万字近い大ボリュームでお届けします。

第一話 カツ丼とかけそば

一、

 燦さんたる初夏の陽光の下、早稲田の通りは学生でごったがえしている。絣の着物を着くずし、下世話な話で盛り上がっている集団がいたかと思えば、教授と思しき背広姿の男にぶら下がるようにして質問攻めにしているまじめな者もいる。薄っぺらい風呂敷包みを胸に抱え、穴八幡の石段に腰掛けて空を仰いでぼんやりしている者も……三年前に卒業したときとまるで変わらぬ思い思いの学生たちの姿がそこにはあった。

 大正八(一九一九)、五月十日。

 平井太郎は今年、二十五歳になる。若々しくはないがまだ学生に見えぬこともなかろうと無鉄砲にやってきたことを少し、後悔しはじめていた。明らかに教授でもなさそうな男が昼日中から学生街で何をやっているのか。気にする者もないだろうに、学生たちにじろじろ見られている気がする。

 大学へ向かう通りの入り口で立ち止まり、目当ての蕎麦屋の暖簾を眺める。三朝庵――太郎が在学中からある店だが、ついぞ入ったことはなかった。


絵・鳩山郁子

 どうしようか。入ろうか、入るまいか。

 ここまできて逡巡している自分が滑稽であった。何を恥ずかしがることがあろうか。右腕で暖簾を分けて入ると、

「いらっしゃいませ」

 四十ばかりの女給仕がこちらを向いた。昼時を少しすぎた時刻だが、店内は込み合っていた。

「相席でいいですか」

「あ、ああ……」

 そこ、と差されたのは、壁際の二人席。小柄な学生が一人本を読んでいる。「失礼」と言いながら椅子を引いて腰掛けると、学生はちらりと目を上げ、すぐにまた本に視線を戻す。

「ご注文は」

「カツ丼を」

 品書きを見ることなく、太郎は言った。学生時代に一度も食いに来たことのないこの店にわざわざ足を運んだ目的である。

 向かいの席の学生の本を見る。タイトルは英語である。自分もこのくらいのころは、辞書と首っ引きで英語の本を読み漁ったものだっけと、懐かしくなる。もっとも太郎の読んでいたのは、教科書ではなく海外の小説ばかりだったが。

「……おや」

 そのとき太郎の目は、卓の上、壁に立てかけてある茶封筒に留まった。目を細めてその茶封筒の隅に書かれている文字を読む。間違いない。「愛知五中」とある。

 改めて、学生の顔を見る。インクの字を追う、二つの小さな目――。

 声をかけようかかけまいか、迷った。元来、人間嫌いを自負している。蕎麦屋で相席になった相手に声をかけるなどということはない。

 だが……こんなこともあるか。

「愛知五中の出身か」

 学生は本から顔を上げ、太郎の視線の先を見てさっと封筒を回収した。とたんに恥ずかしくなったが、ここで引くのは却って不審だろう。

「そんなに警戒しないでくれ。私も、愛知五中の出身なんだ」

「先輩でしたか」

「ああ、明治四十五年の卒業だ。その年に早稲田予科に入り、大正五年に早稲田大学を卒業した」

「というと……僕の六年先輩ということになりますね」

 太郎はうなずき、新たに訊ねる。

「五中はどうだ、相変わらずか」

「相変わらずか、と申されましても明治四十五年の頃を存じません」

 それはそうだ、と苦笑する。

「私は寄宿舎にいたが、君もそうかね」

「いえ、四年までは叔父の家から通わせてもらいました。最後の一年は五女子の下宿先から徒歩で」

「五女子だって? 歩けば一時間以上かかるじゃないか」

「よくご存じで」学生はようやく警戒を解きはじめていた。太郎が名古屋の地理に明るいことを見て取ってのことかもしれなかった。

「母が私以外の家族を連れて父の転任先に行きましたので、そういうことになったのです」

「下宿は金がかかったろう。寄宿舎に入ればよかったのに」

「五年から寄宿舎へ入るのは難しいのです。それに、寄宿舎に入ると、仲間同士つるんで悪さをする輩がいると噂でして。それで母がわざわざ、下宿を探したのです」

 太郎は思わず首をすくめてしまいそうになった。

 仲間同士つるんで悪さをする。――郷愁が湧いてくる。

 内気で本ばかり読んでいて、小学校ではいじめられっ子だった。寄宿舎に入り、誰にも邪魔されずに読書や妄想にふける時間が増え、ますます内にこもるようになるだろうと自分でも思っていた。ところが思いがけず、二人の悪童に好かれるようになり、その二人とつるんである騒動を起こしたのだ。

 蕎麦屋の湯気の中に、愛すべき二人の下級生の顔が浮かんでくる――。

青柳碧人
1980年千葉県生れ。早稲田大学卒業。2009年『浜村渚の計算ノート』でデビュー。『むかしむかしあるところに、死体がありました。』で第17回本屋大賞にノミネート。他の著書に、『赤ずきん、旅の途中で死体と出会う。』(Netflixで映画化)『名探偵の生まれる夜 大正謎百景』の他、「西川麻子シリーズ」「猫河原家の人びとシリーズ」など多くの人気シリーズを手がける。

新潮社
2025年8月20日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

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1896年(明治29年)創立。『斜陽』(太宰治)や『金閣寺』(三島由紀夫)、『さくらえび』(さくらももこ)、『1Q84』(村上春樹)、近年では『大家さんと僕』(矢部太郎)などのベストセラー作品を刊行している総合出版社。「新潮文庫の100冊」でお馴染みの新潮文庫や新潮新書、新潮クレスト・ブックス、とんぼの本などを刊行しているほか、「週刊新潮」「新潮」「芸術新潮」「nicola」「ニコ☆プチ」「ENGINE」などの雑誌も手掛けている。

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