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- ブレイクショットの軌跡
- 価格:2,310円(税込)
作家・逢坂冬馬(あいさか・とうま)のデビュー作にして本屋大賞受賞作『同志少女よ、敵を撃て』を超える傑作が誕生!
自動車期間工の本田昴は、Twitter(ツイッター)の140字だけが社会とのつながりだった。2年11カ月の寮生活が終わる最終日、「ブレイクショット」というSUVの組み立て工程で、同僚がボルトをひとつ車体内部に落としてしまうのを目撃する。その波紋は、やがて想像もつかないところまで広がるのだった……。
接点のない世界で暮らす8人の登場人物が、ブレイクショットという1台の車を通して8つの物語で描かれる。車の所有者が移り変わるにつれ、マネーゲームの狂騒、偽装修理に戸惑う板金工、悪徳不動産会社の陥穽、そしてSNSの混沌と「アフリカのホワイトハウス」まで、複雑なドラマが展開されていく様は圧巻だ。
「該当作なし」で世間に衝撃を与えた第173回直木賞。その候補作『ブレイクショットの軌跡』(早川書房)の魅力を伝えるべく、超豪華な試し読みが実現! 冒頭のプロローグを2万字超の大ボリュームで特別公開します。
プロローグ
〈お給料の出る懲役二年十一ヶ月も、残る勤務日は二日です。気合いを入れて頑張るぞと言いたいところですが、やることは変わらないのであんまり気合いの入れようがありません。最終日のラジオ体操だけは第三までやったりしないのでしょうか。……あれ、ラジオ体操に第三ってありましたっけ?〉
自動車メーカーのロゴの入ったツナギを着て、同様の姿の百名ほどとラジオ体操をしながら、二十八歳の労働者、本田昴は百四十字に収まる短文を考えていた。慣れたもので、大体このあたりが上限だろうと思える文章がすらすらと思い浮かび、人の気をなんとなく引く仕掛けも思いつく。
月曜日から金曜日までの五日間、二年十一ヶ月にわたって繰り返したラジオ体操に果たして第三があったか否かについては、昔はあったとか、曲としてはあるけど放送はされないというような話を、聞いたことがある気がする。勤務時間外にスマホで検索すれば、多分、答えもすぐに見つかるだろう。けれどツイッターには「人に教える」ことが好きな人が大勢いるので、「教える隙」があるツイートにはリプライで正しい情報をくれる人が現れるし、それらのうちフォロワー数の多い人が引用リツイートでもしてくれれば、リツイート数が伸びたり、新たなフォロワーが増えたりということも期待できる。
「でもフォロワーの数を増やすための言葉を考えて、そのために短文を書いていると、そのうち自分の言いたいこと、書きたいことを忘れてしまうよ」
ラジオ体操を終え、作業前の「安全の唱和」を皆と口にする間、世玲奈さんの言葉を急に思い出した。
流れ作業の所定位置について各種用具の指さし点検をおこないながら、昴はそれを聞いたときのことを思った。
確か、あれは五度目のデートのとき。自分が好きな動物園に二人で行って、大好きなライオンやパンダについて色々語っていたら、世玲奈さんは笑って、昴くんは飼育員さんみたいだね、と言ったのだ。昴は、昔は本当に飼育員になりたかったんだ、と言おうとしたけど、なぜかそれが急に悲しく思えて、動物が大好きな人が飼育員になったら数日で動物が嫌いになりそうな気がする、車が好きで自動車期間工になったという同期は三日でいなくなったから分かるよ、と言った。すると世玲奈さんは笑顔を消して、ツイッターにいる人みたいだね、と答えた。実際昴はツイッターをしているし、フォロワーは二千人もいるのだと事実をありのままに言ったとき、世玲奈さんは口調はフラットに、けれど本当に悲しそうな顔でそう言ったのだ。「自分の言いたいこと」が何なのか分からなくて、昴は黙ってしまった。二人の脇を、飼育員さんが通っていった。動物園の制服を着て、制帽をかぶった後ろ姿しか見えなかったけれど、自分は、彼が動物を好きではない、と言い切ってしまったように思えた。その日も世玲奈さんは「最高だったね」とは言ってくれて、デートは終わった。
始業の合図とともに、昴の仕事が始まった。
ベルトコンベアに乗って、秒速五センチの速さで流れてくる自動車に近づき、そこに貼られている「有2、J6、4G有、BR……」といった指示書を読み取って、所定の位置について作業に入る。
昴は自動車期間工を務めている。その名の通り期間を決めて自動車工場で働く労働者のことで、ただの鋼板がプレスされ、塗装され、溶接され、組み立てられ、検査され、誰かの乗る自動車へと仕上げられていく各工程に、それぞれ常時数十名の労働者が割り当てられている。雇用期間は二年十一ヶ月。中途半端なのは、有期雇用の期間が三年以上になると会社は正社員として雇用しなければならず、そのギリギリ手前で終わらせるため。
二度目の期間工となる昴の担当はこのうち「組み立て工程」であり、彼はここでボルトを一日に五千個ほど締めている。もちろん手作業ではなく、「インパクト」という用具を用いて。既に空けられたネジ穴にボルトを当てて、インパクトのスイッチを押すことで作業は完了する。流れ続ける車体一つに費やしていい時間は四十五秒。移動距離にして二メートル二十五センチ。ネジ締めが終わるまえにそれを越えると作業は失敗なので、ベルトコンベアすぐ横の作業停止ボタンを押さねばならない。慣れるまでは、ネジ穴に対してボルトを直角に当てることが難しく、失敗して停止ボタンを押すこともあったが、怒られるかと思いきや、正社員の監督者は、「ナイス報告!」と言ってくれた。してはいけないのは失敗ではなく、失敗を報告しないこと、と研修で聞いた通りだった。
一度目の勤務の後半からはそれもなくなり、「左手に複数のボルトを握りしめて、右手にインパクトを握り、次々とボルトを締める」という作業を何も考えずにおこなうことができる。
できるのだけど、この「何も考えず」という行為は人間にとって意外と難しいため、今日も昴はツイートのことを考えていた。
〈最終日直前に気づいた訳でもないけど『インパクト』って変な名前ですね。スクリューインパクトとかネジ締めインパクトなら分かるけど、『衝撃』って何? と思って社員さんに聞いたら正式名は『インパクト・ドライバー』でした。ドライバーを略していたのですね〉
今ひとつインパクトに欠けるツイートだな、とくだらない感想が思い浮かんで、また世玲奈さんのことを思い出した。あの動物園で会話したとき、世玲奈さんになんと言っただろうか。
昔の人なら、それか才能があれば、短歌でもつくったのかな、と言った。
自分の感じることを五七五七七で述べる才能は自分にはない、とも言った。
世玲奈さんは少しうつむいて、才能もいらないし短歌である必要もない、と答えた。ただ自分の言葉は自分のものであるべきで、誰かに評価されるための道具じゃないし、反対に、きみが五七五七七で短歌を詠めたとしても、歌会の偉い人に褒められるためにどう表現したらよいかと考えるなら、やはり自分の言葉ではなくなるのだ、とも言った。
彼女の言いたいことはなんとなくしか伝わらなかった。世玲奈さんは頭がいい人なのだ、という漠然とした感想だけを抱いて帰った。
提供・協力:早川書房
逢坂冬馬(あいさか・とうま) 1985年、埼玉県生まれ。明治学院大学国際学部国際学科卒。2021年、『同志少女よ、敵を撃て』で第11回アガサ・クリスティー賞を受賞してデビュー。同書は2022年本屋大賞、第9回高校生直木賞を受賞、第166回直木賞候補。2023年には第2長篇『歌われなかった海賊へ』を刊行、第15回山田風太郎賞候補。本作『ブレイクショットの軌跡』は第38回山本周五郎賞候補、第173回直木賞候補となった。
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2025年8月20日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです
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