井上荒野が60代後半の女性3人の暮らしを「食」を題材に描いた小説 『キャベツ炒めに捧ぐ リターンズ』試し読み

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惣菜屋を営む女性三人が、悲しい過去を抱えながらも日々を楽しく生きていく様子を描いた『キャベツ炒めに捧ぐ』から14年――作家・井上荒野さん初の続編作品となる『キャベツ炒めに捧ぐ リターンズ』が刊行されました。

みな60才後半を迎え、今なお仲良く総菜屋「ここ家」を営んでいる江子、麻津子、郁子。しかしそんな「ここ家」に、存続の危機が訪れて――。

女性たちの共感を集めてやまない本作の冒頭を、特別に公開します。

キャベツ炒め再び

 熱中していたら暑くなってきて、江子はマフラーを緩めた。
 赤い毛糸のマフラーだ──緩めるが、外しはしない。森の中でも目立つように、巻いておいてくださいと、案内人の照彦さんから言われている。
 空気は澄んでいて冷たくて、木々はほとんど葉を落としていて、秋の日差しが森の中に届いている。小川に向かって緩く傾斜している地面を、江子は小川と平行に移動している。──と、下方の木の根元に、鮮やかな黄色の塊が見えた。ここへ来てから約二時間、照彦さんからレクチャーを受けてからは一時間で、もう目が慣れてきて、すぐにそれとわかる。間違いない。獲物だ。
「きゃああああ」
 歓喜の叫び──または、第一発見者の宣言──を上げて、江子が斜面に一歩足を踏み出すのとほぼ同時に、ざざざざ、と横からすごい勢いで下降していく黒い物体があった。く、熊? 江子は思わず後ずさった。違うわ、熊は青いマフラーなんか巻いてないわ。
 それは麻津子だった。黒いダウンに黒いズボン、そして鮮やかな青のマフラーという出で立ちの麻津子は、滑降を停止するとともに斜めになった姿勢をすたっと立て直し、先ほど江子が見つけた黄色い塊をむずと掴んだ。
「ジコボウ、ゲットー!」
 掴んだ手をこちらに向かって振り上げて、ニカッと笑う。
「ちょっと、それ、あたしの!」
 江子は地団駄を踏んだ。斜面をずるっと滑り落ちそうになるのを、隣から手が伸びてきてむずっと掴んだ。
「麻津子さんって、案外身体能力高いのよね」
 郁子である。ベージュのマウンテンパーカにデニム、黄色いマフラーを巻いている。三人のマフラーは色違いのお揃いで、郁子の手編みだった。
「私たちもがんばりましょう」
「そうね、そうね」
 江子と郁子は、別方向に歩き出した。この森にはジコボウだけでなく、タマゴタケ、クリタケ、運が良ければマツタケも見つかるらしい。そう、今日はキノコ狩りに来ているのだった。麻津子のさらに下方、川岸に近いところに、麻津子の夫の旬と、照彦がいる。照彦は旬の友人でこの山裾の村の出身の、キノコ採りの名人だ。
 麻津子が企画して、郁子が賛同して、江子が引っ張り込まれた。そういうショートトリップだった。この二年、旅にしてもイベントにしても、大抵この流れになっている。麻津子と郁子は、江子の気を引き立てるべく、あれこれ考えてくれているのだ。もう大丈夫って言わなくちゃ。江子は、この頃いつもそう考えている。でも、自分から「もう大丈夫」って言うよりは、ふたりのほうから「もう大丈夫ね」と言わせたい。そうも思う。だからやっぱり、今日はあたしが誰よりもたくさんキノコを採らなくちゃ。マツタケも見つけなくちゃ。江子は決意をあらたにして、でも、転ばないように細心の注意を払いつつ──悔しいが身体能力はあきらかに麻津子に劣っているらしいので──、斜面を降りた。
 川のほとりで、三人は揃った。同じ方向に進んでいったが、なんとなく競歩みたいな様相になって、どんどん足取りが速くなった。おおーい、あんまり遠くに行くと、熊が出ますよー。背後に照彦さんの声が聞こえる。
「熊なんて、そう簡単には出ないわよね」
 郁子が言い、
「出るわけないじゃん。都会もんだと思っておどかしてるんだよ」
 麻津子が言い、
「鈴だってちゃんと鳴らしてるしね」
 江子も言った。三人とも、照彦さんが人数分用意してくれていた、熊除けの鈴を腰カゴに付けている。
「うおっ」
「あらっ」
「きゃああ」
 三人の声が揃った。前方の木の下に、キノコの群生が見えたのだ。あれはクリタケではないのか。
 駆け寄ろうとしたとき、その木の後ろからぬっと黒いものがあらわれた。三人は同時に動きを止めた。あれは……麻津子さん? じゃないわよね。麻津子さんはここにいるもの。じゃああれは──。
「熊っ?」
「やだ」
「きゃ……」
「しーっ。カモシカですよ」
 三人の後ろで照彦さんが言った。それ──熊ではない、イノシシのような牛のような、よく見ると賢そうな、思索的な顔をした動物──は、三人をじっと見返した。それからゆっくり踵を返すと、森の奥に消えていった。

 競い合って採ったキノコは結局全部まとめられ、照彦さんがあらためて選り分けた後──三人ともかなり慎重に採集したのだが、それでも、食べないほうがいいキノコが一割くらい交じっていた──、キノコ汁と天ぷらとお浸しになった。
 今は照彦さんのお兄さん夫婦が住んでいる、照彦さんの実家での夕食だった。みんなで下拵えして──キノコに張りついている落ち葉のクズを掃除するのがなかなか大仕事だった──、照彦さんが料理をし──三人はかぶりつきで見学していた──、仏壇がある大広間でみんなで食べた。
「はあああ。おいしかったあああ」
 江子は今夜何度目かの、満足の溜息を洩らした。今、三人は食事した和室の隣の十畳間にいる。すでに布団が敷かれていて──照彦さんの義姉さんがこの部屋を用意しておいてくれたらしい──それぞれの布団の上で三人三様ごろごろしている。
「野趣があるっていうか……東京のスーパーで売ってるキノコとは、やっぱりちょっと違うのよね」

井上荒野
東京都生まれ。成蹊大学文学部卒業。1989年、「わたしのヌレエフ」で第1回フェミナ賞、2004年『潤一』で第11回島清恋愛文学賞、08年『切羽へ』で第139回直木賞、11年『そこへ行くな』で第6回中央公論文芸賞、16年『赤へ』で第29回柴田錬三郎賞、18年『その話は今日はやめておきましょう』で第35回織田作之助賞を受賞。他の著書に『もう切るわ』『ひどい感じ 父・井上光晴』『誰よりも美しい妻』『ベーコン』『夜を着る』『つやのよる』『キャベツ炒めに捧ぐ』『リストランテ アモーレ』『あちらにいる鬼』『あたしたち、海へ』『よその島』『そこにはいない男たちについて』『生皮あるセクシャルハラスメントの光景』『照子と瑠衣』『私たちが轢かなかった鹿』など多数。

角川春樹事務所 ランティエ
2025年12月10日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

角川春樹事務所

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