家族のために書かれた未発表の連作など、谷川俊太郎の遺作を含む最後の最新詩集  『ひとりでこの世に』試し読み

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言葉に言わせる

走ってくる人がいる
あ 転んだ
あ 立ち上がった
土手の上に
小さな女の子が立っている
走ってくる人は
どこから来たのだろう

私は走らない
ただ見ているだけ
川向こうの山なみから
霧がゆっくり降りてくる
あ 何か落ちてる
小さな結晶 光っている
拾わない

詩人には自己がない
とジョン・キーツは言った
私はカメレオンマンだ
とジョン・アシュベリーは言った
生命には死ぬ以外に選択肢はない
と死んだXは言っていた
死はただの自然だと私は思う

わざとらしい世の中だ
私の感情は仮死している
走ってきた人が立ち止まる
汗を拭きながら
何かを思い出そうとしている
女の子が泣き出した
バスが通り過ぎる

杖をついて老人が来る
歩くことだけに集中して
ひと足ひと足地面に確かめながら
ゆっくり自分を運んでいる
デスクトップに戻ると
朝書いた何行かが
推敲を待っている気配

自分の本音がどこにあるのか
見当がつかないから
私は私の代わりに
言葉に言わせようとする
すずめの学校の先生にならって
チイチイパッパチイパッパ
愛らしい音が大気に散らばる

谷川俊太郎 Tanikawa Shuntaro
1931年東京生まれ。1952年第一詩集『二十億光年の孤独』を刊行。以来8000を超える詩を創作、海外でも高い評価を受ける。数多くの詩集、エッセイ、絵本、童話、翻訳があり、脚本、作詞、写真、ビデオも手がける。1983年『日々の地図』で読売文学賞、1993年『世間知ラズ』で萩原朔太郎賞、2010年『トロムソコラージュ』で鮎川信夫賞、2016年『詩に就いて』で三好達治賞など。その他の作品に『六十二のソネット』『ことばあそびうた』『夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった』『定義』『よしなしうた』『はだか』『私』『ベージュ』『虚空へ』など。2024年、92歳で逝去。

装画・挿画 酒井駒子/装幀 新潮社装幀室

新潮社
2026年2月2日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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1896年(明治29年)創立。『斜陽』(太宰治)や『金閣寺』(三島由紀夫)、『さくらえび』(さくらももこ)、『1Q84』(村上春樹)、近年では『大家さんと僕』(矢部太郎)などのベストセラー作品を刊行している総合出版社。「新潮文庫の100冊」でお馴染みの新潮文庫や新潮新書、新潮クレスト・ブックス、とんぼの本などを刊行しているほか、「週刊新潮」「新潮」「芸術新潮」「nicola」「ニコ☆プチ」「ENGINE」などの雑誌も手掛けている。

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