怠け者の母親を内職で支える娘、盗みに手を染めた元大工、男を待ち続ける女…高瀬乃一がいわくつきの長屋を描いた時代小説 『うらぎり長屋』試し読み

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2020年に第100回オール讀物新人賞を受賞し、目覚ましい活躍を続ける高瀬乃一さん。この度、江戸の長屋を舞台にした短編集『うらぎり長屋』が刊行された。本所の貧乏長屋に流れ着いた人々を描く、心揺さぶる一冊だ。本作の冒頭を特別に公開する。

 ***

 序
 鮮やかな朱色の着物を身にまとった娘が目に留まった。正面から注ぐ朝日がまぶしくて目を細める。秋も深まり、早朝の風は滑らかで気持ち良い。
 お店の主人が、娘の母親に祝いの言葉を告げていた。結納だろうか。この世の幸せが娘のうるんだ瞳に滲んでいる。
 本来ならば、息子にもあんな可愛らしい娘が嫁いでいたかもしれない。済んでしまったことをあれこれと思い返しても仕方のないことだが、いまだ胸の奥が痛くなる。
「おっかあ」
 息子の声にはじかれて、老母は急いで後をつけていく。竪川には木材を積んだ小舟がゆったりと行き来していた。足元を、羽の破れた赤とんぼがツイと横切る。
「本所ってところはのんびりしているね」
「そうかい」
 そう応えた息子が、一軒の自身番小屋の前で足をとめた。
「ごめんよ」
 開かれた戸から暗がりに向かって息子が声をかけた。入り口のすぐ前の框で煙管をやっている若い書役が顔をあげる。こちらから名乗ると、書役は小屋の奥に向かって「おおい、伝衛門さん。番太郎が来たよ」と声をあげた。
 すると面長の初老の男がのっそりと出てきて「あんたらが後釜かい」とうなずいた。
 先日、この本所入江町の木戸番の番太郎が老齢で役目をおりた。ちょうど家も仕事も失い自堕落な暮らしをしていた息子のために、老母が伝手をつかってこの仕事を引き受けてきたのだ。
「わしは近くで絵草紙屋をやっておるが、いまは裏店を預かっておる」
 今日は自身番小屋に詰めていたので、ふたりを待ち構えていたらしい。
「このあたりはさほど夜の出入りをする者はいないから、役目は楽だよ」
 差配人は、ふたりをすぐ向かいにある木戸番小屋に連れていった。小屋の中は四畳半の畳敷きの部屋とすこし広めの前土間がある。屋根があって夜露がしのげるだけでもありがたい。
「ただ、ひとつ気にかけてもらいたいことがあってね。たまにうちの長屋に無宿者がもぐりこんだり、店子が夜逃げしたりすることがある。見かけたらわしに知らせておくれ」
「夜逃げ?」
 息子と顔を見合わせる。
 なんでも木戸番小屋のすぐ裏にのびる裏路地に、いわくつきの長屋があるという。人が暮らしているのかわからないほどのぼろ家が立つ一画だ。
「ちょいと厄介な長屋でね。なに、幽霊や化け物が出るってんじゃない。お店名は『裏霧長屋』だ。隣にこぎれいな霧左衛門長屋ってのがあってな。その裏にあるから、『うらきり』って名だ。だけど、人はこう呼ぶよ」
 ──江戸で生きづらくなった人が行きつく「うらぎり長屋」ってね。

第一話 ひと時雨


 緑の葉が生い茂る柿の木に、植木屋が梯子をかけていた。根元に霧左衛門長屋に住まう子どもたちが集まっている。
「柿の実を採っちまうのかい? まだ青いのに?」
 鋏で枝を切る職人に、子どものひとりが声をかけた。
「秋に立派な実をつけるために、いらねえ実は切っちまうんだよ」
 小さな青い実が落ちてくると、子どもたちはそれを集めて泥団子がわりに投げはじめた。すると固い実のひとつが、布団を担いで歩く石蔵の足にぶつかった。
「なにしやがる、がきどもめ!」
 怒鳴りつけると、子どもたちは「ウラギリだ、ウラギリだ」とはやし立て逃げていく。
 石蔵は唾を吐き捨て、霧左衛門長屋をあとにした。
 まだ梅雨も明けていないのに、今年はひどく蒸し暑い。下帯姿で仕事をする職人たちが、道端で影を奪い合うように休んでいた。
 だが十日前は、まったく違う光景が広がっていた。まるでこの世の終わりのような風雨が江戸の町を襲い、大川が氾濫したのだ。沿岸の町は壊滅し、多くの住人が家を失った。
(辞めるのが早すぎたなぁ)
 石蔵は舌打ちして、布団を担ぎなおした。町が水浸しになると、大工の稼ぎ時なのだ。手にできた肉刺はすっかり消え、腕の力も衰えている。布団がやけに重く感じた。
 路地木戸に立ちつくしていると、背後から下駄の音が近づいてきた。
「石蔵だね、お隣から聞いているよ」
 振り返ると、初老の面長の男が立っていた。
「裏霧長屋の大家の……河内屋さんかい?」
 これまで暮らしていた霧左衛門長屋と裏霧長屋は、塀を挟んで隣あわせになっている。地主は同じだが差配人は別だ。
「すぐそこの表店で絵草紙屋をやっておる河内屋伝衛門じゃ。売りもんはほとんどない隠居暮らしみたいなもんだがね」
 ゆったりとした口調である。辛気くさい長屋の差配にしては、人の好さそうな大家だった。
 表店と木戸番小屋の間に、路地木戸の門柱が立っている。そこに掛けられた横木に並んだ住民札はすべて朽ちて、いま誰が裏霧長屋で暮らしているか判読できない。そこから下水の通った路地が貫き、両脇にひと続きの屋根の長屋が並んでいた。手前に井戸と厠があり、敷地には周囲の建物の影が落ちている。
 埋まっているのは十二戸あるうちの半分ほど。空き家には表戸に板が打ち付けられていた。
「手前の家を使っておくれ」
 腰高障子は破れ、蜘蛛の巣が張り、杮葺きの屋根からへどろが垂れ下がっていた。
 伝兵衛は腰高障子を少し開け、暗い家の中をぐるりと見まわした。
 

高瀬乃一(たかせ・のいち)
愛知県生まれ。名古屋女子大学短期大学部卒業。青森県在住。2020年「をりをり よみ耽り」で第100回オール讀物新人賞を受賞。その後、「オール讀物」「小説新潮」などで短編を発表、2022年刊行のデビュー作『貸本屋おせん』で第12回日本歴史時代作家協会賞新人賞を受賞、2025年刊行の『梅の実るまで 茅野淳之介幕末日乗』が第38回山本周五郎賞、第31回中山義秀文学賞の候補となる。他の著書に『春のとなり』『無間の鐘』『往来絵巻 貸本屋おせん』『天馬の子』がある。

角川春樹事務所 ランティエ
2026年2月13日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

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