第20回横溝正史賞“落選”の幻の名作がついに文庫化!『ヴィーナスの命題』試し読み

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夏休み、学園のグランドで発見された生徒の死体。自殺? 他殺? 才能溢れる高校生たちの仮説がついにあぶり出す“解”とは?

「読者を選ぶ」ともいわれる難解さゆえに賛否が大きく分かれた野心作。『ヴィーナスの命題』(真木武志・著)を公開します。

 ***

「――だから、これが頂点だと思うんです」

 いいえ――いいえ――そんなことはないわ。あなたは混乱しているの。落ち着いて、ね?

「どうもお世話になりました」

 待って。ねえ、待ってちょうだい。いまどこにいるの? すぐに行くわ。お願いだから待って――

「ごめんなさい。もう答えは出ちゃったんです」

解決前夜

 父さんは缶ビール一本で週末を締めくくり、寝室ではや鼾をたてている。母さんは家中のゴミ箱をさらって半透明のビニル袋にまとめ、足にサンダルをひっかけて勝手口から出ていってしまった。巧は夕食の片づけを終えたテーブルに肘をつき、汗のかいたコップをかたむけて味のない麦茶を舐めている。扇風機のなまぬるい風に前髪を遊ばせながら、ボリュームのしぼったテレビをぼうっと眺めている。

 この十日間というもの、ずっと公民館脇の集積所に野ざらしにされたままの、壊れた衣類乾燥機――きっと母さんの目には映っていないんだろうな、と思う。あれは不燃物の回収日に一家総出で運んでいった、我が益子家からの粗大ゴミなのだ。回収を拒否されてしまったようで、いまではすっかり風景のなかに溶けこんでいる。次の回収日にはきっと。つまり巧もまた見えないフリをしつづけている。

 考えてみれば、こんなコトは日常茶飯事なのだろう。この暑い夏に起こった事件も、結局はそういうコトにするしかないのだろうと思う。

 黛くんは自殺してしまった。

 理由は――知らない。わからない。

 知らないのをいいコトに、彼と彼の死をひっくるめて“箱”にしまったまま、巧は時間の風化にまかせようとしている。かつて黛岳彦という生徒がいたコトさえ、忘却の彼方へ押しやろうとしている。なにしろ最近になって、中学のクラスメートの顔を半分も思い出せないコトに気づいたほどだ。このぶんだと、彼にまつわる記憶が自分の中からきれいさっぱり消えてしまうのも、そう遠い未来のコトではないだろう。

 それ自体は「よい」とも「わるい」ともいうのではなく、ごく自然なコトなのだと思う。自分が自分らしく生きていくだけで精一杯なのに、他人の死をひきうけることなんて、できるはずもないのだから。――巧はテレビ画面にお目当てのCMを見つけ、ニンマリと頬をゆるめる。柳瀬さんが天高く缶ジュースを放り投げ、素早くTシャツとキュロットスカートを脱ぎ捨てて水着になり、落ちてきた缶をキャッチ。パラソルの設営に難儀している男にそのジュースをパスして、「おっさきぃー」と声をあげながら波打ち際めざして駆けていく。後方では男が無言のままプルタブを引き起こして、ぐびりと一口。――彼女がそのスジのプロに見出されて脚光を浴びるのとおなじくらい、当然の成り行きでもあるのだと思う。

 ただ――

 巧はテレビを消して膝を抱えた。

 これは何なのだろう? 薄ぼんやりとしているくせに、しきりと何かを訴えかけてくる、この不安の底堅さときたら、いったい……?

 たとえるならそれは、試験を受けたあとの帰り道。答案の出来映えには自信があるのに、そういえば名前を書くのを忘れていなかったっけ、ひょっとしてマークシートの順番がずれていたのでは――といった、些細ではあっても完全にぬぐい去ることのできない、あの足元を根こそぎ掬われかねないたぐいの畏れにも似ていた。

 あるいは――

 と、巧は奇妙にいろんなコトが重なっていた一週間を振り返る。解きほぐすコトができたはずの、複雑に錯綜した出来事の連なりを、自分はまったく履き違えて“理解”したつもりになっているだけなのでは――

 即ち、彼の死は“自殺”ではなかったのでは……?
 
 
 ――そういうことはね、巧クン。専門家に尋ねてみるべきじゃないかしら。彼のことを、誰よりも一番わかってるはずのひとに。
 
 
 巧は顔をあげた。意味もなく冷蔵庫を見つめてから、目をファックス付きの電話へと移動させていく。

(明日のことは、また明日考えればいいんだ。今日は、まだ今日なんだから)

 自分の頬を叩いて気合を入れた。うん、とひとつ大きくうなずき、日焼けした腕をのばしかけたところ、
 
 
 まだ指先の触れていない電話機が、突然けたたましく鳴りはじめた。
 

真木武志
第20回横溝賞最終候補。惜しくも受賞はならなかったが、綾辻行人氏に絶賛され、2000年『ヴィーナスの命題』でデビュー。

KADOKAWA カドブン
2026年7月21日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

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