感動という言葉では足りない、必読の家族小説 木内昇『かたばみ』試し読み

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太平洋戦争直前、日本女子体育専門学校で槍投げ選手として活躍していた山岡悌子は、引退して国民学校の代用教員となった。西東京の小金井で教師生活を始めた悌子は、幼馴染みで早稲田大学野球部のエース神代清一と結婚するつもりでいたが恋に破れ、下宿先の家族に見守られながら生徒と向き合っていく。やがて、女性の生き方もままならない戦後の混乱と高度成長期の中、ある事情で家族を持った悌子の行く末は……。

『かたばみ』(木内昇・著)より、「第一章 焼け野の雉」の一部を公開します。

第一章 焼け野の雉

 肩の調子が、だいぶいい。ここへきて、陽気がゆるんできたおかげだろう。今朝方まで降っていた雨はさっぱり上がり、朝日を浴びて地面から健やかな湯気が立ち上っている。

 山岡悌子は、誰もいない校庭にひとり仁王立ちし、鼻の穴を目一杯押し広げて息を吸い込んだ。さっき生まれたばかりのまっさらな空気が、体の隅々にまで行き渡る。

「よしっ」

 吐き出す息にのせて言い、かたわらに立てかけてあった槍を手にする。

 昭和十八年に入ってはじめての投擲である。昨年秋に肩を壊してからこっち、治療に専念するため競技会への参加はおろか、練習も自制していたのだ。もっとも戦争が激しくなってからは、競技会自体も減っていた。

〈不要不急の一般人の、県をまたいだ移動を禁止する〉

 政府が出したお触れによって、全国から選手を集めることすらままならないからだ。のみならず、日華事変以降、競技人口も減少の一途をたどっている。悌子が指導研修生として所属する日本女子体育専門学校も、ここ数年、志願者数は右肩下がりなのだった。

 槍の把手を右手でつかむ。重心が前方にくるよう測って巻き付けた紐を、親指と中指で挟み込んでしっかり支え、残り三本は柔らかく添える程度にする。あえて軽く握ることで、長い助走の間に槍が上下左右にしなってぶれるのを防ぐのだ。

 肩の上に槍を持ち上げると、鎖骨あたりにかすかな痛みが走った。

「なんの、これくらい」

 自らを鼓舞するように唱えてから、大きく一歩踏み出す。はじめはゆっくり歩幅をとって。そこから次第に加速をつけ、踏切線が見えてきたら、走りながら体を斜め横にひねっていく。槍を持つ、親指と中指に力を込める。そのまま横向きになって、左右左でトントントトン、とリズムを刻んでステップを踏み、槍を右後方四十五度の角度に引いたら、耳をかすめて前方に腕を振り切る。

「んぬぅやぁっ!」

 張り上げた声が、鋭く朝靄を切り裂いた。槍は朝日を受けて煌めきながら美しい放物線を描き、やがて渡り鳥が降り立つように優雅に穂先から着地した。

 ほぅっと息をついたとき、控えめな拍手が背後に立った。振り向くと、いつの間にか学生が数名、並んで見物している。

「さすが、先生。去年の故障の影響は、もうございませんのね」

 ひとりが大仰に称えると、まわりもそれに続いて、

「このままお続けになったら、真保正子さんの記録も塗り替えるんじゃないかしら」

「次のオリンピックは絶対ですね」

 などと、口々に盛り立てる。彼女たちの称揚がいずれも学芸会の台詞よろしく大仰なのは、悌子がもうすぐ、この学校を辞めることを耳に挟んでいるからだろう。

「私は研修生としてみなさんの指導に当たっているだけで、正式な教員じゃあないんだから、先生と呼ぶのはおかしいと何度も言ってるはずですよ」

 彼女たちからひしひしと伝わってくる、悌子を引き留めんとする気持ちをありがたく受け止めつつも、知らぬ素振りで返した。

「それに戦争が長引けば、次のオリンピックがどうなるかわからないですからね。さきおととし開催されるはずだった東京オリンピックも、戦争のおかげで返上されましたしね」

木内昇
1967年、東京生まれ。出版社勤務を経て、2004年『新選組 幕末の青嵐』で小説家デビュー。08年に刊行した『茗荷谷の猫』が話題となり、翌年、第2回早稲田大学坪内逍遙大賞奨励賞を受賞。11年に『漂砂のうたう』で第144回直木賞を、14年に『櫛挽道守』で第9回中央公論文芸賞、第27回柴田錬三郎賞、第8回親鸞賞の3つの賞を受賞。23年、本書で高知市の書店員・山中由貴さんがお客様に読んでいただきたい作品に贈る賞、第10回山中賞を受賞。25年、『雪夢往来』で第31回中山義秀文学賞と第52回大佛次郎賞を、『奇のくに風土記』で第53回泉鏡花賞を、『惣十郎浮世始末』で第19回舟橋聖一文学賞をそれぞれ受賞。他の作品に『ある男』『光炎の人』『球道恋々』『火影に咲く』『化物蝋燭』『万波を翔る』『剛心』『きみがなきあと』など。

KADOKAWA カドブン
2026年7月21日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

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