ドラマ化で話題「コンビニ兄弟」シリーズ著者・町田そのこが贈る 全5編の短編集『あなたはここにいなくとも』試し読み

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恋人に紹介できない家族、会社でのいじめによる対人恐怖、人間関係をリセットしたくなる衝動、わきまえていたはずだった不倫、ずっと側にいると思っていた幼馴染との別れ……。

後悔とその先の人生にあたたかな救済をもたらす全5編の短編集『あなたはここにいなくとも』(町田そのこ・著)より、デビュー作「カメルーンの青い魚」と同時期に書かれた幻の短編「くろい穴」の冒頭を公開します。

くろい穴

 八百清(やおせい)の肇(はじめ)さんは、私のことを『チヨさん』と呼ぶ。それは私の名前ではない。私の祖母の名前だ。世間話をしていた際に、偶然にも、私の祖母と、肇さんの亡きお母さんの名前が一緒だと分かった。それだけの理由で彼は、私を『チヨさん』と呼ぶようになったのだ。

「チヨさん、こんなに栗を買ってどうするんだい」

 土曜日の夕方、笊(ざる)二盛分の生栗を買い求めた私に、彼は不思議そうに訊いた。

「一人暮らしだろう? 毎日栗ご飯でも作る気かい」

「ううん、違うの。渋皮煮を作るの」

 お金と大きく膨らんだビニール袋を交換して、私はもう一度言った。

「明日は渋皮煮を作るの。チヨさん直伝の、渋皮煮よ」

 蜆の(しじみ)ような小さな目をくるりとさせて、それから彼は笑った。ああ、いいねえ。あれはとても美味い。さすがチヨさんだ、そんなことまで孫に教えてるんだねえ。

「美味しくできたら、おすそ分けを持ってきます」

「やあ、嬉しいねえ。じゃあ、栗をもう少しおまけしておくとしよう」

 そうして、また少し膨らんだ袋を持って、私はアパートへと戻った。

 駅前商店街から徒歩二十分のワンルームのアパートは、狭いけれどとても居心地がいい。私の部屋は三階で、南向きに大きな掃出窓があって、一畳ほどのベランダがある。窓からの景色は、あまりよくない。アパートの裏側は霊園になっていて、みちみちと墓石が並んでいるのだ。しかしそのお蔭で、家賃は格安。ときどき法要のお経が風に乗って聞こえてくるけれど、普段は騒音とはまったく無縁で、とてもいい部屋だ。

 家に帰った私は、持ち前の中で一番大きな瑯鍋琺(ほうろうなべ)に水を張った。買ってきた栗を放つ。一晩じっくり水に漬けて、鬼皮を柔らかくするのだ。その後、夕飯にキャベツとウィンナーのペペロンチーノを作った。それをお箸で食べながら、携帯電話でメッセージを打つ。

『明日、奥様のために渋皮煮を作ります。夜に、取りに来て下さい』

 奥様に、ってわざと入れた。それくらいのことしてもいいよ、ともうひとりの自分が言う。自分の奥さんのために栗の渋皮煮を作ってくれ、なんていう図々しい願いを聞いてやるのだ。それも、不倫相手である私に。これくらいのこと、嫌みにもならないよ。

 つるつるとパスタを啜り、ゆで過ぎて歯ごたえのなくなったキャベツを嚙む。皿を洗い、お風呂に入って、ベッドに潜り込んだときにようやく返信が来た。

『十九時に行きます。よろしく』

 事務的な内容に、いちいち既読を付けなきゃよかったと思いながら目を閉じた。

 翌日は、快晴だった。

 日曜日の朝が晴れているというのは、嫌なものだ。外に出て早く何かしなくてはいけないのではないかと無駄に気忙しくなってしまう。カーテンの隙間から力任せに入り込んでくる光にうんざりしながら、ベッドから這い出た。せーのでカーテンを開けて、いつもと同じように詰まっている墓石たちを見下ろす。彼岸の中日のせいか、菊の花がそこかしこに見えた。

「さて、美鈴(みすず)ちゃん。今日はチヨ直伝の渋皮煮をこしらえましょかね」

 北九州で一人暮らしを営んでいる父方の祖母、チヨさんの口真似をして、私はのそのそと朝の身支度を整える。それから、お気に入りのライオンコーヒーを淹れ、買い置きのマフィンで朝食をとった。 渋皮煮で面倒なのは、やはり最初の鬼皮剝きだろう。固い皮を剝くのはとても疲れる。しかも、内側の渋皮を傷つけないようにしなくてはいけないので、やみくもに力を入れて刃を立てればいいというものでもない。

 掃出窓の前に、新聞紙を敷いた。そこに、栗の入った琺瑯鍋と笊、水を張った大きあぐらなボウル、ナイフを並べる。胡坐をかいた私は、水に浸かっていた栗を手にとった。刃を当てて、ゆっくりと皮を剝いていく。

 八百清さんの扱う品は、瑞々しくて状態がいい。葉野菜はぴんと張っていて、根菜はがっしりと重い。果物は甘くて、外れを引いた試しがない。この栗も、当たりだ。どれもがふっくらと丸みを帯びていて、鬼皮がやわらかくて薄い。水に漬けていると質の悪いものはぷかりと浮いてくるはずだけれど、それもない。肇さんの商品を見る目はとても確かだ。

 水気をしっかりと含んだ皮は、少しの力で削れた。刃を入れてぐっと引けばそれだくちずさけで剝ける。私は前のめりになり、時折気に入っているアーティストの新曲を口遊みながら、鬼皮を剝いた。網戸にしているので、そよそよと秋風が入り込んでくる。垂らした髪が揺れて邪魔になったので、黒ゴムを探して後ろでひとつに纏めた。前髪はアメピンで留める。 渋皮だけになった栗を、ボウルにどんどん入れていく。笊にはぺらぺらの鬼皮が溜まっていった。半分ほど剝き終わったところで、ふうと息をついて手を止めた。水にずっと触れていた手はふやけ、爪の間には茶色い滓(かす)が入り込んでいた。親指にはいつの間にか、幾つかの切り傷が出来ていて、うっすらと皮が捲れている。爪先がピリピリと痛んだ。

 大きく伸びをしてからだをほぐす。腰の辺りがぱきぽきと鳴った。

「ああ。私、何やってるんだろ」
  
以上は本編の一部です。詳細・続きは書籍にて

町田そのこ
1980(昭和55)年生れ。福岡県在住。2016(平成28)年「カメルーンの青い魚」で「女による女のためのR-18文学賞」大賞を受賞。選考委員の三浦しをん氏、辻村深月氏から絶賛を受ける。翌年、同作を含むデビュー作『夜空に泳ぐチョコレートグラミー』を刊行。2021(令和3)年『52ヘルツのクジラたち』で本屋大賞を受賞。他著書に『ぎょらん』「コンビニ兄弟 テンダネス門司港こがね村店」シリーズ、『あなたはここにいなくとも』『蛍たちの祈り』『彼女たちは楽園で遊ぶ』『ハヤディール戀記(上)(下)』などがある。

新潮社
2026年7月21日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

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1896年(明治29年)創立。『斜陽』(太宰治)や『金閣寺』(三島由紀夫)、『さくらえび』(さくらももこ)、『1Q84』(村上春樹)、近年では『大家さんと僕』(矢部太郎)などのベストセラー作品を刊行している総合出版社。「新潮文庫の100冊」でお馴染みの新潮文庫や新潮新書、新潮クレスト・ブックス、とんぼの本などを刊行しているほか、「週刊新潮」「新潮」「芸術新潮」「nicola」「ニコ☆プチ」「ENGINE」などの雑誌も手掛けている。

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